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第01回 民衆が育てた風車(1)

プレーベン・メゴール(フォルケセンター)

立ち上がったパイオニア達

飽食、騒音公害、マイカー、原発などへのたたかいを目標とするNOAH(1970年代に始まった環境保護運動)の合宿キャンプが、1975年にグレノー市の小島で開催された。 その会場に電力を供給したのは、1週間で組み立てられた1台の風車発電であった。温水の供給は、冷蔵庫の部品を再利用した太陽熱温水器であった。 参加者達は、ドラムカンでつくったバイオガス発生装置による調理器で食事をつくった。それは質素を極めた暮らしであったが、皆が皆大いに高揚したものである。風車タワーは、スプルース材でつくったものでうまくいっているし、風車の他の部分の製作も全てなんとかなるであろう、というのが多くの参加者の見解であった。全てそれらの簡単な装置類は、見本としての試作品にすぎなかった。

1975年7月15日のポリティケン紙は合宿キャンプについて、「私たちは太陽や風から必要なエネルギーを得ることができる。エルサム(電力会社)やリソー研究所(当時、原発の開発研究を行っていた。デンマークが原発政策を放棄してからは風車発電の試験場として知られる)が原発しかないというのは、私たちに誤った選択を取らせようと言うものだ」と報じた。

参加者のいくらかはその後、専門家としての技術を採り入れ、体裁も加味したものへの実現へとむかった。「当時の技術レベルでは、民衆がオルタナティヴ・エネルギーをものにすることは、全くもって不可能だったでしょう」と翼の開発のパイオニアであるエリック・グローブ・ニールセンは、後日近著で述べている。

伝統的な知恵と独自の工夫

タンクローリー車の部品を用いて手作り風車をつくった、ゲオルク・ピーターセンは「風車発電づくりのため何か新しい素材を求めようというのは誤りである。昔から伝わる伝統的な風車づくりの知恵を基に、独自の工夫、設計を加えればよいのだ」と1975年11月、モルソーのフォルケブラッド紙で語っている。「設計上の構造や出力パワーに関する問題は算出可能である」と彼は既にエネルギー危機の頃から言っている。彼の風車は大変調子が良かったが,塔が木製で強度に問題があった。ある日、あっさり倒壊した。

万の試みと一の成功

1975年7月のデンマーク科学技術アカデミーは、20万台の風車発電を農家の庭に建てることが可能であると報告している。トーストループの農業試験場の技師であったソネ・コフェドとリチャード・マチェンは、2枚翼のプロペラ式温水用風車(水を撹拌することによって熱を得る方式)を試験場の一角に立てた。彼らはプロであり、その運転成果が他の人々が利用できた数少ない例であった。

しかしながら、試作機の段階を越えられる風車はほとんどなかった。VVS社のピーター・ヤンセンとフレデリスクハウンのソナーが開発した「ウィンドローズ」に関して言えば、彼らは現実的実際的な人たちであったので、手頃な価格で多くの人々がお湯を沸かす風車を求められるような風車をめざした。それは1世帯用の独立系風車であった。風車は増速ギアに直結した10kwの英国製同期発電機を備えていた。しかしまずかったことは、メーカーがこの風車の能力を、年間発熱量(発生電力を全て熱に変換する方式なので=発電量でもある)を1万から1.2万kwhである、と保証したことであった。それは2倍ほど過大な値であった。物理学の法則が変わらぬ以上どうしようもないことであった。フレデリスクハウンの工場では、いろいろ発生するトラブルに対する永続的なケアー、効率向上への専門技術的支援という面で限界があったのである。たんに出力を上げようと思えば風車径を大きくすればよいが、そうすればタワーが保たないのである。1978年創設されたばかりのリソー国立風車試験場の会合では、嵐の後にスクラップと化したいくつもの小型風車の写真が回覧され、強風に対する保安上の問題の重要さを皆に認識させたものであった。

だが、このフレデリスクハウンの風車は人々が手に入れることのできる風車のなかでは、とにかくまともに動いたので、デンマークでは一定普及したのである。ところが、なんと言っても水増しされたパワーは、残念ながらその評価を下落させる力となった。

風車のオーナーたちは自分らの協会と通信誌を持っていた。その編集長はトニー・モラーで、あらゆる風車のありのままの能力の公表を求めた。オーナーにとって安い買い物であったとすれば、その風車はどこかに問題があった、と言うことがしばしばであった。人々は何を信ずればよいのか分からないという状況であった。

1975年頃、風車発電の文献はたった1冊しかなく、それもスウェーデンの本であった。その名はベント・ソナゴー著『風車発電の本』と言い、多くの興味あふれる手作り風車発電の例が紹介されていた。とりわけ新しい設計の風車発電には、豊富で詳しい説明書や計算例が盛り込まれていたのであった。ただ残念なことに、どれ一つとしてまともに動かない代物ばかりであった。 その本は夢を売っていただけで、読者が学んだことは間違いをなすことであった。ソナゴー氏以降、風車発電づくりにチャレンジした多くの人たちが彼から学んだことは、どうしたらよいかではなく、どうしたら良くないかということであった。

夢のスウェーデン風車

まことにおかしな話しだが、同じ頃別のスウェーデン風車が登場したのである。建築家のカール・ヘルフォートは、かつてコールディングのホイスコーレにおけるゼロエネルギーハウスプロジェクトに関わっていた。そこでは電力を風車発電で供給することになっていた。彼は価格と性能の面で、よそより優れたスウェーデン製の風車発電を選定した。その話題は新聞のコラムに取り上げられたりして、デンマーク中にセンセーションを巻き起こした。

コールディング市から風車設置の認可と同時に、余剰電力を売る売電の許可も得た。配電網と連携し、自己消費電力以上に発電したときは電力メーターが逆転するわけである。ユールが1950年代に、シェランのモン島とファルスター島に同様な誘導発電機方式の3台の風車発電を設置して以来の認可であるとして話題を呼んだわけであった。そのことは、たった20年間のうちに彼の風車発電に関する基礎的な知識と経験が失われ忘れ去られていた、ということを如実に示していたのである。1975年時点で、ユールの先駆的な仕事の成果は殆ど失われていたので、ゲッサー風車自体も改めて研究用として再開されることになった。

ソーレンタナの風車発電会社製のスウェーデン風車は、技師のイワン・トレンによって建てられた。出力が8kwで、風車の直径は8メートルであった。価格も年間出力もセンセーショナルなものだった。10メートルのタワー付きで1万クローネと見積もられ、コールディングにおいては年間1万6千kwhの出力が見込まれた。ヴェストキイステンではさらに1万kwh多いという。それはkwhあたり8オーレであることを意味し、従来の27オーレに比べれば1/3であった。これは風車発電に対して、デンマーク人の目を向けさせることのできる数字であった。 当時、風車によっては3倍から10倍もコストが高かったり、風車はじきにうんと安くなるだろうと楽観視する者がいたり、という混沌とした状況であった。スウェーデン風車が的はずれなものではないことを人々が信じるためには、著名なデンマーク科学アカデミー会長のジャン・フィッシャー 氏によるお墨付きが要りようであった。価格は十分に確かであると確認された。だが、それからは、かのすばらしいスウェーデン風車は人々の話題に上ることはなかった。 デンマーク人はほっとしてやれやれと思った。その後、スウェーデン風車はデンマーク市場に登場することはなかった。

誘導発電機の方式

だが、これがきっかけとなり、配電線接続(系統連携)と誘導発電機の方式による風車発電の方式が、誰にでも納得できるものとなった。建築家のクラウス・ニブロは、イワン・トレン風車に頼らないで風車発電の手引き書を執筆し、誘導発電機方式による風車発電に大きな将来性があると書いた。それはデンマークの中小企業にとって受け入れ、修得しやすい技術書として書かれていた。このクラウスのあり方は全く正鵠を得ていた。その後のデンマーク風車発電産業は、全て誘導発電機の方式をとっている。その方式を私たちに思い出させてくれたという点では、スウェーデン人のイワン・トロン氏に感謝せねばならぬであろう。

25年後の今にして初めて、同期式リング発電機が誘導発電機に替わりうる一つとして登場したのである。ドイツでは、その新発電機の技術を誘導発電機に応用しその主な欠点をなくしている。

政治家は言う「原発か風車発電か」

1974年の冬、国のほぼ100%を頼っていた石油の消費を、国民は抑制せねばならないことを思い知らされた。全て中東の政情不安に由来したことであった。一方、デンマークでは既にその冬には、最初の風車発電プロジェクトは浮上していた.クリスチャン・リセアーによる風車発電の試みが進められており、そしてリソー風車発電試験場、全国天然ガス配送網等々、その後新聞紙上に大きく取り上げられた構想が生まれたのはOVE(循環エネルギーを普及推進するためのデンマークの市民組織)すら知る以前のことであった。既に1974年、デンマークでは風車発電か原発か、という論争が正面からたたかわされていた。

大企業にとってはお遊びの風車発電 

1974年2月28日のベーリングスケ紙は、大規模な風車発電プロジェクトを報じ、それはその年いっぱいの話題となった。F・Lスミス社が10万クローネの国の融資を受け、風車発電の開発可能性調査を行うというものであった。セメントと機械の製造を手がけている大企業である同社は、既に1942年から45年にかけて優れた風車発電をつくっていた。そして、現在新しい技術のもとに改めて風車発電の開発可能性調査を始めようというわけであった。 同社は風車発電に関心を持つ多くのグループの要請に応え、自己資金もそのプロジェクトに投じていたのである。

同じ頃、二つの社会的論争が巻き起こった。発明家のカール・クロイアはアンナ・アンドと組んで、風車発電はエネルギーとしては取るに足らないと主張した。たった数%の電力を賄うのに、騒々しい騒音を生じる鉄塔を国中に建てることなど受け入れる事は出来ない、というのが発明家たちの論であった。当時、重電機メーカーであったトリゲ―チタン社重役のステーン・ダノーも、風車発電の未来に全く否定的であった。彼の未来への観点はまた異なったものであった。つまり、「私たちは増え続ける電力消費のために、これまでのような貴重な資源を消費して生み出した電力を供給すべきではない。そのようなあり方に未来はない。いろいろな資源をいかに有効に使うことが出来るか、をまず考えねばならない。風車発電をオルタナティヴとして受け入れることは、欠乏と低成長を覚悟することだ。」

1974年9月、F・Lスミス社から最初のレポートが出された。それを担当したのはエネルギー危機の間、永く風車発電にたずさわっていたジャン・フィッシャーという会社役員であった。彼は高さ130メートルのエレガントなコンクリート柱で出来た、6台のダリウス型風車を提案した。確かに、ダリウス型風車は大変魅力的なタイプの風車発電であると思われた。1200kwというその規模は前代未聞であったし、まずはなにより観光客を引きつけるであろう。その風車発電をユトランド半島の西岸300kmに、ずらっと500台設置すれば原発1基に相当する。

だが、そのプロジェクトに対してダノー氏は再度疑問を投げかけた。「そのようなロマンチックな風車発電計画を安易に進めれば、産業活動への電力供給が不可能になる」。その代わりに、彼はフィン島における原発プロジェクトを提案した。「私たちは安い電気を作り出すために立ち上がらねばならない。原発から生じる廃熱は、フィン島内の多くの温室に利用できる」と。

ジャン・フィッシャーは風車サイドに立って大いにがんばった。 ストックホルムのある会議で、彼は自分のプロジェクトを提案したところ、デンマーク工科大学の副学長で、デンマーク科学アカデミー会長のニールス・マイアー教授の賛同を得た。ニールス・マイアー教授は「私たちは自分たちでコントロールできるエネルギーを持っていません。ジャン・フィッシャー氏の技術も当然ながら他の風車発電プロジェクトと同様に実際の試験を行なって見るべきです」。

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