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欧米、風車の旅(橋爪健郎)(2)

大風車快調

さて、大風車の話である。

学校がウルフポルグの町のツヴィンドにあるので、この風車のことをツヴィンドミルと呼ぶ。むろん、ウィンドミル(風車)と掛けてのことだ。

先号で「旅行する学校」の学生が、入れ違いに鹿児島の私の友人を訪れた話をしたが、その学生から礼状とともにツヴィンドミルが順調に回っていることを伝える英文のコピーが送られてきた。その冒頭をちょっと引用する。

〈ツヴィンドミルは快調だ。試運転は続けられている。すべてOK! 翼・歯車装置・発電機・ベアリング、そして変圧器やコンピューターもすべて順調……〉

ツヴィンドミルの建設は一九七五年五月二九日に始まった。期せずして私達が川内上野で風車発電の構想を出した頃と一致しているのも、何かの縁であろう。

建設の一つのきっかけは「エネルギー危機」である。ただそれだけ聞けば何だか石油に代る代替エネルギーとして風車をはじめたようにきこえるが、そんなうすっぺらな話でないことは、やはり学校に対する理解がないと難しいと思う。

今日、地上の多くの資源は独占資本の手を通してしか手に入らず、大衆がそれを自由にすることは絶望的になっている。そうした現実のなかで独占資本によってつくり出された「エネルギー危機」があり、大衆の生活がおぴやかされた。こうした現実を変革しようと、世界中で多くの人々が大衆みずから自由に使え、管理できる太陽熱、風力、水力という三大自然エネルギー源の利用で、大衆レベルで努力している。(我々葬る会もその一員だ!)

ツヴィンド校の生徒達はそうした人達に対して良い先例をつくろうと、風車建設を決意した。

建設のもう一つのきっかけは政府の原発計画に対するけん制である。デンマークでも政府レベルでは、将来のエネルギー源として原発計画を持っており、デンマーク中で広汎な反対運動が盛り上っている。

エネルギーの独占形態としては原発がその頂点にあるわけだから、初めの理由ともつながるわけであるが……。

やっきの反対宣伝

反原発のエネルギー源としての具体的な実践としての風車をめざし、それに成功したわけだから、その反響は単にデンマーク内にとどまらず、ヨーロッパ中で原発に反対している民衆を力づけた。それだけに、原発推進派のショックは大きかったようだ。先程のコピーから引用しよう。

〈風車が充分な出力を得られないとか、翼がちぎれ落ちるだろうとか、塔がひっくりかえるだろうというウワサやウソがささやかれている。我々は試運転の最中である。結果は上々である。だが我々は冷静である。

このようにセンセーショナルにウワサやウソが広がった背景は、新聞が風車への関心を我々みたいに、自然エネルギーを利用する試みを発展させることに対してではなく、別のことに向けようとしているからである。

紛争(風車VS原発)は国際的になってきた。原発推進を急ぐ西ドイツでは、電力会社が風車にまつわるみじめな話を折り込んだ宣伝用のパンフレットを出した。英国ではオブザーバー紙がウソの話を引用した。ベルギーの新聞には、我々が風車をとりこわし始めたと書かれている。多額の金が原発に投資されているのはどういうわけだろうか!……〉

太陽熱や水車でなく、なぜ風車を始めたかというわけだが、日本では風車といえばオランダが本場みたいに思われている。しかし、デンマークにも戦前は大小一万余の風車が実用になっていた。技術的にも多くの蓄積があり、いきなり世界一の風車を作るという芸当も可能だったわけである。

一方、デンマークはどこもなだらかな丘陵地帯で水力はとるに足らない。高緯度のため太陽熱も期待出来ない。(但し、ツヴィンド校の屋根には八五㎡の太陽熱温水装置や温室の太陽熱利用の加温装置がつくられている)

デンマークで一番めぐまれている自然エネルギーは、風である。一年を通して風が吹かない最長期間はせいぜい一週間という。特に冬場のエネルギー源としては、風力が最適なのだ。

資金は先生達の給料で

建設にあたって、あらゆる公的な機関、国や研究所に資金の援助を求めたが、そうしたところからは一文の援助も得られなかった。再度、コピーを引用すれば、

〈やはりまた、我々が風車を売却するつもりだというウワサも流されている。事実はこうだ。我々は研究というものは本来個人の資金でまかなわれるべき性質のものではないと考えたので、常に国の援助を得ようと努力して来たのだ〉

そこで、必要な資金は先生達の給料ですべてまかなわれた。それか可能だったのは、先生達の意識が進取の気性に富んでいたということもあるが、学校自体が人口千人ぐらいの共同体でもあり、食料などを自給し、個人的な現金出費の必要がほとんどないことによる。

「旅行する学校」ができたあと、一九七二年に「先生になる学校」、一九七四年に「高校」ができたわけだが、学校の教育方針が、学校で必要なものは基本的に自分達でまかなうという自立の原則に貫かれている。

もちろん、金という面でも風車を作ることにより、学校は年間一八〇〇万円の光熱費の削減につながる。

日本では通産省が東京電力の社員寮に太陽熱利用装置をつけ、原発もやるが自然エネルギー利用もやってますというアリバイ工作を始めたようだが、やる意味として、第一義的にコストうんぬんで、つけたしに無公害にもつながるという次元を出ない貧困さである。

学校がエネルギー的にも自立するという観点で計画され、最大出力二〇〇〇KWという世界最大の風車になってしまったのだが、別に最初から世界一をめざしてやったわけではない。

建設にあたって、学校は全デンマークに有志をつのった。ドルトはそれに応じた一人であることは(1)で触れた。普通、これだけ大きな試みをするなら日本などでは、やれ専門家はいるか、資金はどれくらい要るか、メドがつかないと絶対に話はすすまないものだが、ドルトみたいな、原発などに頼らない自然エネルギー利用の本格的実践の可能性に賭けた情熱を持つ手弁当の若者が二〇人ぐらい集まってきた。専門的知識を持った者はほとんどいなかった。作ろうという意志が先行し、カネや技術や人があとからついて来たというわけである。

日本に帰ってから、住民運動をやっている者からもよく、

「ズパリ言って風車はいくらでできたんね」

という質問を受けるが、やはりこういう事情を理解していないと、いくら金があっても風車はできないと思う。

自主、・平等の原則

どうも風車の話はドン・キホーテ的なところからしか始まらないらしい。ただデンマークのドン・キホーテは、武勇伝を読み過ぎ頭がおかしくなった老人ではなく、若く情熱あふれるドン・キホーテの娘や息子達なのだ。

学校に着いた日の夕方、ドルトに案内され、風車を建設する過程で撮った16ミリ映画の試写会に参加することができた。

風車の起工式で、基礎工事の穴掘りのクワ入れ式をしている光景は、この風車がどのようにして作られたかを一目瞭然とさせる。直径24mの円の回りを、先生・学生・生徒・家族・友人、総出でめいめいスコップを手にし、歌をうたいながら掘っているのである。

誰か指導者がいて、その人がおごそかにクワ入れ式をやるというスタイルではないのだ。

こうした関係は建設の全過程を通じて貫かれている。風車建設という大事業にあたって、解決しなけれはならない問題は数多く出てくる。それを実行するいくつもの小グループが自主的につくられる。グループ内は各メンバーは完全に平等の立場で討論し、各自の創造性を発揮する。

グループ内でまとめた結論を持寄り、他のグループを含めた全体で、また討論をくり返す。グループ内の各メンバーが互いに平等であり、グループ間も互いに平等であり、誰かが指導するということもない。だから、子供も含め、皆が皆、風車作りに加わったという意識と誇りをもっているのである。

例えば風車にはいくつかの原理の異なるブレーキ装置が組み込まれている。それらは電気的に作動する仕組になっているが、もし電気装置がすべてダメになった場合を想定して、それでも風車を止められるようなブレーキが考案された。

風が強過ぎ翼の回転が上がり過ぎ、危険になったとき、たまたま電気装置が全部故障しても翼の先端からパラシュートが飛び出し、その空気抵抗で翼の回転を落とすという仕組である。ジェット機が着陸距離を短くする為、着陸時にパラシュートを開いてブレーキにするのにヒントを得たものである。

そのアイディアを実行に移すための小グループがつくられた。映画では、彼らの地上実験の過程が克明に撮られている。翼の回転が上がり過ぎると、遠心力で自動的にパラシュートが飛び出るという原理だが、それが実際にうまくいくかのテストだが、グルグル回る翼の先端にパラシュートがとりつけられ、或る回転速度に達するとパッと開いて、棒の廻転は抑えられるのである。

当然、他のグループなどとも関連してくるから、グループ間の討論をくりかえす。映画ではあらゆる場面で討論をくりかえす光景がしばしば出てくる。

柔軟な発想

宇宙ロケットなどの開発でも、開発にまつわる多くの問題を解決するための多くのグループがつくられるが、風車の話と決定的に異るのは、ロケットの場合は誰か最高指導者がいて、常に計画の進行状況を把握し、指導者のみが判断し指示する。

その場合、計画を進める力はカネである。もし、あるグループの進行が思わしくない時は、そこに多くのカネと人を集中して解決する。計画にたずさわるすべてのメンバーは指導者の持駒であり、不要になったらポイと捨てられる。

アメリカのアポロ計画に従事した技術者の創造力がつみとられスクラップ化されてしまったことが、アポロ計画の一つのガンだったことは有名である。原発などの開発も、もちろんそうである。

欧米では四六時中お湯が出るのがあたりまえだが、最初、風車は発電用でなく、学校で使う温水や暖房の熱源として計画された。

物を摩擦すれば熱くなる原理で、水を攪拌機でかきまわし、その摩擦熱で水を温めようというわけである。冬は特にお湯が必要だし、その時期は最も風が強い。

そういう大体の計画があっただけで建設はスタートした。塔は鉄筋コンクリートの円筒であるが、円筒の内部がお湯のタンクになるというプランである。

塔の建設がどんどん進められ、同時にもっと細かい点まで討議された。その結果、風車で水を撹拌してお湯にするという仕組は、原理的には単純だが、実際建設する立場からするとそれほど簡単でなく、むしろいったん電気に変えて電気エネルギーを適宜、熱エネルギーに変えた方がずっと簡単で、エネルギー利用効率も高いことがわかった。

そこで、塔の建設が終った段階で最初のプランは放棄され、発電用風車としてつくられることになった。

工学的な常識からいえば、計画を途中から変更するなんてことは、大変冒険な話であるが、それが可能だったのは、ひとえに計画を担った各グループ、各員が一体となってやったからであろう。
おかげでと言うべきか、塔の強度は、発電用風車としては十分過ぎる強度を備えているという。

設計図に先行

他にもしばしば実際の建設の方が先行し、設計図の方があとを追いかけるという現象がみられた。例えば、塔の建設のある時期に、仮枠の内部に入れるベく投型図に示されている鉄骨の量は、実際にそれを入れることは不可能であることが判明し、設型図を変更したこともあるのだ。

建設の初期は、工事に使うコンクリートは業者から生コンを購入していたが、あとでは自分達で混ぜ合わせてもできるし、その方がずっと安上りであることもわかり、そうすることになった。金を節約するという意味もあるが、自分らでできることはなるべく自分らでやるという自立の精神と、風車を創ること自体、一つの生きた教育であるという自己教育の精神があるからだと思う。

必要な資材を調達するグループもつくられ、あちこち動きまわり電話したり、少しでも安くていいものを求めて努力した。

塔の建設で資材を持上げるためのエレベーターが購入された。その話にまつわるこっけいな話を披露しよう。

そのエレベーターの持主の会社はそれをもうずっと使用していなかったわけだが、最初に交渉した時の価格は一二〇万円だった。次に交渉した時は七〇万円にさがった。三度目に交渉した時、会社の支配人は寄付してもいいというそぶりだった。最終的な価格は三五〇〇円だったそうである。こういうことのできた理由は、デンマークの建築業界が不況だったせいもあるが、買い物グループの熱心な働きに負うところが多いのだ。

塔は完成したが、かんじんの翼や発電機などの入る頭部はまだ設計すらできていなかったのである。どんな風車になるにせよ、塔だけは必要なのだからという発想でスタートしたというわけだ。

ツヴィンド校を去る時、パットから記念に風車をつくるプロセスのスライドを一セット寄贈してもらった。鹿児島に帰って方々の友人にそのスライドと自分でとったスライドを見せてまわっているが(この原稿を書いている直前には、沖縄であった「琉球弧住民市民運動連帯集会」に参加して、夜おそくまでギッシリつまった予定の中から、食事休憩時問に割り込ませてもらって上映した)、鹿児島でオペラ活動をしている例の私の友人は、細かいところは抜きにしてまず塔の建設から始めた話を聞くに及んで、大いに感動する。

彼日く、「ヨーロッパでは大建築には石材を用いるという違いはあるが、三代かかって完成すると聞いた。一代目で基礎をつくり、二代目で建物をつくり、三代目で内装をする。いや、まさしくそれだ。必ず子や孫が自分のあとをついでくれるだろうという確信と長期的展望のもとにやる。そういう精神は日本にはないものだ。だからといって、日本流の万物はうたかたの如しという無常観が悪いとは思わないがね……」

中古品の活用

翼と頭部については、手づくりでやらないで下請けに出す可能性を調べたが、とても高価であることがわかった。そこでまた手づくりで挑むことになった。グループは討論をくりかえし、翼をつくるグループと、翼をつけるグループの二つに分かれてやることになった。この時点で彼らはもっと多くの有志の参加を呼びかけた。

先にも述べた通り、ほとんどが素人ばかりのグループで、こうした作業で必要な熟練度や経験を持っていた者は非常にわずかだった。そこで素人は素人なりに、独自の「運転免許」のシステムをつくり、危険性のある道具や機械を扱う際、お互にそれを守るように注意し合った。特に作業場で重い物が落ちて足先をつぶさないための鉄のキャップ入りの靴と、ヘルメットの着用、高所での安全ロープの使用という安全基準は厳格に守られた。

もし、企業がこれくらいの規模の風車建設を請負ってやるとすれば、統計的に一人の事故死を出す計算になるという。グループ内の安全基準のおかげで一人の事故者も出さなかった。

買い物グループが、もともと同期モーターとして使われていた中古品をスウェーデンから一七五万円で買い入れ、二〇〇〇kw、三〇〇〇Vの三相交流を発生する発電機として改造した。最初から風車用としてピッタリ合うようにつくられた部品などないわけだから、創意工夫をかさね、既成の、それも安価な中古品を掘り出そうと努力するわけだ。

その発電級は出力二〇〇〇kw出すには定格回転数の毎分六〇回転しなければならない。一方、風車がそれだけの出力を持つ時の回転数は毎分四〇回転だから、歯車で増速しないといけない。買い物グループは、北部スウェーデンの鉱山で巻上機として使われていた減速用の歯車装置(一九・一【原本不明瞭】)を、やはり一七五万円で仕入れてきた。予備の部品として保存されていたもので、モーターは新品(二五トン)である。格安な買い物である。

風車から主軸を通して動力はトルク制限機(歯車装置や発電機を過大な負荷から保護する)に伝わり、歯車装置で増速され、発電機へと伝えられる仕組みだが、主軸は直径八〇〇ミリの鋼鉄のシャフトである。このシャフトはもともと解体された船舶のスクリューシャフトだったものである。

これだけの大風車だから、まさか中古の部品を使用しているとは夢にも思わなかったが、そこでも自分の常織はくずされる。

最高の技術を駆使

発電機の歯車装置等重量のある部品を収納する頭部の建設は、造船技術を応用してつくられ、四カ月かかった。内部に一〇〇トンのせられる設計であるという。

風車で一番技術的にむつかしい所は、翼と、特に翼のつけ根と軸を固定する部分(ハブという)である。風を受けてグルグル回るわけだからすごい力が加わるし、その力も風の強弱や翼が上になったり下になったりするにつれ、大きな歪(ひずみ)をうける。そのあたりがいいかげんにつくられていると、ちょうどハリガネを繰り返し折り曲げるといつかポッキリ折れるように、翼が思わぬ時にポッキリつけ根から吹っ飛ぶという事故につながる。

ハブは非常な強度を要するので、厚さ5cmの鉄板でできている。ひずみが一番かかるということに加えて、構造が複雑である。ハブの内部には、翼が風に対する傾きを変える可変ピッチ用油圧装置のシリンダーやシャフトが入っているからである。これらの油圧装置は風車の軸に固定され、軸と共に廻転する。可変ピッチ装置はコンピューターによってコントロールされる。

その第一の機能は、ピッチをゆっくり変えることによりどんな風速にも対応して風車の出力を最適に設定させることである。このことは、初期の風車発電に多くみられた、風速の変動による出力の変動を少くさせる効果があるのである。第二の機能は、翼に安全上よくないことが発生した際に急速に翼のピッチを変え(五秒以内)、風を受けないで流すような角度にピッチを変える役割である。先程引用したコピーによると、〇・五秒で翼は30ピッチを変え出力は半分になる。試験運転中しばしばきき過ぎて風車を止めてしまうことがあったという。

異常なひずみが翼にかかったり(各翼には五つの歪検知装置が組込まれている)、ハブと翼自体とを結合する一五〇ケのボルトのどれか一つでもはずれた場合に作動するが、それ以外にも頭部で何か安全上問題が生じた時にも作動するようにセットされている。

直接風車グループとは関係のないパットまでが、まるで自分が考案したみたいに安全装置の仕組みを得々と説明してくれる。ショーウインドウ内の商品の盗難よけの装置が、商品を一つ一つ珠数つなぎにしており、どれか一つでも泥棒が引っ張ったら警報機に連動するという原理から学んだという。ハブと翼のつけ根を結合する一五〇ケのボルトはすべて線でつながれており、一ケのボルトでもはずれたらコンピューターに連動して風車をストップさせるのだ。

そのような重要な部品であるハブを手作りでやるために、ハブを受けもったグループは全員、熔接の公式の資格を取得した。そして熔接がうまくいっているか確かめるため、超音波による検査もやった。この作業については二人の橋梁建築家から助言や協力を得たという。更にハブ全体ができあがったあと、全体丸ごと大きなオープンに入れて加熱し、熔接歪を取った。このように、素人ながら最高の技術を習得し駆使しているのである。

独創性の精神

翼は二七mの長さで、グラスファイバーとエポキシ樹脂で作られている。これも全く自主性と独創性の精神にもとづいてやられた。

グラスファイバーの織機から糸をつむぎ、ロールに巻き取り、糸をエポキシ樹脂にひたし小さな穴を通し、翼の骨組に巻きつけていく。こういった過程すべてを自分らで開発しやりとげた。

グループの内誰一人として、以前にグラスファイバーを扱った者がいなかったので、地元のグラスファイバーの漁船製造業者の仕事を手伝いながら技術を取得した。そして一方では、設計グループが翼の具体的な設計図を作った。設計図ができるまでに彼らは三隻の十m大の漁船を作り上げたという。

ツヴィンドミルは三枚翼のプロペラ型の風車である。この翼型をつくる作業は航空機設計技術者によってなされたが、決して彼らに任せっぱなしにせず、グループ全体が納得した上で進められた。そのため、多くのアイディアや変更が素人からなされた。

翼を作る作業を始めた時、皆、翼一本を作るのに三週間もあれば充分だろうと考えていたが、意外と手間どり最初の一本を作り上げるのに六カ月かかった。しかし、次の二本はそれぞれたった二カ月で済んだ。

翼とりつけ

完成した翼は、製作した工房であるデンマーク空軍から借りたというテント格納庫から塔まで、学校総出で皆にかつがれて運ばれた。だから、風車つくりに大人も子供も皆参加したという自負をもっているのだ。試写会で見た映画では、歌をうたいながら楽しそうにかついでいる。歌も手づくりである。

主要な部品はいったん地上で組立てられ、テストされ、いよいよ塔の上への組上げ作業が始まった。時は一九七七年一〇月である。

いくらデンマークが進取の気性に富んだ国柄とはいえ、素人が手づくりで風車、しかも世界最大の風車にいどむなどという挙に対して、いろいろな批判やカゲ口があった。それだけに、この段階までこぎつけたグループの感慨はひとしおのものであったという。

最初の翼がとりつけられたのが一一月である。この時期は、まず風の吹かない時はなく、毎日嵐みたいな風が吹くのだが、その間の比較的嵐のない早朝の数時間をぬうようにして進められた。

翼はもともとその原理から言って、風を受け易いようにつくられており、一方とりつけ作業はできるだけ風の影響が少いに越したことはない。この矛盾した困難な作業をどうやって進めるか、グループは約半年かかって討論したという。実際作業を進めてみると、この作業は最もたやすい作業の一つであることがわかったという。

翼のとりつけ作業が終り、初めて廻りだしたのは一九七八年三月二六日である。全工程に四〇〇万クローネ(日本円で一億四千万円)かかったが、この中には戸外の特殊作業について人を雇った費用も含まれている。

成果を出版したい

見学した時は点検のため止めてあったが、完成後の経過を、先のコピーから再度引用しよう。

〈試運転が開始されたのは七八年三月で、その時は安全装置、即ち翼に対するピッチコントロールがテストされました。安全装置というものは、いざという時に風車をストップできるか否か、すべての系統が順調に働くことができるということが原則ですから、そのテストにはしばらく時間を要しました。

……略……翼の先端にたたみこまれているパラシュートは緊急時のブレーキとして翼を止めるためのものです。……略……そこがうまく作動するかどうかチェックするため、すでに回転テストを数回行いました。現在のパラシュートは一時的なものです。将来、風車の回転速度がフル回転で毎分四二回転まで上げられるようにする予定ですが、その時はもっと大きいパラシュートと交換します。現在テスト期間中は最高速度で一分間三二回転の範囲で運転しています。

風車を試運転させるためにはデンマーク政府の建設省の許可が必要で、この風車に対してデンマーク政府、建設省が公的に責任を持つことになります。

今後数ヶ月は私達は自動制御装置のコンピューターのプログラムを完成し、風車のスピード、回転数、翼のピッチ角度などの互いの相関関係についての情報を集めるためのコンピューターのプログラムを組んで調査することにしています。

また私達は水槽(風車の発電した電力を熱として水槽に貯える)を完成させたり、もっと大きなパラシュートを翼の先端にとりつけたりで忙しく働き、多くを学び、試運転が完了する日を楽しみにしています。

……略……また、なかには「私たちが自分達の風車を売りに出したいと思っている」などというデマも流していたらしいです。

私達は、常にデンマーク政府に対して資金の援助を得ようと努力したことは事実です。なぜならば、研究というものは個人の金を使うものでないと、私達は信じているからです。

お金に関していうならば、私達の風車の作り方の技術情報についてなら、個人的な知合いの会社や工場へ売ることもあるでしょう。しかし、それは私達の研究成果が公けに出版されなかったならばの話であり、私達はむしろ成果を印刷物として公表することを望んでいます。デンマーク政府は、研究は公的な研究所で行なわれるべきだと主張しています。

デンマークの船舶研究所は、私達の風車について調査を進めるために、政府から七〇万クローネもの金を受取りました。彼らは個人の企業にその調査した私達の研究情報を売るつもりであると宣伝しています。彼らのやり方は、私達全員が成果を完全に公開する点で一致している協定に、真向から対立するものです。私達の経験や研究成果がどのように応用しうるかはまだ分っていないからこそ、公開の原則を私達は持っているのです。

風速二メートルでも発電

とにかく、私達のはじめに期待したことが本当に期待通りにいくように思われ、いや、私達に関していえば、むしろ期待を超えたと言えます。風車は毎秒二メートルの風速で発電し始めましたが、最初は毎秒五メートルの風力で発電し始めると計算していたのです。

現在の運転状況は、

*風速が毎秒一二メートルを超えた時は風車を止めなければならない。(後には毎秒二一メートルまで運転できるようにする計画)

*風車は現在毎分三二回転以上には上げられない。(将来は毎分四二回転まで上げられるようにする計画)

*出力は現在最高五〇kwまでしか出せない(将来は二千kwまで上げる予定)

以上の制限は、できるだけ早い内に計画に従って変更されるでしょうし、また現在行っている試運転は五~六カ月後に完了するでしょう。

翼のピッチコントロールは、実際の風速に応じて手で操作してきましたが、これからは多くの操作段階を自動制御でやれるようにしていきます。そして最終的には、風車は全部自動で運転されるようになるでしょう。

風車が出す出力の四分の一は、学校の電灯や機器用電力のために供給する予定です。余った電力は電力会社に売ることにしています。これらのシステムはすでに完成し働いています。試運転の期間に既に六〇〇〇kw/時の電力を生産しました。しかしあくまで試運転の段階ですので、これをもってこの風車の効率はうんぬんできません。なぜなら、本格運転はまだ始まっていないからです。

出力の四分の三は、水槽タンク中の電熱コイルに流して、暖房用に使うことにしています。その温水は学校の暖房(セントラルヒーティング、北海道北部位の気温)や、水道にも使われるでしょう〉

以上の訳は柿沼氏が、多分このコピーの文は女性のドルトさんの文だから女性の私が訳しましょうと、訳されたものである。

風車の上から

二一日に風車の塔の上を見せてくれるというので、グループの建物、エナージセンターに行く。

事務所には、多くの資料や本がギッシリつまっている。そこには全世界からツヴィンドの風車に関する問合わせの手紙が舞いこんでくるという。ドルトが笑いながら、ミスター・ドルト・アープと宛名された手紙を見せる。

その部屋で作業衣に着かえて、塔の底部の入口から入る。基底部と塔の本体の間の空間の壁には、見学者のため風車をつくる過程のパネル写真や、説明図が貼ってある。

例の三五〇〇円で買ったというエレベータは塔の内部に納められていて、それに乗って上まで昇る。

頭部の機械室は、これが素人が作ったのかと不思議に思えるくらい複雑な装置が所せましとつまっている。しかし、やはりメーカーの作ったものとは違って、何となく機械にも人間らしいあたたかみがあるようだ。翼と翼の間の小窓から下界を覗いたが、目がくらむような高さである。映画では、安全ロープ一本でそんな高い所の外側で溶接作業をしている女性がいたが、元来高い所を苦手とする筆者はまことに驚嘆したものである。

実践学習

風車の見学が済んだあと、ペール氏から、これから「高校」の実習風景の写真をとりに行くので、よかったら一緒に来てもよいというので喜んで同行させてもらう。

パットの説明によると、「高校」は一九七四年に創立された。一四才から一八才までの年令の生徒が入学する。

入学資格はなく、希望すれば誰でも入れる。生徒数は約百人で、一〇人に一人の割に先生がつく。ここでも、先生と言っても先生ぶってはいない。

生徒一人当り、月七万円かかるが、生徒の両親の負担は彼等の経済状態に応じて無料から最高一万四千円の間である。残りは政府が負担する。

普通の高校みたいに学期末試験はある。授業は午前の理論学習と午後の実践学習に分けられる。理論学習では、普通の高校みたいに語学・作文・数学等々の科目もあるが、何といってもツヴィンド校の特色は、理論と実践との結びついた教育にある。

最初に案内された所は、本校から歩いて十分ぐらいの所にある自動車修理工場みたいな所である。ここの一角では「自動車修理グループ」の少女が、日本などではとうにスクラップになっていそうな車を修理している。学校で使用する車だから、公用車を修理しているのだそうである。

彼らの先生は町の整備工場のオジサンである。町工場のオジサンが週に何度か来て実技を教えてくれるというわけだが、実際的な技能の修得の道としては、それが一番良いやり方のはずである。日本だったらこんな事は考えられないが、この学校ではあたりまえのようである。

別の一角では「失業者グループ」(不景気で中学を出たが就職口がない者の手に技術をつけるためのコース)が、スクラップのバスを修理していたが、これに乗ってアルジェリアに見学に行くのだそうである。

第三世界と

アルジェリアと言えば、ツヴィンド校はアルジェリアなど第三世界では有名で(日本では全く知られていないのだが……)、その時もアルジェリア出身の二人の学生が見学に来ていた。一人はアルジェリアの工科大学の学生、もう一人はパリで働きながら大学に通っているという。

別の一角では「自動車グループ」(このグループは前に書いたように、失業中の中年を集めてできた)が、何やら古トラックの改修中である。モザンビークの解放戦線の野戦病院に寄付するのだそうである。敵の射撃を受けないように迷彩色に塗っている最中であった。

彼らは、自分らのやっていることを、学内ばかりでなく、地元ウルフポルグの町の人々にも知らせる説明会をやる予定だそうである。彼らの午前中の理論学習では、なぜ彼らが第三世界の援助をしなければならないかを学習する。自分らのやっていることの意味を納得して実践するわけである。作業の日程も自分達でたてて行動する。(9月12日に見学したのだが)15日までに、この作業をすませる予定だそうである。

改修中のトラックの横には、中古の大型パスを数人の女子学生が溶接中であった。このパスは、改修後、彼女達――自動車グループ工場の中は九割近く女性だったので――が運転し、アルジェリアに行く計画である。なぜアルジェリアの学生がツヴィンド校に見学に来ているのか、この説明で納得できた。こうして自力で改修したパスでアルジェリアに出かけてからは、ツヴィンド校はアルジェリアの国民には親しみをもって有名になっているのだ。

魚も自分達で

再び、ツヴィンド校のメインキャンパスに戻って「工房」を見学する。(1)でその説明パネル写真を紹介したが、ボランティアの作った大風車の他に、小風車もある。

これは、ここの高校の生徒達「エネルギーグループ」が、大風車の技術を生かして作ったものである。見学した時期は大風車は残念ながら、点検のため廻っていなかったが、小風車は北海方面の西風を受け、勢いよく廻っていた。フル出力21kmをメーターはさしていた。例によって、これも中古の材料を活用してできたものらしい。例えば風車が風に向かって首を振る回転台座は、クレーンのものであったという。

「配電盤」には積算電力計が二つついている。地元の電力会社と契約して、風があり電力が余っている時は電力を売り、風がなく足りない時は買うというシステムになっている。二つのメーターはそれぞれの電力量を記録するためである。大風車と同じシステムである。

たまたま見学した時、グループは、ある所に売るための風車を作っていた。売った資金は第三世界への援助にあてるという。

「工房」を出てすぐ近くで、「漁業グループ」の生徒が十数人で、古いボートの塗装をはがしていた。新しく塗り直して使うわけだ。漁業を学ぶのだが、学校で食べる魚を自給するのである。学校から15km北にあるフィヨルドという入江に行って漁をすることを、実践教育としている。獲ってくる魚は、平均25cmぐらいのヒラメの類だが、これは北欧では好んで食べられるという。

彼らは自分らの使う網を洗うなどの準備や、後じまいも一切自分らの責任でやる。一回の漁で平均千匹ぐらい獲る。獲れた分は原則的に学校で食べるが、余ったら市場にも出す。

きゅうくつな日本

「厨房」では「料理グループ」が学校の給食をつくる。見学した時は、たまたま米と牛乳とシナモンでデザートを作っていた。試食したら甘くおいしかったと書いていいのだが、少くとも筆者にとっては、日本のゴハンみたいに粒々で甘いというのにはなんとなく、抵抗がある。北欧には米作はなく、主食はジャガイモで、米はイタリヤから輸入するぜいたく品であったので、昔からクリスマス用のごちそうとしてこの料理を作ったのだそうだ。皆に好まれるので、たびたび作るという。

風車を始めて以来、この学校は全世界から見学者が相つぐ。(この夏は一万四千人が訪れた)

見学者向けにちょっとした店があり、紅茶・コーヒー・お菓子の類を売る。それも「料理グループ」がやる。売り上金は、やはり第三世界への援助に使われる。

「企業マネージグループ」の実践教育は、「高校」の一切の事務作業をまかなうほか、他の集会、音楽会、新聞を企画することである。つまり、学校の行事の予定を組んだり、郵便物の発送、配達、整理などである。見学した時は学校の定期刊行紙を発送する作業をしていた。日本からはるばる見学に来るということも、このグループを通じて学校全体に伝わっていたのである。

見学は出来なかったが、猟をやるグループもある。狩猟に関しては、射撃のけいこはするが、実際には保護のため、ほとんど獲らないという。

午前中の理論学習では、環境についての理解を深めるためエコロジー(たんに生物学の一分野の生態学とは異なる、もっと広い意味がある)も学ぶ。

一部案内していただいて見学できた「農業グループ」は、農業を学びかつ学校の食糧を生産する。ジャガイモ、牧草、リンゴ、人参、トマトなどを栽培している。トマトは温室栽培で、二〇〇㎡ぐらいの大きな温室である。室温をさらに上げるため、温室の横に太陽熱温水器が作られている。これも、「エネルギーグループ」の手づくりである。その他、農業グループは、三〇〇匹のニワトリ、一〇〇頭のブタ、五〇匹の羊の世話をする。(狩猟も、この「農業グループ」であることがわかった)

有機農業は考えていないのかと尋ねると、ここの土地は砂地でやせているので、やむなく農薬や化学肥料を使っているが、将来は有機農業をめざしているとのことである。さる研究家から貰い受けた「ミミズ」の繁殖や、志布志の海岸にいっぱい咲いているルービンに似た黄色い花の咲くマメ科の植物を植えて、土の改良をはかっている段階であるという。

夕食後、パットに、特に第三世界との関係を重んじた教育に感動したが、もし日本で同じような教育をやったらまず何より父兄がそんな学校に子らをやらないだろう、なぜなら、そういう教育を受けた生徒を雇う企業はないだろうから……というと、パットは首をすくめ、「なんと、きゅうくつなんでしょう……」

わずかの滞在ではあったが、見るもの聞くものすべてが感動と驚きの連続であったと言っても、少しも誇張でない毎日だった。

ヨハネス君の悲劇

以下は、橋爪氏と同行した柿沼カツ子氏(医学)の追記

しかし、ツヴィンド校にも、悲しく深刻な問題が存在していることを知らされたのは、我々が訪ねてから二日目の夜のことであった。

大風車を建設し、テストをしている約二〇人のグループと夕食を共にした後、夜更けまで話しこんだ時である。

地球の反対側からやってきた我々が一休どうして大風車と学校を見学に来たか、我々の職業と風車との関連について質問されたのは当然であったろう。我々のどちらも大学の中で科学の一分野を専攻してきた〝研究者〟に属し、一人は物理学、もう一人は医学の分野を担っている(はずである)。そのどちらの分野も、直接風車とは関係ないが、実はツヴィンド校を訪ねた動機の根源は関係があることを、現代の科学技術のあり方と公害について話が深まった時であった。ドウトさんが「実は、私達の仲間に、ツヴィンド校の旅をする学校の卒業生がいますが、アフリカへ行って恐ろしい病気にかかった者がいます。今休んでいますから、ここへ連れて来て紹介したい」と言い残して五分ほど座を立った。

一人の、二十代半ばの青白い長身の青年を連れて、彼女が戻ってきた。ヨハネス君といって紹介された青年は、我々を親しみ深げに見つめたとき、その眼が充血しているのに気づいた。彼は第三世界にだけいる白血球に寄生するトリバノゾマに感染してしまったのだ。周期的に発熱を繰り返し、治療法もなく衰弱し、感染症と合併すると死亡しやすい恐ろしい病気である。第三世界に出かけるこの学校が、初めて直面した重大な問題であったのだ。

彼らはヨハネス君を囲みながら、我々に「その病気の感染経路、体内での寄生虫がどう増殖するのか、治療法の研究がどの位行われているのか、資料を集めるのに協力してほしい」と、居合わせた全員が真剣に協力要請をしてきたのだ。正直いって、いや恥ずかしいが、この種の病気は日本の大学の医学部で耳にしたこともなかった。

第三世界の病気

ツヴィンド校を去って アメリカに渡ってから、第三世界の南米アルゼンチンから来た、この寄生虫病の研究をしているある学者にあった。さっそくツヴィンドのヨハネス君の話をした。

この痢気は、第三世界では国運を今でも左右するほどの問題となっており、南米の貧しいインディオ・インディアンはこの病気で大半が死滅した。飢えていると特に感染したとき寄生虫が増えて発病しやすいということも、その先生が教えてくれた。経済大国では、心臓病やぜいたく病の研究はするが、この種の病気は医者ですら知らない。

ツヴィンドの人達との約束を果たすため、その先生を通じて、トリパノゾマの研究の部厚い資料を、ツヴィンドに何回か送って半年過ぎた。

治療法などまだ糸口すら見出されず、初歩的なトリパノゾマの調査資料ばかり送り届けている自分が空しい気持になったとき、ヨハネス君から礼状が届いた。

「たくさんの僕の病気についての資料を送っていただいて、ありがとう。比較的元気にしています。発作の起きない、少しは調子の良いときは、仲間と一緒に風車のテストをしています。今でも、私の病気の診断が誤りであったら……と思うことがあります。……日本での反原発の運動は進んでいますか。あなた方の日本での風車建設は、反原発の運動の一つの新しい方向を創造するでしょう……」と、手紙にあった。

不治の病気に負けず、大風車に取り組んでいる青白い長身のヨハネス君を想像する。ツヴィンドの世界最大の風車建設の陰に、忘れてはならない存在として、彼がいるのだ。

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