トップページ / 南島学ヱレキ版 / 2010年3月号 「特攻」の記録と痕跡(橋爪太作)
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「特攻」の記録と痕跡――社会的記憶と個人的記憶の間で(橋爪太作)

特攻死はいかにして社会的に解釈されてきたか

21歳の女学生が親友を立ち会いに火口へ飛び込んで以来、立て続けに944人が自殺した三原山自殺が起きたのが1933年。自殺ブームと言われたこの年の後も自殺率は伸び続け、同1936年には自殺者数が戦前最高の1万3611人に達する。1920-30年代といえば、日清日露の両戦役および第一次世界大戦での軍需景気を経て、日本に資本主義と重工業が本格的に浸透してきた時代であり、文化や政治の分野でも大正デモクラシーに代表される自由主義と西欧化が進展した時代でもある。ところが、真珠湾攻撃後自殺者数は一転して減少に転じ、昭和18年にはピーク時の半数である8784人となる。連合国、とりわけアメリカの影響下で民主化が推し進められた1940年代後半も、やはり自由と混乱の時代であったが、敗戦を挟んで統計調査が再開された1947年からはまた一転して自殺率は急速に上昇し、現在まで一貫して戦前の水準を上回っている。

1930年代と1940年代後半という二つのアノミー状態にはさまれた1940年代前半に、社会的に「自殺」とみなされる死が急激に減少していたというのは興味深い。戦争は社会統合を強化し自殺を減少させるというデュルケーム自殺論の有名な仮説を実証しているかのように、この時期の日本社会が戦争遂行というひとつの目的のために一致団結していたことを示している。しかし、ちょうどその時期に、「特攻」というきわめて異常な戦死者が大量に作りだされていることもまた周知の事実である。この自殺の激減と強制された戦死は、どちらも同じコインの裏表という感を強く抱かせる。以下のような疑問を発してみても良いかもしれない。第2次世界大戦中の日本で自殺が減っていた裏には一体何があったのか?戦争末期に日本軍によって行われた組織的自爆攻撃「神風特別攻撃隊」は、あるいは自殺として見なされうるのか?

デュルケームの定義した「自殺」—「死が、当人自身によってなされた積極的、消極的な行為から直接、間接に生じる結果であり、しかも、当人がその結果の生じうることを予知していた場合を、すべて自殺と名づける。」(デュルケーム『自殺論』p.22)—に従えば、特攻隊員たちは命令による強制はあったとしても最終的に自らの意思によって特攻兵器を操縦し、死と引き換えの標的破壊を目的としていたので、彼らの行為は自殺にきわめて近いと考えられる。さらにいえば、自殺の四象限のうち、集団本位かつ宿命主義の第四象限に入る、きわめて伝統的な自殺パターンである。

当時の公式イデオロギーもそれに近接すると言っていいだろう。特攻は兵力不足のためのやむにやまれぬ戦闘行為[1]であり、戦死者は国体護持という正義のために自らの身を捧げる。日本国家防衛のため戦うという点で一般の戦闘行為と同じだが、一点大きく異なるのはそれが戦闘者の死が当初から予定されている異常な作戦であるということだ。全員生還を理想とする通常作戦においてまず重視されるのは攻撃コストと戦術効果の収支決算であるが、「死」ということを最初から目的のうちに繰り込んでしまうこの種の自殺攻撃には、生者の経済学を超えたところで供儀めいた聖性が発生してしまう。同時代におけるニュース映画や新聞などメディアを通じた戦意高揚宣伝や国家神道による特攻死の祭祀、戦後には「きけ、わだつみのこえ」をはじめとする隊員の遺書の公刊や特攻を扱った多くの文学・映像作品など、特攻をめぐる言説は過剰なほど語られ続けてきたが、それも、巨大な国家的供儀装置の残骸からなお発しつづけられる放射能の如き聖性の残存に関連するところが大きい。

しかし、特攻をめぐる言説の系譜において看過されるべきではないのは、占領軍による国家神道の解体と現人神として了解されていた特定の身体の人間化という、敗戦日本を襲ったイデオロギー上の大変化である。というのも、それら戦前イデオロギーのシステムが解体されたことにともなって、特攻行為の帰着点としての「国体」が消滅してしまったからだ。もし日本が引き分けかそれに近い状態で「終戦」に持ち込めていたとしたら、天皇と靖国神社は戦後の大日本帝国でも行為の志向される中心点であり続けただろうし、特攻隊員たちの死をめぐる言説も、ある程度一義に確定可能であったろう。しかし、現実には特攻隊員たちが命を懸けて守ったはずの「大日本帝国」は、すでに「日本国」へと転換しつつあった。

「彼らは○○のために命をかけて戦った」—特攻を扱った作品によく見かける表現だが、○○の内容が「国家」でも、はたまたその戦後的等価物である「家庭」や「母親」でも、本当は何も変わらないのではないか。特攻という行為を意味付ける対象としての国家や家庭は、どれもある歴史的な状況が差し出す「その社会を生きる人にとって大切にしなければならないとされているモノのリスト」であって本質的に恣意性をはらんでおり、そのようなものを死という一回性の行為に関連付けることは、特攻死をよくいって全く無意味で空虚、もしかすると後世にとって有害きわまりない行為であるとみなしてしまうことにつながる。

このことをもう少し詳しく考えてみよう。個人の自殺の場合、抗議のための焼身自殺といった少数の例外を除けば、彼の行為は彼自身のエゴイスティックな要因(体調不良、人生設計の失敗等)、あるいは原因不明ということへ帰着されることが多い。故に個人的自殺は社会にとっての損失にして逸脱行為、そして絶滅するべき有害物である。どんな凶悪犯罪者であろうと自殺を喜ばれることはほとんどないが、我々はその時、「死刑にする手間が省けた」とは考えず、「死刑から逃げやがって、けしからん」あるいは「これでちゃんと裁く機会が永久に失われてしまった」と考えているはずだ。

ところが特攻のように組織的に行われ、しかも行為の帰着点として国体という超国家的シンボルが与えられた集団本位的自殺となると、逆にそこでは死こそが社会への究極的順応であり、生きながらえることは逸脱とみなされる。自ら意図して航空機を敵艦に体当たりさせて死ぬことと自ら意図して縄で首を括ることは、どちらも確実な死を意図した行為であるが、前者はここではプラスの意味を持つ。しかし一旦その社会を支えていた意味の体系が崩壊してしまうと、かつて社会的に正当な行為とみなされていた特攻死は普通の自殺と同じレベルに引き戻されてしまう。

とはいえ、共有されたコミュニケーション体系として死への志向が課せられていたという過去は、本人が死ねばそれでお終いの孤独な内面とは違い、一朝一夕に消え去るものではない。多くの遺族、元隊員、関係者たちの中に、「特攻」の失われた意味を何とかして再構築しようという意識が芽生えてきてもおかしくはない。その際、ベタに「○○のために死んだ」と言ってしまうか、「意味ではなく意気に感ず」の類のように、死の過程それ自体の強度を問題とするか、あるいは「間違った権力によって死へと追いつめられた若者の悲劇」というように、集団本位的自殺ではなく集団本位的他殺の線で解釈がなされるかはあまり問題ではない。右派左派問わず、敗戦後に特攻を語ることは、人間存在の無根拠性という深いニヒリズムを背負い込まざるを得ないのである。

現代美術家の会田誠が90年代後半に製作した連作「戦争画RETURNS」の番外編として刊行されたマンガ「ミュータント花子」は、こういった特攻言説の現代における状況を露悪的に象徴しているといえるだろう。そもそも「戦争画RETURNS」自体、1965年生まれの会田が「戦後平和ボケ世代の代表として戦争を描く」というコンセプトの作品であるのだが、「ミュータント花子」ではそれがさらに極端に推し進められ、「竹槍という、日本の特殊だった戦争のある部分を象徴する、悲しいほど非力な武器を持った少女が、しかしその剣先から強力な破壊光線を発して連合軍を蹴散らしている」(会田誠『ミュータント花子』著者あとがき)という、戦後サブカルチャーとしてのオタク文化によってパロディ化された特攻神話[2]が構築されている。

会田の「芸術作品」は、「芸術」という自律性の高いシステムのコミュニケーションとして接続されているが、これを他のシステムとの浸透関係が強いシステム、たとえばマンガや評論のような出版メディアに置くと、すなわち「ゴーマニズム宣言」「国民の歴史」となる。逆に言えば、それら90年代の歴史相対主義的保守言説を、芸術システムにおいて観察・反復したものが「戦争画RETURNS」であるとも言える。しかも、その後00年代に入って製作されたいくつかの太平洋戦争物映画ではマンガやアニメから発想を得たと思われる設定[3]が散見され、しかもそれらはかなりのヒットを記録しているという事実を考えあわせると、会田の言う「<戦争にすっかりリアリティーを失っている>という世代的なリアリティー」(前掲書)は、9.11以降も日本社会を覆う空気として根強いものがあるのではないか。

例外としての生存者

神の正義の実現/誤った政治体制の犠牲、自殺/他殺—特攻行為の社会的解釈にはいくつかの有徴項が見出せるが、それをαからδまでの四象限にカテゴライズして図示したのが以下の図である。特攻解釈の四象限αとγは従来の右派-左派対立であり、βとδはポストモダン以降の相対主義における歴史解釈の対立である。もちろん、現実にはこれらの理念型は複雑に組み合わさっており、とくに近年ではαとδ、βとγはお互いに包摂しあう関係にある。

これらの公的言説は、圧倒的多数が特攻によって死んだ者に関するものである。そこから弾き出された「死に損ない」としての元特攻隊員は、戦後「特攻崩れ」という被差別性を帯び、あるいはその過去を隠し、ひっそりと生きなければならなかった。

元隊員の内でも特攻部隊に配属されただけで実際に出撃しなかった者は、証言を通じて死んでいった者たちを理想化して哀悼することで己の呪われた聖性を洗い流し、特攻をめぐる社会的コミュニケーションに接続できただけ、まだ良い。しかし、これはあくまで公的に流通する特攻言説の、つまりマクロのレベルでの認識に過ぎない。社会的記憶を構成する一人一人のミクロな記憶にまで降りてゆくと、もう少し違った風景が見えてくる。

ルポライターの日高恒太朗は特攻帰還者のモノグラフを分析するなかで、その多くが特攻部隊に招集を受けただけで敗戦を迎えたか、あるいは基地までは行っても実際には飛ばなかった人によって書かれていると述べている。問題は、本来「飛び立ってから先」は不可知な空虚であるべきなのに、実際は一度爆装して飛び立ったものの機体故障のため途中で沖縄到着を断念した不時着経験者が少なからず存在することである。彼ら特攻出撃の生還者達は、ある種の罪やタブーの意識にさいなまれ、実際に出撃しなかった同僚達のようには自らの体験を積極的に語ることが無かったのではないかと推測している。彼は海軍の極秘記録を引用し、以下のように書く。

出撃しながら引き返してきた搭乗員を、上層部がどのように見ていたかを示す資料がある。特攻隊の出撃現場で作戦ごとに報告作成された「戦闘詳報」(軍極秘)を復刻した『海軍特別攻撃隊戦闘記録』(アテネ書房)という研究叢書に次の一節があった。

<(特攻隊員のなかの)一部ニハ素質ニ於テ極メテ見劣リシ真ニ悠久ノ大義ニ生キントスル精神ニ乏シク>—何度出撃しても、そのたびにエンジン故障などのいい訳をつけて帰投する者は、素質の悪い憶病者だと決めつけているのである。

ここに戦後のある時期まで、父親の世代の間でヒソヒソ囁かれた生き残り特攻隊員のタブー話が生まれる素地があった。

(日高恒太朗『不時着』p.93)

日高によれば、生存者の声は臆病な脱走者と後ろ指差される恐怖の裏で抑圧されていたという。「一度飛び立ったら、帰ってくるな」という上層部の暗黙の圧力が、戦後も形を変えて存在していたのである。

特攻機の不時着事件を追ったノンフィクション「不時着」の中で最大の紙幅を割いて描かれているのが、予科練出身の元特攻隊員にして海軍研究者である桑原敬一である。彼は1926年生まれ、1942年に海軍乙種飛行予科練習生第十八期生として土浦海軍航空隊に入隊し、のちに神風特別攻撃隊の搭乗員として鹿児島串良基地に配属。二度特攻出撃を行うがどちらもエンジントラブルで不時着し、敗戦まで生き延びる。戦後は経営コンサルタント業のかたわら海軍研究を続け、1984年に自費出版で「語られざる特攻基地・串良[4]」を刊行している。

不時着経験者が自分の体験を公表することは少ない中で、桑原は異例の存在である。そこには、彼をして特攻体験の探求へと向かわせたある「事件」がある。

戦後も二十二年が過ぎた年の秋、乙種予科練の親睦団体である「雄飛会」経由で、イタリアのテレビ局がインタビューを申し込んできた。予科練出身の元搭乗員達が集まるというので、撮影の場所に指定された東郷神社に行った。二十数名の人たちのなかで、実際に搭乗員経験のある者は先輩である二人と桑原を入れた三人だけで、特攻隊員として出撃した経験を持つものは彼一人であった。

畢竟、司会のイタリア人の質問の多くは桑原に向いた。

<中略>

「イタリアの場合命令であったが、日本の場合(特攻は)自らの意志であったか、それとも命令であったか」

東京裁判以降、外国人記者たちにとって、「カミカゼ」は彼らの価値観を超えた驚異の事象として報じられた。記者たちの質問に「元特攻隊員たち」—多くは出撃経験を持たない人たち—が、「特攻は自発的に起きたもので、強制ではなかった」と答えることが多かったためである。たぶん、イタリア人インタビュアーは同様の紋切り型の答えを想定して、その質問を最初に持ってきたのだ。

「一概にはいえない。私の場合は形式的には志願ということになっているが、実際は指名、つまり命令だった」

「死ぬことに恐怖を抱かなかったか」

「死を恐れない人間がいるだろうか。特攻出撃までの日々は、苦悩そのものとの闘いで、体験した者のみが知る複雑で悲痛な心境であった。私は本音を言えば死にたくなかったし、怖くなかったといえば嘘になる。しかし、軍人である。命令は鉄の定めだ。悲しい運命とただあきらめるより仕方がなかった」

そのときだった。成り行きを見守っていた予科練の同窓生たちの間から、忽然と非難の声が沸き起こった。

「死ぬのが怖かったとは何事か」

「情けないことをいうな」

「予科練の面汚しだ。取り消せ」

<中略>

望まぬ「死」を目前に突きつけられた人間は、最後の土壇場まで抗うものではないか。実際に死を覚悟して出撃した自分たちと特攻の順番待ちであった彼らとのあいだにある意識の差を思わざるを得なかった。

(日高前掲書p.96-98)

共に「その時」までの生の日を数えていた仲間であったはずが、実際に出撃を経験したかしないかというただ一点において戦後全く異なった解釈を持つようになったという経験は、きわめて強烈なものであっただろう。彼の著書には、「我々もすぐに往く」と言いつつ若者たちを次々と送り出した上官や実際に体験してもいない特攻を尤もらしく語る元特攻隊員への怒り、そして特攻という運命を選ばされた孤立感が切々と綴られている。

桑原はその著書の中で、この理不尽な運命に立ち上がって反抗した、つまり自ら意図して不時着を行ったとは決して言わなかった。そういった人々の存在自体は伝聞というかたちで紹介してはいるが、それを自身に当てはめることは絶対に認めていない。しかし、この文章を読んだ搭乗員経験がある別の元特攻隊員は、二度目の不時着を語る文章がきわめてそっけなく数行ほどに収まっているのは、一回目の不時着の時のドラマチックな描写と較べるときわめて不自然であり、この不時着が意図的であることを暗に示しているのではないかという(日高前掲書p.172-173)。

特攻言説の公式地図には必ずしも適合しない証言は、他にもいくつかの記録に見ることができる。日高は鹿児島県串良町にあった特攻基地の周辺に住んでいた老人から、現地で懇意になった女を戦闘機に隠し、一緒に逃げ出した予科練出身の飛行兵の話を聞いている(日高前掲書p.116)し、また、この話に直接対応する語りが、文化人類学者の稲垣尚友が1960年代の鹿児島県トカラ列島臥蛇島で採集されている。

臥蛇島に昭和二十年の夏、旧暦の盆に入る少し前に、どこからか飛行機が飛んできた。部落の上空を三度旋回してから、飛び去った。太平洋戦争が最終段階に入り、沖縄が米軍の配下に置かれると、日本本土へ空爆が激しくなった。朝、編隊を組んで北上するB二九型爆撃機が、帰路に十島村の島々にも爆弾を投下した。だから、沖に舟を出して漁をすることもできない。

旋回機を仰ぎ見た二三日後、島のひとりの青年が上空の様子をうかがいながら、丸木舟を漕ぎ出した。島の東にあるハマに魚釣りに出かけたのである。サンゴ棚が沖にせり出しているキクハマの沖に到達すると、そこには、胴体に日の丸を染め抜いた戦闘機が浮かんでいた。南北に長く伸びたハマの北端に、ひと組の男女がうずくまっていた。

話を聞いてみると、満州から飛んできたのだが、燃料が切れてこのサンゴの棚に不時着したのだという。女は看護婦とのことだった。見覚えのある機体が波にもてあそばれている。ふたりはケガもなく軟着陸に成功して、陸に上がっていたのだった。険しい崖に囲まれたハマには外に通じている山道があるとも思えない。集落がどの方角にあるのかも分からず、貝を捕っては食糧にしていた。

青年に発見されたとき、男の足は丸太のようにむくんでいた。脚気の症状を表していた。女はいたって元気で、妊娠した腹を抱えながら、自力で山道を歩けるほどだった。青年は舟をハマに舫ってから、男を背負って陸路で部落に戻った。

<中略>

いつの日からか急に爆弾の投下がみられなくなった。飛行兵たちが不時着してから四〇余日後の、旧暦の八月一五夜の満月の晩、皆が綱引きに興じている最中に、一艘の丸木舟が船着き場から、湖面のような凪の外海に滑り出した。臥蛇島を後にしたふたりは、翌日の夕方に、北沖に浮かぶ黒島に辿り着いた。帆の操り方は、島の者に手ほどきをしてもらっていたので、それを活かすことができた。そこからは屋久島が目の前に見える。ふたりは舟をさらに屋久島に進め、尾之間という港に入れた。

(稲垣尚友『オヤコ・ヤド』(未発表稿)p.33-34)

当時の戦闘機で航続距離は平均2000キロ程度。旧満州の大連からトカラ列島までの直線距離はおよそ1400キロほどであるから、彼らが満州からやって来た脱走兵である可能性は否定できない。しかし、串良町の老人の話と照合せずとも、彼らが特攻基地よりの脱走兵である可能性は極めて高い。この時期の満州において、ソビエトの不可侵条約破棄の可能性という脅威は未だ顕然化してはいなかっただろうし、何より大陸から脱出するのに、わざわざ進路を南にとって小さな島に不時着するというのはリスキー過ぎる戦略である。島伝いに飛行していた特攻機のパイロットと考えた方が、トカラ列島に不時着する理由としては合理的である。おそらく戦争がすぐに終わるということを漏れ聞いて、それまでの時間稼ぎに懇意の女と脱走を図ったのであろう。

稲垣は同列島主島である中之島における不時着機の記録を調べ、戦時中の南西諸島に特攻機の不時着が少なからずあったことを示唆する。

不時着機は諏訪之瀬島にも、平島にも、それから、北隣りの中之島にも降り立ったが、ここでは資料のしっかりしている中之島の分を列挙してみる。現地の小中学校の校長を務めていた宮山清氏が日記に、克明な記録を残している。

昭和二〇年

四月一六日

佐藤少尉(零戦)

中之島の水池

同年

四月一六日

初島上等飛行兵曹機(紫電)

同年

四月一六日

崎田軍曹機(桜花)

同年

四月一六日

六九震武隊河村少尉

中之島白木の山中

同年

四月二九日

秋村伍長機

中之島のヤルセ

同年

四月二九日

田丸曹長

中之島の水池

同年

四月二九日

他の一機(乗員ふたり)

中之島の山の上

同年

五月一九日

諏訪之瀬島に不時着の松原少尉外四名、小伝馬船で中之島到着

(五月一九日は中之島到着日であり、飛行機の不時着の月日は不明である—筆者)

異常とも思える頻度である。それと、集団での不時着である。この他にも不時着機があったようだが、記録にない。最後から二番目に挙げた一機の乗員の生死は分からないが、他は全員ケガもなかったようだ。本土の基地から飛び立って、沖縄へ向かう途中の飛行であったのだろうか。ただ、四月一六日着の初島兵曹機だけは、特攻機ではなく、護衛戦闘機であった。その日も、奄美大島の喜界島上空でグラマン機と空中戦を繰り広げ、相手の二機を撃墜しての帰還の途次であった。どの飛行機も、機関の故障で不時着を余儀なくされたようだ。飛行兵たちは、後日の迎えの発動機船に乗せられて、島を後にしている。再度の出撃で戦死した飛行兵もいる。一度だけ、憲兵かどうかは分からないが、連行されるようなかたちで島を離れた飛行兵もいたという。これは、戦後、中之島に入ってきた開拓民の半田正夫氏が耳に入れた話を、わたしがまたぎきしたものである。

(稲垣前掲書p.34-35)

中之島は比較的国家権力の力が及び得る大きさの島(トカラ七島で一番大きく、駐在所がある)であり、また、沖縄戦の敗北が近いとはいえ、敗戦までまだ4ヶ月の間がある頃であれば、先ほどの女連れの不時着飛行兵のようなあからさまな脱走行為はない。稲垣氏が引用している宮本清氏の著書「黒潮の譜」でも、「二十二日に迎えの発動機船が来たので、皆で四人を海岸に見送った。命を国のために捧げてまた出撃するであろう若い特攻兵たちのことを思うと、唯涙するばかりであった。」(宮本清『黒潮の譜』p.21)という記述がされている。しかし、もう一方で「連行されるようなかたちで島を離れた飛行兵」もまた、「また聞き」という曖昧なエアポケットの中に存在している。

特攻の記録と痕跡

現代イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンは、著書「ホモ・サケル」において不時着特攻隊員と極めて似通った事例を挙げている。古代ローマのデヴォトゥスは、都市を差し迫った外敵から守るため、戦いの前に儀礼を行って自らの命を地獄の神々に捧げた自殺戦士である。彼の命はすでに地獄へと送られているため、生物的に生きているうちから神々の世界に属する。

もしデヴォトゥスが戦いで死ねば問題ない。彼は都市を救った神として崇拝されるだろう。しかし、彼がもし決死の戦場から生きて戻ったら事はややこしくなる。すでに儀礼によって生者の世界から締め出されているため、そのままでは彼は人間でも神でもない分類不能な境界的存在でありつづける。彼の日常を取り戻す唯一の方法は、等身大の立像を地中に埋めるという葬儀に類似した儀礼を行って、象徴的に死ぬことである。しかし、もしこの儀礼を行わなければ、生き延びたデヴォトゥスは人の法によっても神の法によっても規定されえず、力あるものの恣意的な暴力に小突き回されるだろう。アガンベンはこのような存在をホモ・サケルとよび、古典古代から現代アメリカ帝国主義まで通底する政治の定常項であると主張する。

「ホモ・サケル」の普遍性をめぐるアガンベンのテーゼの是非はさておき、生き残ったデヴォトゥスが特攻隊員の生き残りと極めて類似した性質を持つことは興味深い。どちらも生きているうちから神々の領域へ一歩踏み出し、また日常生活に戻ろうにも、そこからはすでに締め出されてしまっている。桑原がその著書の中で書き記している、あらゆる周囲の人びとから孤立してしまったような絶対的虚無感がこれに当たるだろう。真珠湾攻撃の「特攻九勇士」を題材とした坂口安吾の小説「真珠」では、特攻の勇士達が自らの生還への望みを捨てたとき、そこには通常の戦争で常に兵士達に寄り添っている「死」が消滅し、あるいは彼らの身体、その一挙手一投足そのものが死となり、彼らは死を生きる、つまり死んでいるのに生きているゾンビのような存在となるという。生きているうちから死へと運命づけられた彼らは、あらゆる人間の法の彼方に生きる存在、ホモ・サケルにほかならない。小さなうつろ舟の中に閉じこめられ、ひたすら太平洋の彼方の極楽浄土を目指した補陀落渡海の修行僧がすでにこの世のものではないのと同様、狭い戦闘機のコックピットに押し込められ、ただ敵と差し違えて死ぬためだけに出撃する特攻隊員も、機が地面を離れた瞬間から、あるいは特攻出撃命令を受けた時から、天皇、帝国海軍、上官、家族などありとあらゆる人間の紐帯から切り離された聖なる人間となってしまうのかもしれない。

あるいは、元特攻隊員達がその異常な経験を受け入れ、日常生活に戻るためには、デヴォトゥスと同じように象徴的な葬儀を行ったと見ることもできる。つまり、彼らは死んだ戦友達を戦後の証言の中で神聖化して表象することで、平穏無事な日常生活をおくる自分自身を生者の側に置こうとしたのである。死への飛行を直接的に体験した桑原のような人間も、彼の語りには死者を理想化する甘い幻想が入り込む余裕はないとはいえ、自身の体験が広く公刊され、社会的なコミュニケーションに組み込まれている以上、暴力無しに何かを語り得るような「無垢」な存在ではないだろう。特攻について語ろうとするその言葉は60年の歳月によって屈折され、どんなにありのままを語ってもホモ・サケルだったときの<真実>から遠のいてゆく。

とはいえ、ホモ・サケルたちが特攻を語る言葉の全く外にあるわけではない。桑原がほのめかす二度目の意図的な不時着、連行されるようなかたちで島を離れた飛行兵、不時着した飛行兵と女—どれもはっきり当事者の証言として語られるわけでも、公的な記録に残っているわけでもないが、「暗示」や「伝聞」といった曖昧な痕跡としてネガティブにではあれ、我々は今日、彼ら彼女らが居たということを知ることができる。「命令のまま敵に突入する」という法が絶対的に支配する戦争末期の特攻隊基地という特殊な空間で、「自らの力で特攻という非情な運命を変える」という「他でもあり得たこと」は、何重にも抑圧されていたに違いない。しかし、そこであえて自分の未来を自分で選択することに賭けた人間がいたということは、今日の我々にとっても決して小さくない意味を持つだろう。

臥蛇島に不時着した女連れの飛行兵は、数ヶ月後無事に故郷の大分にたどり着いた。21世紀の現在、生きていれば90歳近くになる。もし彼らがこの経験をありのままに証言したら(もしくは書き残したら)、特攻をめぐる言説の場は、また何度目かの大きな振動と屈曲に見舞われるに違いない。

[1] しかし、1944年の組織的な航空特攻開始以前から各種特攻兵器の開発は行われていたこと、真珠湾攻撃の際の「九軍神」ブームなどを考えると、特攻を受け入れる精神的土壌は潜在的にあったと見るべきだろう。

[2] さらに言えば、わら半紙のような紙の上に殴り書きされた萌えエロマンガというこの本の体裁自体が現代オタク文化のパロディーであり、二重のパロディーによって特攻神話が改竄されている。また、後述する日高恒太朗も特攻とエロ(ティシズム)の結びつきについて、特攻を題材としたブルーフィルムに関連させて語っている。

[3] たとえばヒロインが海中の敵を感知する特殊能力を持ち、兵器システムの部品となって戦うとか。

[4] 2006年に文春文庫から再版。

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