トップページ / 南島学ヱレキ版 / 2010年3月号 「島の知識人」(稲垣尚友)
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島の知識人(稲垣尚友)

「ナオはビンタが良かで、欺さるんなよ」

世話人が、島に遊びに来たわたし(=ナオ)の友人に吐いたコトバである。世話人は冗談を飛ばしたつもりであったろうが、聞いているわたしの耳にはトゲが刺さった。島とは、わたしの以前の居住地である、鹿児島県のトカラ諸島のひとつである平島のことである。

ビンタとは生理的な頭部を表わすコトバである。その延長で、頭脳という意味でも使われる。「ビンタが良か衆(し)」を普通語にひるがえすと、さしずめ「知識人」ということになる。わたしは島の中では、知識人のレッテルをはられていることになる。世話人の口にした「欺さるんなよ」の響きには、冗談を飛ばす茶目っ気も含まれているが、重きは別のところに置いている。どの島民の暮らしの内容も手に取るようにように分かるのに、ナオひとりは何を考えているのか分からない。立ち止まることなく働く習いがないことも、受け入れ難い。世話人はそうしたことを言いたかったのであろう。

このもの言いは、戦前の文士に向けられたそれを彷彿とさせる。臣民の正業から離れ、ブラブラと身をもてあましている姿は、道徳として、いかがわしいのだった。

島にあっては、文士アカと置き換えてもかまわない。島のショケン(世間)が編み出した方針に無条件で従おうとしないで、一度は自分の濾過装置を通しからでないと動こうとしない人間を指している。必ずしも、危険赤化思想の持主と決めつけているわけではない。

普通語では、知識人というコトバにはすでに特定の職業が想定される。大学教授と耳にしただけで、「インテリ」あるいは、「知識人」と決めつける傾向がある。「カゴ屋」とか「土工」、あるいは「店員」と聞けば、自動的に「非インテリ」の烙印を押される。

「インテリ」というコトバの出所を少し調べてみよう。おおもとはロシア語の「inntelligentsiya」である。日本語では「インテリゲンチャ」と音訳されている。二〇世紀の二〇年代(大正九年~昭和四年)に日本に入ってきたコトバで、本来の意味は、帝政ロシアの体制批判をした西欧派の自由主義者たちの総称であった。英語の「intellectual」でも同じで、「知識人」、「知性を重んずる人」、「知的興味のあるもを追及する人」の訳が英和辞典には載せてある。そこからは職業を絞り出すことはできない。

作家の小田実氏がアメリカで「Is he a university professor or an intellectual?」と人に問われたことがあるという引用文を目にしたことがある。訳すと、「あの人はただ(=a)の大学教授なのか、それとも、インテリなのか?」となるであろう。大学教授はひとつの職名に過ぎないのであって、その当人がインテリであるか、そうでないのかは別の問題として問う必要がある。日本では大学教授が疑う余地のない知識人であり、むしろ衆目の関心が集まるところは、どこの大学に帰属しているかである。帰属の問題は、どの分野、あるいは何を専攻している知識人であるかよりも大切にされる。巻末の著者紹介では、これまでに帰属した機関や学校名が羅列されている。

わたしが以前に問われたことがある。「あなたは、何者ですか?」と。この内容は、わたしが何を考え、この先にどんな思考を巡らすつもりなのか、という問いとは受け取れなかった。「初めてまみえるが、いったいどこに帰属しているのですか?」の問いに近かった。

わたしは竹細工職人である。すこし前の言い方だと、カゴ屋であるが、その仕事をしている人はほとんどが、個人生産か、家内工業生産をしている。組織に入っている人は稀である。だから、わたしに対して「どこに帰属しているのですか?」の問いは、竹細工に関してではなくて、そのもの言いに対しての疑念であった。

わたしはカゴの注文をとりながら、山間地を渡り歩いたこともある。それがひとつの修行法でもあった。周囲の眼は必ずしも好意的とはいえない。まちがえば、石つぶてが飛んでくることもある。そういう反応を体で受けとめながら、モノを考え、それを文章化することをしてきた。先の質問者は、カゴ屋が思考し、筆を執ることが、理解できないのである。カゴ屋はインテリがする仕事ではない、との前提がある。近代の知識人は「社会的に自由に浮動する」ことで特徴づけられる、とはカール・マンハイムのコトバだそうだが、先の質問者には通じない。どこかに帰属していないと理解しにくいという、素直な悲鳴に聞こえた。インテリである以上は、帰属先があって当然だ、という先入観が前提となっている。だからこそ、「野にある○○」という言い方がなんの不思議さもなくまかり通るのだった。「○○」にはなにを挿入してもかまわない。「学者」でもいいし、「思想家」でもかまわない。知をはぐくむことを日常としている人たちである。

わたしはひとりの老人に言われたことがある。「島の衆はワイ(あんた)のことを、ナオ、ナオて気楽に言うが、ホントはセンセイやろう」と、いたずらっぽく笑った。このときのセンセイは島の教員とは同質ではない。自分たちの子どもに読み書きを教えてくれる学校の「先生」は、文句のない尊称である。

老人が「センセイ」と口にしたとき、具体的なひとりの外来者を頭に置いていた。それは、鹿児島本土から何度も島に渡ってきた民俗採集者である。古老から聞き出した島の古習をまとめて著書をモノしている。島に通い始めは高校の教員で、後には大学の教授職に就いた。老人は、「ワイを見ていると、イッキイ(すぐに)あのセンセイを想うど」と、嬉しそうに語る。聞いているわたしは頰が引きつる。

老人は、自分を含めた島の者を「野人」とか「土人」と呼び、それは「センセイ」に対置するコトバとして使っていた。どんなに”ビンタの良か”「野人」であっても、センセイになることはない。その反対もまた真である。「センセイ」がいくら頑張っても「野人」、つまり、島の衆にはなれない。

島外の人を「野人」の範疇に含めるとすれば、五感を働かせて、フルイに掛ける。従事している仕事で、まず選別する。次には発語するコトバの共通度を測る。これは、理解に苦しむ方言であっても、共通度が限りなく百パーセントということもありえる。

これは隣りの中之島でのことであるが、以前に秋田県から木こりが島に渡って来たのだが、全くコトバが解せないことがあった。ある休みの日に、その木こりが島民が集まる前で、郷里の民謡を披露したことがあった。傘を開いて身振りを交えての演芸である。勢いよく傘を回すと、オチョコになってしまった。つまり、熱演が過ぎて、傘が棒状に伸びてしまったのである。その仕草を皆は腹を抱えて笑った。その場には「野人」しかいなかった。

カゴ作りという、「野人」たちもする仕事に従事しているという理由だけでは、島の衆と同列に置くことはない。この姿勢は一見したところ、先の小田実氏へ質問を投げたアメリカ人のそれに似ている。つまり、職業に縛られない判断の自由があるように見受けられるのだが、内実は、高校や大学の教員と聞いただけで、「偉いセンセイ」と決めつけるのだった。「センセイ」は「先生」に通じ、敬称であるが、同時に、「言語を共有しない異人種」をも表している。

センセイであるか否かの判断基準は、ヤマト・本土の写しでしかない。帰属先で判断されるか、さもなければ、島とは異なる発語法を用いた場合には、即座にセンセイ呼ばわりされる。必ずしも、知識人でなくてもかまわない。ゆがみまでが丸写しになっている。だから、真の知識人は、センセイと呼ばれない、呼ばせない人の中にいる可能性が高い。

島内にはどのような知識人が居住しているであろうか。

まずは教員がある。百人に満たない島で、それも赤子や老人を計算に入れてのそれであるから、働き盛りの年齢の教員が十人いるということは、大きな比重を占めている。その連れ合いまでも含めると、島内の知識人の半数を大幅に超えるであろう。教員たちは全員がどこかの大学の教員養成課程を終えているから、島内にあっては自動的に、「ビンタの良か衆」、つまり知識人と見なされる。ビンタの内容をとやかく問う者はいない。

全員が特別扱いされる集団に組み入れられる。これは階層・階級ではなくて、(教員)集団である。なぜ階層を成さないかというと、教員は三年、ないしは五年で他所へ去ることが、あらかじめ約束されているからである。また、一日の時間取りは、他の島民とは違う。たとえ共有する時間があるとしても、それ自体が特別なことであり、暮らしを共有しているという意識にまでは深まらない。つまるところ、教員の知識が島を変革する力にはなりがたい。

その他の知識人としては、村議を含む世話人の一部、それと、入(い)りこみ人(にん)の一部である。総代、婦人会長、神役、あるいは、青年団長という世話人全員が「ビンタのよか衆」、つまり、知識人の部類に数えられるわけではない。知識人といっても、そぞろひねもす硯に向かっているわけではない。書物の中からではなくて、体を動かす労働の中から思想をはぐくむ人たちである。

世話人は島内の職制であるが、島外から割り振られる職に役場駐在員がある。これは形の上では村役場から辞令が下されるのだが、誰がその役に適当するかの判断は島の側に任されている。この役は読み書きが必須であり、また、役場との交渉もしなければならいから、ある程度の弁舌能力が要請される。

村議はどうだろうか。七つの島から選出される村議会議員の定員は一二人、後には八人に減るが、そのすべてが知識人とはいえない。平島からはひとりの議員が選ばれているが、その人に限ってみるならば、村政を牽引するに十分な実力を備えている人であり、知識人と呼ぶにふさわしい。議会長も勤め、村長の後見人役を果たしている。

村議は、島民を目覚めさせ、生活の向上を目指して、牽引していく人である。その生活の向上とは、暮らしを楽にさせてくれるであろう事業を手がけることである。接岸港を作り、定期船を大型化し、それから、道路を縦横に走らせることである。これらの事業をひとくくりにして、「島作り」という。つまり、村議を定義するならば、「牽引先に『島作り』があると信じられる資質を備えた人」である。牽引力が強いほど、島民は物質面で潤う。そんなとき、島民の目には村議に後光が射し、村議についていこうという気にさせられる。いわば、「体制(まとまり)順応型」の人間が生まれるのだった。

問題は何が「島作り」なのかである。島の周囲で成長し続けているサンゴ礁を砕いて、いくつもの接岸港を築くことは、「島壊し」にも繋がる。接岸港がひとつでは足らない理由づけとして、天候がある。年に何度か吹く強風に備えての避難港作りである。西風が吹けば、島の影となる東港を使う。東風が吹けば、西の港を使う。いくつもの港を作るたびに、島の周囲を破壊し続ける。それは魚礁の破壊でもあるのだから、生活への影響は大きいはずであるが、統計数字には出されていない。

これは離島振興予算が組めるあいだは続きそうな気配である。が、乗降客だけであれば、船が島裏に避難する場合であっても、接岸港を築かなくてすむ。定期船に常備されている伝馬船・ゴムボートを使って、沖と浜との間を通うことができる。その場合は、大型荷の積み卸しはできない。また、生鮮食品が腐敗することもある。野菜類はてきめんである。荷役を次の寄港時に譲る次善策に甘んじることは、「島作り」に逆らうことだ、と島民は受け取り、大方の村議もそれに同調している。村議が次善策を口にするだけで、「体制順応型」の人間はばらばらに散ってしまう。集票力が落ちることは目に見えている。

島作りが島壊しと背中合わせであるという自覚が島内に生まれないうちは、村議が「島作り」の内容を見直す機会が遠のく。もしも、強行突破を試みようものならば、多くの抵抗が考えられる。そのとき、「島作り」の牽引力は低下し、村議への評価は地に落ちる。自動的に、村議は「知識人」の座から引きずり下ろされることになる。

実は、そうなったとき、つまり、周囲の雑音から解放されて、ただの人となったとき、手垢に染まらない真の知識が生まれるのであるが、狭い生活空間の中では至難の業といえようか。

最後にのこされた知識人として、入りこみ人がある。これは、タビの人、あるいは、タビからの人という呼称をもらっている。外から渡って来た人を指す。居住時間の長短には関係なく、たとえ島で生涯を終えたとしても、タビの人として区分けされる。その対語として使われるトコロの者、つまり、島の者の仲間入りをするのは、入りこみ人二世以降である。

「入りこみ人」には二種類ある。再び出て行くことを前提にした人たちと、生涯を島で終える覚悟の人たちがいる。前者には工事請負業者、行商人、難破船の乗員、布教僧などが入る。その人たちのことを、いまここでは取り上げない。

後者に属す人たちの心情は、「華僑」や「難民」や「故国喪失者」などに対置させることができる。ゼロからの出発であり、島の中心部にではなく、周辺部にたむろする人たちである。サイード流に表現すれば、「島暮らしのアマチュア」ということになる。サイードとは、イスラエルの領土拡張のあおりを受けて、パレスチナを追われ、故国を喪失した米国籍の哲人である。

入りこみ人は新たな環境にすっかり溶けこんでしまうことはできない。超然とまではいかないまでも、身を引きつつ、郷愁にひたることもある。昭和四十五年に北隣りの臥蛇島の全戸が他に移住したのだが、一戸だけが南隣りの平島に移ってきた。連れ合いの出身島に入り込んだわけである。その男が鹿児島市内へ引き揚げて行った他の者たちに、こう吐いた。「ワイども(あんたたち)は良かなあ。シマ(フルサト、臥蛇島のこと)が見えんで」。自分は毎日でも島影を海上はるか北に臨むことができるので、気持が晴れない、と言うのだった。

男は感傷にさいなまれながらも、島の風に馴染む素振りを続けた。とにかく、暮らしを立てることが至上命令である。タビ先の身を開き直って暮らすこともしなければ、タビの身を隠すこともしない。この点は、難民や故国喪失者とは異なる。

この処世は男も女も同じである。臥蛇島から平島に嫁に来た女がいたが、何かの祝いの準備をするために、数人の女とともにカマ小屋(カマド小屋)の中にいた。突然別の女の大声が外に漏れてきた。「臥蛇の衆(がじゃんし)は、こげな(こんな)ことも知らんとか!」という叱声である。「ワイは(あんたは)・・・・・・」ですませずに、「臥蛇の衆は・・・・・・」と強調している。これは蔑みでもある。

他の島から嫁に入った女は、子どもたちがトコロの者になっていく中で、自分だけが生涯タビの人から抜け出せないから、タビ先に身を置いているという思いはついて回る。「女(おなご)にシマは無か」という諺が島にあるが、これは、「女はたとえ他島へ嫁いでも、そこがシマ・古里として馴染むものだ。それほど女は逞しくしたたかである」という意味である。確かに、子どもができればなおさらのことであるが、新たな環境にスッポリとはまらなけば、暮らしていけない。と同時に、なじみすぎないようにたえず警戒もしていなければならない。タビ先の身はせつないのである。

こうした入りこみ人は、島での暮らしがぎこちない分、初心者のこだわりのなさを発揮することができる。こだわりのなさは創造の萌芽をもたらし、知識の生まれる土壌でもある。

サイードの言う故国喪失者は、入りこみ人一般と違い、「故郷を遠く離れて暮らさなければならない」、という苦しみよりも、「自分が亡命・追放の身であることを、いやでも思い知らされる多くのものに囲まれて暮らさなければならない」、ということである。この境地は、先の臥蛇島から平島に移住してきた男も味わっている。それは「せつないさ」である。

サイードが知識人を論ずるとき、その前提にはたえず故国喪失者がある。故国喪失者は、安定してくつろげる状態へ後戻りできない。すこやかに安住することはない。そんな想いの行き着く先にはアドルノの言う、「自分の家でくつろがないことが道徳の一部なのである」という、反語ともとれる思想が待っている。この人はドイツで生まれたが、ナチに追われて永い国外亡命を強いられた。くつろげないから、工夫を生む。創造するしかない。それが知識人の知でもある。この現象は平島でも同じである。

現村議も前村議も、卓越した判断力の持ち主である。ふたりは議員として、たえず議会を牽引し、また、島内にあっても、突出した判断力を発揮してきた。それは日ごろの琢磨を欠かさないからに違いない。わたしが島で暮らしていた三〇年前は前村議の時代であった。週に一度の割でやってくる定期船がもたらす情報は知れていた。新聞も雑誌も手に入らないし、テレビもよく映らなかった、そんな中で村議は、雑音だらけのラジオにしがみついて、国会討論に耳を傾けていた。名瀬市からの電波がキャッチできた。島内にあっては異様な風景であった。許された環境の中で掴み得る情報を誰よりも貪欲に追い、自分の考えを組み立てている姿を思い出す。

ふたりの村議はれっきとしたトコロの人である。ふたりは親子ほどの年齢差があり、生きた時代が違う。とうぜん、「島作り」に対する考え方も異なる。が、はっきりとした共通点がひとつある。共に他島の血が色濃く流れているということである。現村議は三代か四代前は、大島から入ってきた開拓者であった。また、母方の祖母は臥蛇島の人である。

前村議も入りこみ人二世である。親は、明治の終わりか、大正期に、奄美大島から入って来た。タビの人が厚遇された時代ではないから、集落から遠く離れた地に小屋掛けするところから島の生活は始まっている。前村議が子どものころ、部落の人と飲んで酔った父親を、夜道を連れ戻すのがどんなに大仕事であったか、語っていた。一軒だけ遠く離れていること自体が異様なことぐらいは、子どもでも察知できる。

島の知識人は、ひょっとすると、「入りこみ人」の中から生まれるのかも知れない。それは、サイードが指摘しているように、難民や故国喪失者の中から知識人が生まれるようなものである。逆に、これからは、島人の中から、周辺部へ自らを追いやって、「入りこみ人」や「難民」や「故国喪失者」を自認する者も出てくるかも知れない。

皮肉なことに、こうした周辺部からの知識人の輩出は、イスラエル建国前のユダヤ人世界に似かよっている。くつろぎの地をもたないということが、民族をあげて同族の知識人を育てあげてきた。そのことはユダヤ人の歴史家であるツヴァイクが、身近な人たちの実例を具体的に挙げている。(ツヴァイク『昨日の世界』)

日本国内の論者も言う。「境界に住むことの意味は、内側の住人と「実感」を分かち合いながら、しかも不断に「外」との交通を保ち、内側のイメージの自己累積による固定化をたえず積極的につきくづすことにある」。「あらゆる体制、あらゆる組織は辺境から中心部への、反対通信によるフィードバックがなければ腐敗する」。(丸山眞男「現代における人間と政治」 『人間と政治』所収 一九六一年 有斐閣)

内側の住人との「実感」の共有を前提にしている点は、故国を喪失したサイードとは違う。故国喪失者自身が創造したモノが時代を象徴することになったのであり、辺境から中心部へ向かう過程で創造されたわけではない。むしろ、中心部へ向かい姿勢は希薄であった。極論すれば、ホームレスが時代の旗手に躍り出たわけである。

両村議が、ひときわ強力な牽引力を発揮できたのは、親、あるいはさらにその上の世代の入りこみ人の周辺暮らしを、意識的にしろ無意識にしろ、体得していたからではなかろうか。

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