トップページ / 南島学ヱレキ版 / 2010年9月号 無人島開拓(稲垣尚友)
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無人島開拓――諏訪瀬島の藤井富伝(稲垣尚友)

(初出『あるくみるきく』190号、日本観光文化研究所)

5. 鹿児島・奄美・赤名木
――四年ぶりの鹿児島。ブラブラ歩きを楽しむが、いつしか「目的」をつくり、足は図書館へ向かう。

七月七日夜、一九時三分大阪発西鹿児島行寝台特急「あかつき一号」に乗り込む。すでに寝台車を利用することに慣れ、さしたる心の変化もない。一〇年前までは、どこに行くにも鈍行より上級の列車を利用したことがなかったのであるが……。

車内ではぐっすり寝ることができた。洗面を終えて車窓をながめる。水俣のあたりのようだ。沿線に走っている国道三号が近づいたり遠ざかったりしながら続いている。

川内から、前の座席に三人連れの男の客が坐った。朝も充分に明けると、寝台専用車ではなくなる。自由席の特急列車に変わるわけだ。

初老の三人は農協職員のようであった。鹿児島市に日帰り出張でもするのであろうか。薩摩のアクセントが耳に入ってくる。いよいよ近づいたか、と思う。南へ向かっているということだけで、私は安心できるのだった。血行不順の体質が温暖な風土を求めるかもしれない。

列車は定刻通り、八日の朝九時四〇分過ぎに終着駅に着いた。降りる客が少ないせいか、ホームが広びろとして見える。

四年ぶりの駅前の風景は変わっていなかった。重い荷を持ち歩く気にもなれない。まずは谷山の友人宅に行って、軽装であらためて、なつかしの天文館にくり出そうと思う。

錠のおりた友人のマンションの入口に荷を置く。バッグからゴムゾウリを出し、電話番号を記入した手帳を持って中心街の天文館に向かった。何人かの友人に久しぶりに会う。街をブラブラしてみる。この街で暮していたころ(昭和四六年~昭和四七年)の気分にひたるほどには過去のものにはなっていない。またいつか、ここで家を借りて住むかもしれないからだ。

ここまでくれば、トカラはすぐそこだ。市内には旧臥蛇島民もいれば、四年間(昭和四八年~昭和五二年)住んだ平島からの移住者もいる。その気になれば、いくらでもトカラの情報は入ってくるはずである。が、私は足が向かなかった。それよりもブラブラと時間に身をまかせているほうが気分がいい。

しかし、プラブラも長く続かない。つい「目的」を作ってしまう。県立図書館に立ち寄る。富伝か喜祖富に関わる資料はないだろうか、と捜してみる。私はすでに、喜祖富も興味の対象に入れているのである。A氏の生々しい証言が大きく働いて、むしろ、喜祖富の生涯に多くの関心が移っていた。

いくつかの資料を抽出した。天文年間(一五三二~五五)や文政年間(一八一八~三〇)の鹿児島城下の明細な屋敷図もある。その中に富伝の先祖の名が出てくるかもしれない。そのほか、「大島代官記集成」や「大島在番奉行一覧」などもあった。また日を改めてゆっくり閲覧しようと思い、早目に谷山の友人宅に戻る。

翌九日は、友人の五〇CCバイクに乗って、カゴの縁をしばるツヅラを分けてもらいに、市内北部の小山田というところに行く。富伝を追いながら、カゴ屋のことも忘れていない。

――フェリーで奄美へ。そして朝の暖気を一身にあびつつ富伝の生まれ故郷・赤木名へバイクを走らせる。

午後五時三〇分発のフェリーで奄美大島に向かった。単車ごとである。人間が六七五〇円、単車が二三〇〇円である。大島内でのバス代を考えれば、計算は大幅黒字になると思い込んでの行動である。

一〇日朝、五時三〇分に名瀬港に入った。新港に接岸したようだ。私が一四年前に入った時は、もっと湾の奥だった。

うす暗い市街地はどこもかしこもビルだらけである。一四年での様変わりは目を見張るばかりである。港に続くところには市場があった。うす暗い路地裏にあり、昼間でも裸電球がつるされていたように記憶する。はじめてそこに足を踏み入れた時は、ど胆を抜かれた。山羊やブタの肉が一頭丸のまま天井から吊されていたのである。それが、ここかしこの露店まがいの店でみられた。いまはもう、そんな市場も取り壊されてしまったろうと思いながら、朝雲りの街並に目をやった。

名瀬から笠利町赤木名までは三五キロある。コーヒーでもすすってから出発しようと思い、市内を低速で回ってみる。何軒かの店が開いていた。降船客目当ての食堂を兼ねた店や、ホテルロビーを利用した喫茶店である。どうも気がすすまない。あれこれと高望みをしているうちに入りそびれてしまった。

道を東北に向かう。赤木名に抜ける唯一の道であるから迷うこともない。海岸線にできたその道は、入江の湾曲に沿って道も曲るのである。バイクで切る空気は気分がいい。

名瀬市を出ると竜郷町である。ところどころに小さな商店街がある。が、まだどこも閉めたままになっている。つづら折れの長い登り坂を過ぎると大勝という集落があった。やっと人の動きが見られた。名瀬に出勤するのであろうか、若い娘がバス停に立っている。彼女の同窓生たちはきっと都会に出ていったことだろう。この過疎地らしきところで婿さんは見つかるだろうか、などと全く余計な心配をしながら赤木名に向けて走り続けた。

一時間半ほどで赤木名に着いた。県道を左に海の方角に折れた。その一本道の両側には家がぎっしり詰まっていた。ここが島津藩時代の島の首邑だったのか。商店街が一キロ近く続く。その間には学校や役場、郵便局も建っている。名瀬の市街に比べて、ここは空が広く明るかった。道幅は狭いが、建物が二階建てどまりであるせいであろう。

「さて、どこを訪ねようか。富伝が毎日親しくながめたであろう赤木名の浜にでも立ってみようか」

と思いつつ、町並をつっ切る。つき当たりが海であった。

――浜辺にたたずむ人に教えられて訪ねた先は、なんとよく知っている人の弟で、蛇皮線弾きの四男だった。

ひとりの老人が堤防を背に立っていた。ステテコ姿であった。ズングリとした体躯、厚い胸板は浜で鍛えたのだろうか。私はバイクを停め、エンジンを切る。

「おはようございます。外金久というのはこの辺ですか?」

「そうですが。うしろのほうにミラーが立っとるでしょ。あすこからこちらが外金久です」

と、老人は教えてくれた。富伝の出生地は赤木名外金久であるから聞いてみたのである。

「藤井富伝ていう人のことを、おじさんは耳にしたことがありますか?」

「さあなあ」

「十島の諏訪之瀬島を開拓した人ですけど」

とつけ加えた。鹿児島では十島という名を知る人は少ない。ましてや諏訪之瀬島となっては極少である。その点、大島は違う。こちらの地理的説明は不要である。

「トミデンていう人は知らんが、十島の人ならこの先の住宅に居るよ。たしかフジイって名だと思ったが」

といって先に立って私を案内してくれた。たかだか三〇メートル先の町営住宅であった。小さな集落なら三〇メートル先の人間のことでもタンスの中味まで知っているかもしれない。赤木名は、やはり小都市なのだろう。人口が一万近くある。

四、五世帯が一棟に入っているらしい。一番奥の入口に私はひとりで近づいていった。案内をしてくれた老人は、あっち、と指さしたまま、ひとり帰っていってしまった。

半間間口から声をかけると、カーテンを割って四〇格好の男がこちらに顔を突き出した。私は驚いた。そして、咄嵯に、

「勝郎さんの兄弟の方ですか?」

「エッ!そうですが、勝郎の弟の越郎です。あんたは?」

ということで、私はそのまま家の中に引き込まれた。なんと、平島の勝郎兄の弟ではないか。あの蛇皮線弾きの老人の四男である。

「へえ、あんたが平島に居ったの?」

と、彼も驚き、かつなつかしんでくれた。

蛇皮線弾きの老人はトカラの島々の教員をやって渡り歩いていた。その関係で、勝郎氏は平島の知人に養子に貰われていったのである。現在は鹿児島市に移っている。

「わしが勝郎兄に一番よう似とるて、人にいわれるとなあ。あんたもそう思うたとね。これから鹿児島の兄貴にデンワしてみっで」

といってダイヤルを回す。

「あっ、兄貴か。この前はおおきになあ。いまなあ、わしの家にイナガキって人が来ちょっがなあ」

「イナガキじゃわからんかもしれん。ナオていうて、ナオが来とるて」

「ナオていう人や。知っちょっか。へえ、そうね。じや、いまデンワ代わるからね」

といって、私は引きずり出された。先方のなつかしそうな声が耳元に伝わってきた。ともすれば隅に籠りがちな私だが、南の島に来るといつも引きずり出される。それが続くと苦痛になるのだが、いまは、ただ、南島の開放感にここちよく酔っている。帰りには必ず立ち寄るようにとの誘いで会話は切れた

私の赤木名での滞荏はこうして始まったのである。

6. 同士の子孫たち

-盛仲信(探検・一次入植者)の証言-
――「一年足らずで帰ってきてからは失意のドン底で、毎日毎日酒ばかり飲んでおったそうです」

まず、子孫ではないが、西忠茂氏を訪ねた。大阪の吉夫氏とは赤木名の小学校が同期だった人で、私はすでに吉夫氏から知らされていた。元教育長で、『笠利町誌』の編纂者のひとりでもある。

彼は多忙であった。町長選の前哨戦の幕が切られていた。彼は一候補者の後援会長の役にあったから、接客に追われていたようだ。

彼の紹介で盛島春風氏(大正八年生)に会う。旧姓を盛という。奄美では一字姓から二字姓への変更は多くみられる。春風氏の曾祖父が盛仲信である。『十島状況録』では盛伸仙となっている人である。彼は富伝が開拓を志したとき、核になった四人の一人である。春風氏の話を再録してみよう。

―第一回目の移住で諏訪之瀬島に渡ったんですが、一年足らずで帰ってき、そのあとは二度と渡ってません。

仲信は赤木名に帰ってからは失意のドン底にあったようです。ここから北に行った屋仁というところの山の中に引っ込んでしまった。いまでも屋敷跡があります。そこで毎日酒ばっかり飲んでおったそうです。

仲信は金はほとんどなかったんです。笠利では食べていけなかったのは、つい最近までそうでした。赤木名の西海岸に水田があるけど、「三月米」といいました。三ヵ月食べる分しか穫れないのです。終戦の直後まで、砂糖キビもほとんど「青葉売り」してました。前借りで生活しとったわけです。島津の政策が尾を引いとったんでしょう。

仲信はすぐ帰ってきてしまったあと、今度は息子の長太郎を一七年に島に送り出しました(『十島状況録』には二一年とある)。その子孫はいま中之島におります。諏訪之瀬島から中之島に引き揚げた人は多いですよ。伊喜美則、久木山貞和志、池山仲吉、池山仲政、前島良蔵らが、みんなそうです。

仲信の子で私の祖父に当たる甚民は、全財産を売却して諏訪之瀬島に入ったんですが、結局無一文で帰ってきたわけです。

私の家は百銀行(名瀬市)に差押さえをくって、夕タミ、タンスまで赤札がはられたのをおぼえております。

父方の祖母の祖母ていうのは、大蔵卿・松方正義の親が赤木名に在番で来てもうけた子です。昔の代官は単身で赴任してきて、大島で子孫をのこしましたから。だから、祖母の祖母と松方正義とは異母兄殊になるわけです。姓は平川になっとりました。

明治一四年に祖母の祖母は東京に呼ばれて行くことになったんですが、途中で台風に遭って福建省に流されて大島にまた帰ってきたそうです。祖母の兄がそうした昔を語って聞かせよりました。

――おだやかな対応の中にも春風氏は次第に熱を帯び、子孫と思われる人たちの名を次々とあげてくれた。

春風氏は富伝同様、島津役人の血を引いているのである。私は別に「藤井」姓に対する噂は聞かなかったか、とただした。が、それは耳にしていないという。A姓も知らなかったという。

春風氏は何人かの子孫を紹介してくれた。有間常積の縁者が名瀬市の共済会館支配人ではないかという。明治二八年以後の移住で儀助の記録には載ってないが、水間向次郎の孫が現名瀬市教育長である。弟のリョウシン氏も何か知っているかもしれない。彼も名瀬市にいる。十島丸に乗り組んでいる伊キミオは伊喜美則の子孫ではないか。池山仲吉の孫・幸寿は死亡したが、その奥さんが港屋旅館(赤木名外金久)の隠居である。浜田実祖志の孫が名瀬でうどん屋をやっている。仲信の子・盛長太郎の子のタケノリは鹿児島いる。泉実行の孫・ヨシハルは赤木名在。久木山貞和志の子孫は中之島に。この人は私も知っている。同島の精糖工場で私が働いているときに知り合った。が、私はあらたまって貞和志ジイさんの話を聞き出したことはない。

以上の人々の電話番号や住所まで教えてくれた。

春風氏は、おだやかな対応の中にもしだいに熱を帯びていくのが、わずかではあるがこちらに伝わってきた。日常の中にポッと投げつけられた非日常を氏は楽しんだのかもしれない。

「このすぐ近くに松元幸儀という人がおりますが、あの人の父親は伝熊といいました。同じ伝のつく伝芳と、関係あるかもしれませんよ」

とも教えてくれた。松元伝芳は富伝の開拓の話に強い共感を抱いたようだ。移住はしていないが、最初の探険の一五名の中に加わっている。また、資金援助申請のために私費で富伝と二人で上鹿している。時の赤木名戸長である。

春風氏の憶測は当たっていなかった。が、幸儀氏は近くにいる別の松元姓の家に案内してくれた。そこの当主ではなく、そこに遊びに来ている親戚の人が詳しいから聞いてみてくれ、というのだった。居間に通されると、七〇格好の老人がテレビを覧ていた。大相撲名古屋場所の最中であった。若島津と千代の富士の大一番を前に、なかなか目線がテレビからはなれない。その取組の終了を待ってから話が始まった。

-松元伝芳(探険)の孫の証言-
――「ちょんまげを結って戸長をしていました。先祖は仙台伊達公の藩医だったんです」

―松元賢吉と申します。遠いところからわざわざご苦労さまですね。私は伝芳の孫に当たります。伝芳-弥八郎ときて私が生まれたわけですね。

私の母から聞かされた話では、伝芳はちょんまげを結って戸長してました。体格は大がらではなかったようです。諏訪之瀬島に開拓に行ったという話は聞いておりませんなあ。

わが家に遣ってるものでは、島司から貰った感謝状があります。明治二一年に中金久小学校を建てたんですが、そのときに六円八〇銭の寄附をしたとかでいただいたものです。私の先祖は仙台伊達公の藩医だったんです。家に系図もありますからおいでなさい

そういってタクシーを呼び私を案内してくれた。このとき初めて知ったのだが、賢吉氏はなんと明治三一年生まれの八四歳とのことだった。ものいいは正確だし、とてもその年齢には見えなかった。

松元賢吉氏の家は、鉄筋コンクリート二階建ての豪邸であった。これなら台風が来てもビクともしないであろう。広い前庭、広い玄関の夕タキ、どの家々もりっぱである。戸板一枚で外と区切っていた十数年前の島の民家は少なくなったようだ。

賢吉氏のすすめてくれるままにビールを一杯ごちそうになり、系図を見せてもらう。近年になって調べ上げたものだという。賢吉氏の六代前から書かれてあった。生存者のひとりひとりの現住所も記入されている。まさしく「一族」という気配が感ぜられた。

ダイニングルームに案内された。かもいの上にはいくつかの賞状がかかげてある。小学校建築費の寄附で貰ったという感謝状もあった。ほとんどの島民は、こうした額を床の間のある部屋に飾っているが、賢吉氏の家では、食卓テーブルが中央にすえられた部屋にあった。

座敷に戻ってから氏の身上話を少し聞かせてもらった。若くして大阪に出て、五〇過ぎまで阪急電鉄に務めていたという。帰りぎわに名刺を渡されたが、その肩書きには農業委員とあった。

-畑キミサト(二次入植者)の孫の証言-
――「曾祖父は赤木名で村長のようなことをしていました。そねまれて遠島になり、帰島後開拓に行きました」

時間は前後するが、賢吉氏宅へ向かう途中、氏は私を一軒の家に案内してくれた。もしかしたらあの人は開拓に行っているかも知れないというのだ。九四歳の畑ヨシモト翁だという。私はまさかと思ったが、年齢からしてありえることだ。内心はワクワクした。

結果からいうと、ヌカ喜びであった。が、ただではころばない。別の情報を得ることができた。口永良部島の湯向に、いとこの畑才蔵氏が元気でいるという。もしかしたら喜祖富を知る人かもしれない。いつか会いに行く必要がある。

翁は明治二二年生まれである。戸籍上は二六年になっている。小学校に出るようになったが出生届がない。親があわてて出したのが二六年である。祖父のキミサト(喜美哲か?)が、二回目の入島に加わっている。明治一八、九年のころであった。

キミサトの父親がキミセイ(喜美静?)といって、この人は赤木名で村長のようなことをしていた。何かのことで人にそねまれ(ねたまれ)て与路島に遠島になった。許されて帰ってきてから息子のキミサトが生まれ、それから七島(十島と同義)へ開拓に行った。

翁は、祖父が噴火のときに帰島したのをおぼえている(賢吉氏が七歳か八歳のときだったという)。祖父はその後、赤木名で暮し、七三歳の年祝いをしてから死んだ。父親は八人兄弟で、弟に畑亀五郎というのがいて、その人は諏訪之瀬島から中之島に移った。その子の貞次はこの前も家に来て飲んでいった

以上のような話を翁は私にしてくれた。

亀五郎ジイに私は一面識もない。生きた時代が五〇年は違う。それなのに親しい響きがあった。息子の貞次氏とは何回も飲んだが、父親の亀五郎の話をしたことは一度もない。私に親しく感じられたのは、臥蛇島を通してである。亀ジイは諏訪之瀬島の開拓に見切りをつけて、北隣りの中之島に移っていった。同じような動きをした人は多い。中之島には西区、東区、高尾の三区があるが、東区の九割以上は赤木名出身者である。それも、一度は諏訪之瀬島に立ち寄ってきているのだ。火山灰のやせ地では生活が成り立たなかったのであろう。

亀ジイは中之島に来てから桑木材の買付けに走り回っている。臥蛇島にも来ている。そして「桑木元台帳」なるものを何冊か残している。そこに、臥蛇島民の桑材の売掛金が記されている。桑材は湿気に強い。そのまま土中に埋めて柱に立てても、三〇年は充分にもつ。それで近隣の島々では引合いが多かったのである。

赤木名に来て亀五郎ジイの縁者に会うとは想像もしていなかった。彼ばかりでなく、私の知る人がこの赤木名にはあまりにも多いのに驚く。

――赤木名外金久の墓所へ行ってみる。そこには見なれた名前がいくつもあった。

その夜、私は港屋旅館に泊った。池山仲吉の孫の奥さんが経営していると聞いたから選んだ宿である。が、彼女は池山仲吉のことは何も知らなかった。

翌朝は六時前に起きて、外金久の墓所を訪ねた。見なれた名前の墓がいくつかあった。たとえば、

久木山貞和志 大正三年七月一五日 八四歳

デンマツ 大正九年一月五日  八五歳

松元伝芳 大正九年一月五日  八五歳

竹鶴 明治一四年旧五月二二日 三三歳

泉 常松 明治一一年子旧一一月二四日 行年五五歳

七時半に朝食をとって、宿を出て名瀬に戻る。水間向次郎の孫、現名瀬市教育長に連絡するが不在、その弟のリョウシン氏はいたが、これから外出するところだという。で、亀井勝信氏を訪ねる。この人は南海日日新聞社(名瀬市)の人に紹介された。島の歴史、民俗に詳しく著書も多くある。現在、『竜郷町誌』を手がけている人だという。

名瀬のカトリック教会の裏手に亀井氏の家はあった。五〇CCの単車で路地から路地へ走り回れば、人の家を捜し出すのは苦労はない。寄らば文明の利器、である。

私は手製のガリ版刷り名刺と、これまたお得意のガリ版製自家資料一組を手渡す。柔和な瞳の氏は、気楽に話し相手になってくれた。

-亀井勝信(島の民俗・歴史研究家)の証言-
――「藤井家は遠島人か代官の妾の子じゃないかと思います。どのみち高い地位には取りあげられていないはずです」

「赤木名の海岸からは十島がよく見えます。宝島、小宝島、悪石島、晴天に恵まれた日なら、四つ目の諏訪之瀬島も見えるんです。

富伝たちの乗った舟はナナクサといって、長さが七尋(約一〇メートル)あって、それを手で漕いで諏訪之瀬島へ渡ったようです。富伝は土地を求めて渡ったんでしょう。それが最大の目的じゃないですか。Aさんの話、島にいられなくなってという話よりも、富伝の話のほうがすなおじゃないかと、私は思います。

どちみち藤井家は高い地位には取り上げられてはいないはずです。寄人か横目ならいい土地を持ってますから、なにも開拓に行く必要はないわけです。ただ、家人ではなく、ひとり百姓(自作農)だったでしょう。

藤井家は遠島人か代官の妾の子かじゃないかと思います。代官なら鹿児島に帰るはずです。大島には遠島人の記録がないんです。それを早く調べる必要があるんですが……。「代官記」の記録なども、不都合なことは記録されていません」

二時間近く世話になり、私は玄関に立った。では、と帰ろうとすると、氏は例の柔和な瞳で、

「大島にほれて、この近くでも若者が何人か住みついております。奄美民謡のとりこになった旭川の青年や、民俗を調べている者などおりますが、あんたのように、竹細工をやりながら歩いている人は初めてですよ。大方は、地元の新聞社に務めたり、教員になったりしてますよ」

その語調は非難ではなかった。おめでたい私の耳は、いまにも一緒に竹細工をしながら歩こうか、という誘いのようにとれた。

――Aさんのいう先祖・山口五太夫の名を、ついに発見。

亀井氏に礼を述べたあと、私は鹿児島県立図書館奄美分館に向かった。さすが地元だけあって、本館にはない資科がいくつかあった。

ここで大きな発見をひとつした。A氏のいう先祖の名が「道之島代官記」(道之島は奄美の別称)にはっきりと著されていたことである。

明和三丙戌春
 横 目 落合段兵衛殿
 座横目 山口五太夫殿
     右五太夫殿事、南雲新左衛門殿附役ニテ下島、本
     名山口平左衛門殿卜中人ニテ是迄二度

ページを前にくってみる。

宝暦四申戌春
 御代官 南雲新左衛門殿
 附 役 西田慶衛門殿
 鮫島市郎右衛門殿
       植村仁蔵殿
       山口平左衛門殿
   横 目 谷山次郎右衛門(*他二名略)

つまり、宝暦四年(一七五四)に一度、そのあとに一度、三度日が明和三年(一七大六) に座横目として来島している。職制でいくと、島の最高権力者が代官であり、その下に附役・横目の役がある。ナンバースリーとして明和三年には入ってきたわけである。A氏のいう山口五太夫ユキハルとはこの人のことであろう。

ということは、明和年代までは鹿児島に屋敷を持っていたはずである。その後も維持していたかもしれないし、島に住みついてしまい、鹿児島の屋敷を処分したかもしれない。鹿児島の県立図書館に明和当時の城下屋敷地図があればありがたいものである。

分館を昼過ぎに後にして、奄美各島の生活がもられている『碑のある風景』の著者・籾芳晴氏を訪ねる。そのあと、出航までの数時間を市内でうろつく。もうバタバタとあわてても仕方ないと思いつつも、九時出航の一時間前にうどん屋をやっている浜田実祖志の孫に会いに行ってしまった。あわただしい訪問であったので、あらためて訪ねることを伝えて別れてきた。

-屋敷絵図の中-
――再び鹿児島へ。調査行のなかのくつろぎのひととき。預かりもののモズクを届け、友人と坊ノ津に遊ぶ。

七月一一日夜一〇時、私の乗った三〇〇〇トンのフェリーは大島を後にし、一二日午前九時五〇分に鹿児島新港入港、船体を構内でゆっくり回転させたあと接岸した。

平島にいるころは鹿児島にやってくるのが楽しみであった。大方は夕方に入港したが、薩摩半島南端の開聞岳が見えるとホッとしたものだ。もうじき湾内に入るのだ、そうすれば揺れもなくなる。それに、海岸線には指宿、山川、喜入の街並も見える。車が走っているのも確認できる。この市街は鹿児島市へと通じているのだ。そこには島にないものばかりがある、ああ、文明のにおいがする、などと大げさに喜んだものである。

今回は生活を引きずってない。いたって心安らかな上陸であった。単車を走らせ、私はさっそく喫茶店でモーニングセットなるものを注文する。トースト、ハムエッグ、サラダ、コーヒーで四五〇円。そして、郊外の姶良町に向かう。ここに勝郎氏がいるからである。赤木名からは大量のモズクを持ってきた。彼の弟から兄貴にとどけてくれと、ことづかってきた品であった。

モズクをとどけ、平島の話に花が咲く。来てみれば、やはりなつかしい。私が最初に会った平島の人はこの勝郎氏だったのである。一五年前になる。彼が中之島の灯台工事に出稼ぎに来ているところであった。縁あった平島に養子として入ったのち、実父である蛇皮線弾きの老人の弾く何曲かをテープに録音して、私が平島に持参したことがある。彼が三三歳のときであった。なぜか彼は涙して、子供らに聞かせていた。

昼食をご馳走になり、私は再び市内に戻ってきた。カゴ屋をのぞいたり、本屋に入ったりして時間を過ごしたら、夕方になってしまった。

翌七月一三日は約束があった。谷山の友人と終日を坊ノ津の海で過ごそうというのである。

一夜あけ一四日朝、友人と別れ、私は県立図書館に向かう。まだ、山口五太夫ユキハルにこだわっているのだ。

――二つの図書館を回り、血眼で絵図、系図に見入る。 あいかわらず平佐、藤井、山口の字句だけが頼りだ。

明和三年(一七六六)、つまり山口五太夫が座横目として大島に赴任した年の古地図は、見当たらなかった。もっとも年代の近いものは「鹿児島絵図、文政前後」であった。お目当ての年の五〇年後である。縦横ともに一メートル近くある大きさの地図で、坪数と屋敷主の名がぎっしり詰め込まれている。その中の中央部にある千石馬場の両側をにらみつけてみる。A氏は千石町に屋敷があったといったが、当時は千石馬場以外には存在していない。馬場とは大路のことである。が、見当たらない。山口も藤井も見当たらない。

五味克夫著『天保年間鹿児島城下絵図注解』というのがあった。その中に表がひとつあり、出典別に六時点での屋敷主の名前が並べてある。それをみると、子や孫に家督を譲ったためだろうか、家主の名が代わったものもある。文政九年(一八二六)以降の記録を基にしている。一〇一の屋敷が表に加えられている。

まず、藤井姓を捜す。ない。山口姓を捜す。ない。このことから、少なくとも文政九年以降に山口・藤井姓の屋敷は城下にはなかったのではなかろうか。

儀助の書にあることが事実だとすれば、川内市の平佐というところに山口・藤井姓があるかもしれない。それで私は川内を訪ねてみた。鹿児島から電車で小一時間のところである。市役所を念のため訪ねてみるが、明治以前の戸籍などあろうはずもない。市立図書館に行ってみる。

「平佐」「山口」「藤井」の字句が唯一の頼りだ、と私は決めてかかった。『市史料集六』に「諸家系譜」というのがあった。そこに平佐町重信トキ氏蔵「重信氏系図」が載っている。捜す名前は見出せない。『市史・古文書編』も開いてみる。「平佐天辰家中士・門・字名書付」(安永年間=一七七二~八一)に一七九名の家中名があったが、先の両姓は入っていない。

年代は下り文久元年(一八六一)の記録があった。明治維新直前の文久年間の記録には載っているはずもないのだが、平佐にある一一の郷に散る家中名に同姓の血縁者がいてもよさそうだと思い探る。が、ない。

平佐は川内川をはさんで市街地に接している。集落内を訪ね歩くべきだったかもしれないが、今回は省略した。ただただ歩けばいいというものではあるまい、とエネルギー計算をしたわけだ。

夕方、川内駅から私は新大阪行きの特急寝台に乗り込んだ。富伝をどこまで追えたのかと自問してみるが、答は否定的であった。とくに図書館巡りというのは、富伝・喜祖富に関しては頼るに足らない、とあらためて思った。

私はもう一度A氏を訪ねてみようと思い、寝台車の上で横になった。

7. 埋もれていた百姓一揆
――「開拓に行ったのは役人崩れがほとんどでしょう」Aさんがそう言ったとき、私はハタと気付いた。

「大島は行かれましたか?」

とAさんが問うた。

「赤木名まで行きました」

「そうですか。赤木名までですか」

Aさんは島のことを共に語りたがっているふうにも、私にはうけとれた。私の再訪を待ちうけていたようだ。駅前の商店街を通り抜けてくるであろう私の姿を、彼は屋上で気長に待っていたのであった。勤めもなく時間も自由になる人のようだ。

共に語りたいのは島のことというより、喜祖富にまつわる島のこと、といったほうが正確であろう。

「山口五太夫の名は『代官記』にありました」

と、私は手柄話をするかのように身を乗り出して報告に及んだ。

これに対しAさんは、

「そうですか。山口五太夫は彦右衛門(彦七)の二代ぐらい前の人らしいです」

と、さも当然という顔付きであった。それもそうだ。私にとっては大発見のつもりでも、Aさんにすれば喜祖富から知らされていることであり、疑う必要もない事実なのである。

Aさんは五太夫の説明を付け加えてくれた。

「五太夫は官頭(酋長?)の娘と結婚して藤井姓になったと聞いていましたが、その詳しいいきさつはもうわかりません。興信所に一〇年前に頼んで調べてもらったんですが、先祖調べは一〇年遅かったといってました。でも、調べた結果では、酋長の娘ではなく、酋長の妹と一緒になった、となってました」

私は話を変えてみた。

「赤木名では富伝翁の養子の乙次郎の孫さんに会いました(越郎氏のこと)。でも、Aさんのことも、喜祖富のことも何も知らないようでした」

Aさんは聞きながら目線は下に向け、いささか斜に構えた姿勢で、「知らんほうがいい」とだけ、吐き捨てるようにいった。しばらくしてから、

「藤井はうらみを持たれているんです。奄美の役所(代官所、仮屋敷のことか?)に務めている人に、尊敬されている人は誰もおりません。……そうか、やっぱり藤井家の一族には教えていなかったのか……」

とため息まじりにいった。何を伝えていないのか、私は知りたかった。が、口は重かった。

Aさんは藤井家とは直接のつながりがある。が、吉夫氏をはじめ、現在の藤井家は、血がつながっていない。富伝は養子として乙次郎をもらい、その養子は悪石島の宮永家から養子をもらっている.血がつながらないうえに、乙次郎とは噴火を事由に赤木名と諏訪之瀬島とに分かれて生活していた。ますます先祖のことは伝達されにくい状態にあった。

Aさんは私の知りたがっている部分には直接には触れずに、喜祖富が開拓をどう考えていたかを教えてくれた。

「ジイは開拓事業に関しては『俺は知るか』という具合でした。弟(富伝)からいわせれば、『兄貴は腑抜けだ!』ということになる。でも、開拓に行ったのは役人崩れがほとんどでしょう」

そうAさんがいったとき、私はハタと気付いた。

――Aさんはやっと重いロを開いて、町誌にも記されていない手花部の百姓一揆のことを語りはじめた。

いわれてみれば、水呑み百姓はひとりもいない。みなそれぞれに先祖は赤木名村の要職に就いていた。盛仲信は松方正義の縁者である。松元伝芳は会津藩医の血を引く。畑キミサトは村長のような職にあった。おそらく、戸長というものではなかろうか。そのほか、浜田、伊、池山、前田の各姓は喜入家(島津藩士)の血を引くという。

「禄を離れたら役人は食べていけんので、開拓に行ったんです。だけど、食いつめどもが刀を鍬に持ち代えたところで、何ができますか」

とAさんがいうときの表情には、怒りにも似たものが浮かんでいた。そして、次第に胸を開いて語りかけてくるようであった。

途中、冷やしソウメンをご馳走になり、二時間近くがたった。彼は、あいかわらず目線を足元のほうに向けながら、やっと重い口を開いてくれた。奄美の人々への供養にもなるからといって。それは町誌にも語られていない百姓一揆のことであった。

明治初めのころの話である。赤木名の西隣りの手花部で一揆があった。また砂糖を絞り上げられたなかでの百姓の反抗であったろうか。そのとき多くの者が処刑されたという。ひとりひとりを斬り捨てていくのだが、島人の首に刀を振りおろせば刀がけがれるからといって、馬の蹄で蹴り殺した。いまも殺された者の子孫が島にいる。

そうAさんは強調した。

わずか一一〇年前のことである。なぜに歴史の中で生き残らなかったのか。なぜに町誌が省いたのであろうか。

私は思わぬ方向に目を向けられてしまった。富伝を追ううちに喜祖富が登場し、手花部の一揆にもつながっていった。歴史の上で抹殺されているこの事件を知る手がかりはどこにあるのだろうか。島に渡る前に知らされていれば手がかりも捜せたろうが、またあらためて足を運ぶしかない。いまだ即断は許されないが、開拓の動機と手花部の一揆とが関係をもつかもしれないのだ。

歴史の上で明らかにされていることは、明治新政府の時代に入ってから、大島の役人の一族の者で東京に「逃げた」者はかなりいる、ということである。家人(農奴)解放が法令化した明治五年以降は、特にその数は増えたであろう。

Aさんは毎月欠かさず天王寺参りをするという。先祖、あれほど関係ないと私にいった先祖であるが、その供養をするためである。同時に彼は「大島の民の霊よ安らかなれ」とも祈るのである。

富伝が何をし、喜祖富が百姓一揆にどう対処したのかは、いまはわからない。が、彼らが終生持ち続けた気位の高さは何かのヒントになるかもしれない。笹森儀助も驚くほど居たけだかに他の開拓者たちを一喝する富伝だったし、子守りをしながらも村人がひざまずかないと木刀でうちすえた喜祖富だった。

とにかく、富伝追究のタビは、いま端緒についたばかりである。

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