トップページ / 南島学ヱレキ版 / 2011年12月号 多様性をささえる共通デザイン(橋爪太作)
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多様性をささえる共通デザイン――大阪万博におけるストリートファニチュアとサイン計画から(橋爪太作)

0. はじめに

1970年に大阪で開催された日本万国博覧会、通称大阪万博は、人類の永遠の進歩を謳う前期近代のエートスの一つの頂点として、今日さまざまな角度から再評価されている。

それらの評価の多くは、奇っ怪なパビリオンやコスチュームに象徴されるその当時のスペーシイで空想的な未来図に集中している。人類がその青春時代に夢見た、あり得たかもしれないもう一つの未来、異界としての万博像は、成長の果てに地球圏のエントロピー的限界に直面している現代の我々にとって、非常に魅力的なファンタスマゴリアである。

しかし、万博は単に幻想の未来を夢見ていたのではない。そのまどろみのうちには、今日の我々の生活を構成する重要な要素が含まれていた。万博会場という一つの実験都市を支えた各種インフラは、現役時には華やかなパビリオンの陰に隠れて目立たない黒子的存在であったが、その先進性な設計思想はのちにさまざまな現実の都市計画へと応用されることとなり、今日の我々の生活を支えている。

ここでは、万博都市の基本構造のうち、ストリートファニチュアとサイン計画という比較的ユーザーに近い事例を取り上げ、その歴史的位置づけ、およびそこに表現された近代デザイン思想について記述する。

1. ストリートファニチュアとサイン計画の歴史

*万博との関わり*
—1855年パリ万博:オスマンのパリ改造計画の一環として、各種ストリートファニチュアの配置計画がつくられる。

パリ万博で使われたストリートファニチュアの例
—1939年ニューヨーク博:私企業パビリオンの増加から、それらを秩序づけるために建築基準やカラーコーディネート、レタリングなどの統一基準が設けられるようになる。
—1967年モントリオール万博:基本構造が統一されたモジュラー型のストリートファニチュアや、統一的なピクトグラムとマニュアルの整備など、都市計画の基本構造の一部としてシステマチックに捉える見方が導入される。大阪万博の先行モデル。

*その他の事例*
—1949年、国連による国際交通標識の提案:公共領域における図記号統一の初期の試み。
—1964年、東京オリンピックにおけるピクトグラムの導入:特定言語によるコミュニケーションが必ずしも可能でない国際的な公共領域における、ユニバーサル言語としての絵文字の有効性を実証。
—同年、東海道新幹線の統合的サイン計画:車両色の青を、新幹線に関するさまざまな案内表示でテーマカラーとして用いる。
—1969年、メキシコ地下鉄シンボル計画:公共施設において日常的にピクトグラムが利用されるようになった最初の例。

2. 大阪万博における具体例

大阪万博で使われたサイン・システム

—1965年11月、万博開催のための会場基本計画調査グループが発足
—1966年12月ストリートファニチュアについて着手。
・プロデューサー〜栄久庵憲司(GKインダストリアルデザイン研究所)
・休憩関係~剣持勇デザイン研究所
・照明~トータルデザインアソシエイツ
・通信・情報・その他~GKインダストリアルデザイン研究所

事前に内閣府が行った需要調査の結果がパビリオンの収容量を大きくオーバー(ピーク時の最大滞留人口30〜40万人に対し、催物会場の収容人数はその半分)していたことから、パビリオンに入りきれず屋外で待つ人たちの快適性が大きく顕然化。これに対し、磯崎新、曾根幸一両氏を含む基幹施設計画グループがストリートファニチュアを提案する。

当時の万博計画では、お祭り広場とサブ広場における観客の相互交流及びスペクタクル体験については考慮されていたものの、それ以外の会場インフラストラクチャーについての関心は概して薄かったようである。


大阪万博で使われたストリートファニチュア
ex.「栄久庵君、君はトイレやゴミ箱で万博をつくるのですか」(計画初期段階における丹下健三の発言)

—1967年11月、GKインダストリアルデザイン研究所と磯崎新(基幹施設設計メンバー)、福田繁雄(グラフィックデザイナー)らによる万国博デザイン計画グループが、サイン計画の立案を開始。
—1968年1月、会場基幹施設基本設計終了を受け、ストリートファニチュア化が決定された事項について設計作業を開始。
—同年4月、ストリートファニチュア設計終了。
—同年12月、サイン規格承認。
—会場内のサイトファニチャー
・休憩用〜ベンチ、シェルターなど
・情報用〜電話、電光掲示板など
・修景用〜フラワーベースなど
・照明用〜機能照明と演出照明
・その他〜柵、移動トイレなど
・(表示標識)
※これらの分類は資料によって微妙に異なる。

3. 大阪万博の特殊性と重要性

*ストリートファニチュアとサイン計画が別々に計画されていた*

現在の常識とは異なり、当初の計画にサインは含まれていない。当時は都市計画におけるユーザーインターフェースデザイン自体の定義や方法論が明確でなく、万博におけるそれも、建築や造園、インダストリアルデザインなどの諸領域の集合体としてスタートした。立案の直接の参考となったのはモントリオール万博であるが、そこでたまたまこの両者が分けられていたこと、また、ピクトグラムや標識などのサイン計画に関しては、別個のものとして考える方が日本では一般的だったことなどが、原因として挙げられるだろう。

*GKインダストリアルデザイン研究所の強い影響*

ストリートファニチュア、サイン計画共々、GKインダストリアルデザイン研究所の強い影響が見られる。特に前者については、GKが一貫して基幹研究テーマの一つとして取り組んできた対象であることから、何らかのイニシアチブが発揮されたことは間違いない。逆に、サイン計画とストリートファニチュアがそれぞれ東京オリンピックデザイングループ、GKと別々に研究され、導入された経緯が、前項の原因になっているのかもしれない。

GKシェルター

 過度に合理化され、人間性を喪失した現代の団地や都市に、人びとの憩いと社交の場としてのバスストップを導入することで、新たな結節点をもたらす。雨よけ以外にも街灯、ポスト、公衆電話などの人に関わるものを集約的に設置するための幹(基本構造)となるのがGKシェルター。

 人の流れの結節点に置かれたGKシェルターは、様々なストリートファニチャー機能を実装するプラットフォームとして、またそれらの統一的シンボルとして都市の中に存在する。

 構成自由度が高く、幅広い応用が可能。シェルターに集約される情報や、そこでの現実の出会いによって、近代的な都市空間における対人コミュニケーションが促進される。

また、GKの影響という点では、メタボリズムのプレハブ設計思想によるストリートファニチュアへの新たな意味づけも見逃すことができない。機能性・構造性・自立性・可動性を持った工業製品としてファニチャーを定義し、それをストリートファニチュアという形で建築・都市計画の領域に導入することで、小さな基本ユニットの組み合わせによる柔軟な都市計画を構想した。

ストリートファニチュアを人間の身体の直接的外延ととらえ、それを常に組み替え、変化させてゆくことで、大規模なモノリシックシステムによる人間疎外から逃れようとする思想は、メタボリスト達の主張と一致している。その究極は、住宅からベンチまで、都市のあらゆる部位を交換可能なユニットとして設計することであろう。

このような総合的でユニット単位の思考は、その後の都市計画では影を潜めてしまったようである。ロンドン郊外のミルトンケインズにおける広域総合デザイン計画のような例外を除けば、あまりにも技術寄りで標準化され過ぎたデザインは拒絶され、むしろ利便性や快適性、美観といったような、より人間的な評価基準が前面に出てきている。

*ストリートファニチュア、サイン計画の一般化*

ストリートファニチュアもサイン計画も、都市計画に無くてはならないものであるにも関わらず、丹下の言に見られるように、建築家達の意識は決して高くなかった。しかし、万博という国家の一大プロジェクトにおいて両者が一部門を占めたことは、後のさまざまな現実の都市の開発計画において、これらがデザイン契約の対象として認められるきっかけとなった。

—1971年、横浜地下鉄:GKを中心とするグループが、ファニチュアから車両デザインまで総合的デザインを手がける。
—1973年、営団地下鉄千代田線大手町駅:村越愛策デザイン事務所等による、営団地下鉄(現東京メトロ)サイン・システムの設計。複数路線が乗り入れる複雑な駅における、合理的な情報伝達システムを構築。

4. デザイン領域における近代の構造転換

大阪万博の設計思想において、特に注目すべきなのは、パビリオンと基幹施設の二項対立的構造である。

…それで基幹施設と展示館というのが対置されているわけなんですけれども、従来の博覧会では、展示館のデザインだとか、色だとか、材料、そういったことをかなり規制して作らせるということをやっているわけです。ところがそれが、おおむね守られないほど各国は多様なわけですね。したがって日本万博では、特別に隣近所に迷惑をかけない限り、「自由に展示館をやって下さい」。形も自由なら色も自由、材料も自由だ。むしろ、「できるだけお国ぶりを出して派手におやり下さい」。そういう世界の多様性を認めた上で、博覧会場に調和をもたらす方法はないか、そういう逆の出発点を今回はとったわけです。したがって多様な展示館を都市施設でつなぎとめる。いまの樹木のような基幹施設を、ほとんど白一色でおし通すことによって、むしろ多様で多彩な展示館をつなぐ役割を果たさせてみよう。それがどの程度うまくいったかひじょうにむつかしい。これは実験になるんですが、ねらいはそういうところにあったわけです。しかし展示館の多様性を認めたということは、一つの進歩じゃないかと思っております。押さえるよりは伸ばすということですね。
(『EXPO70の建築』より、冒頭座談会における山本康雄万博協会技師長の発言)


太陽の塔(上)およびお祭り広場の大屋根フレームの一部(下) (2010年5月撮影)

つまり、輸送機関や広場、ストリートファニチュアなどの各種インフラストラクチャーが、いわば共通万博プラットフォームとして存在しており、その共通基盤の上に華やかで奇抜なパビリオンがそれぞれの「多様性」を競うという二重構造になっているのである。

この思想は、万博の照明計画にも見られる。

「日本万国博の屋外照明の特徴は、過去の万国博で使用された光源の統一、光色の使用制限を大幅に緩和したことであった。」

「万国博の主演者である展示館をはじめとする会場諸施設の照明は、夜の空間にそれらを明るく花やかに浮かび上がらせて、存在を印象づけ、万国博のふん囲気を強調するものとする。」

「周囲の道路、広場などの照明は、展示館の助演者としての役割を果たすため、ひかえめなものとするが、会場の骨格を明示して、観客の安全を守るために必要な明るさ(平均照度10ルクス以上)を確保できるものとする。」

(いずれも『日本万国博覧会公式記録3巻』より)


スイス館の「光の木」(上)および万博標準型街灯(下)

これらの点についての先行議論としては、機能とデザインの分離という論点からお祭り広場の大屋根と太陽の塔について論じ、その背後に人類の共通の未来を言祝ぐ大きな物語の終焉を読み解いた森川嘉一郎(森川2003)が挙げられる。

しかし、ここで論じているストリートファニチュアやサイン計画に関しては、森川の議論ほど強烈な分離が起きているわけではない。たしかに、奇抜なパビリオンに象徴される旧来の近代モデルは、無限の進歩という未来像の崩壊とともに機能不全に陥ったかもしれないが、それらを支える社会基盤には、たとえば、ピクトグラムという最もミニマルでユニバーサルなデザイン領域は残されている。つまり、少なくとも公共空間においては、完全に象徴作用を喪失した機能だけの存在(ex. サティアン)というのは現実的ではなく、常に何らかの共通了解が残存しつづけるのである。

5. 結び

新技術の展示や未来都市の現実化といった大きな物語のあくなき追及から、それらをも数あるモードの一つとして包括するような、多様性のためのメタ共通基盤への転換こそが、ストリートファニチュアやサイン計画を含む大阪万博基幹計画の基本哲学である。これは、目的合理性からコミュニケーション的合理性へという、モダニティの構造転換とも共鳴している。

前期近代イデオロギーの頂点を極めながら、すでに後期近代・ポスト近代の予感を孕んでいた大阪万博は、単なる懐かしさを超えて現代の我々に語りかけてくるものがあるといえよう。

〈参考文献〉

太田幸夫 1987 『ピクトグラム[絵文字]デザイン』、柏書房

『建築生産』編集部 1971 『EXPO'70の建築――パビリオン・施設の計画と工法』、工業調査会

GKインダストリアルデザイン研究所 1966 『インダストリアル・デザイン—マスプロ時代のグッド・デザイン』、講談社

GKインダストリアルデザイン研究所、剣持勇デザイン研究所、トータルデザインアソシエーツ 1970 「EXPO'70のストリート・ファニチュア」『工芸ニュース』Vol.37、丸善

都築響一 2008 『大阪万博――Instant FUTURE』、アスペクト

電通 1973 『日本万国博覧会公式記録 第2巻』、日本万国博覧会記念協会

同 1973 『日本万国博覧会公式記録第3巻』

西沢健 1983 『ストリート・ファニチュア――屋外環境エレメントの考え方と設計指針』、鹿島出版会
日本インダストリアルデザイナー協会 2006 『ニッポン・プロダクト――デザイナーの証言、50年!』、美術出版社

村越愛策 1987 『図記号のおはなし――国際共通語としてのグラフィックシンボル』、日本規格協会

森川嘉一郎 2003 『趣都の誕生――萌える都市アキハバラ』、幻冬舎

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