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第04回 ツヴィンドミルを造った人々

イベン・オスターゴール

自前のエネルギーセンターを

ツヴィンドミルが回り始めてはや20年になる。ツヴィンドミルは当時、単に発電用風車の一つというだけでなく世界最大の風車であった。それはそれだけでも当然センセーショナルなものであった。だがもっとセンセーショナルなことは風車に関しては全く素人の若い人たちによってつくられたことであった。当時、風車は家庭で使う電力と熱をまかなうものというのが一般的な考えであった。ツヴィンドにおいては家庭とはホイスコーレであった。そこでそのためのエネルギー供給センターをつくろうと言うことであった。風車発電はもはや昔のロマンチックなお話ではなかった。それは1000kwのエネルギーセンターでなければならない。だから彼等はエネルギーセンターという名称にこだわったが、世間では通称ツヴィンドミルとしか言われていない。

ツヴィンド風車の意義

デンマーク風車の歴史一般を語るとき、その始まりから周知のこととなったその成功に至るまで、何が重要であったかと風車関係の人たちに問えばツヴィンドミルのことがしばしば語られるのだ。ツヴィンドミルは特殊な技術を使わないで大型風車がつくれることを一般的に証明してくれた雛形であると多くの人たちは言う。70年代の終わり頃、リソーの小型風車試験場にいた当時若い技術者はツヴィンドミルについて、大企業が風車はだめだということを言い、電力会社とその従業員も原発の導入に血道をあげていたころでもあり、ツヴィンドミルがうまくいくとはとても思えなかった、と語っている。

そのころヴェスタス社で風車づくりを始めたベアー・マッセンはツヴィンドミルの意義についてこう語る。「プロジェクトの進行に伴って実行グループ内で徹底した話し合いがなされ、数多くの手法手順手段が検討され、理論的実践的に試されたというところにある」と。このような行動方針を基本とすることにより風車づくりは全く初歩から始めたにもかかわらず大変順調に進んだ。

ツヴィンドミルづくりは幾多の考察がなされた。発電機は同期式か非同期式か、アップウィンド式かダウンウィンド式か温湯用か発電用か、製作する材料から翼製作の工程に至るまであらゆる事項にわたった。全てうまくいったわけではない。得られた経験のあるものはうまくいかなかった。応用技術がうまくいかなかったからであった。あるものは直ちに実用化可能な方式であった。だがその成否に関わらず全ての経験は広い意味で仕事に役立った。

エリック・ニールセンはかつてウェスティングハウスのアメリカ航空技術者とツヴィンドミルを訪れたことがあった。ウェスティングハウスはとりわけ原発を開発している多国籍企業であり、また失敗に終わったアメリカのメガワットクラスの風車にもいくらか関わっていた。私たちはハット(風車頭部)に昇ったが風車は運転していた。かのアメリカの技術者は全メカニズムを感慨深く見た。そして予備知識のなかった若者たちが強い意志をもっていかにして風車を創り上げたかを理解した。私たちがエレベーターで降りるとき彼は深く考え込んでいた。風車の外に出るまで彼は一言も口をきかなかった。しばらくして彼は静かに言った。「エリック、自分は謙虚な気持ちになったよ」

デンレーン(ボーナス)社で風車づくりをはじめたエゴン・クリスチャンセンは情熱的に言う。「ツヴィンドミルが建設される話は風車づくりに関わった者なら皆大変感動させられる物語である。」ツヴィンドミルに取り組んだ多くの若者は以来企業や研究試験機関において風車の開発に取り組んでいる

何のためにつくったか

ツヴィンドミルも他の風車づくりにたずさわった人々と同じく上昇し続けるエネルギーコストのためでもあった。だが風車は増大する環境汚染を防ぐためであった。ツヴィンドホイスコーレの先生であるアムディ・ピターセンが言うように、私たちが風車建設を選んだわけは風車は誰にも独占できないからである。風は富める者にも貧しき者にも等しく吹くのだ。ツヴィンドミルは暖房用風車として用いられることになっていた。それ故プロジェクトは温湯供給風車として始まった。

ツヴィンドホイスコーレの先生達は風車建設費が100万クローネで一年間の油代が4万クローネだから投資額はすぐ取り戻せるだろうと信じて疑わなかった。しかしながら実際には600万クローネ以上かかった。(風車グループへの報酬をプラスしたらもっと!)21年間で1500万kw発電したわけだが経済的にみて元がとれたかどうか疑わしい。だが、ツヴィンドミルはツヴィンドホイスコーレの理想的なシンボルとなり、風車開発の触媒となったわけであるので長い目で見れば元がとれたわけだ。

初めての挑戦

技術的な記載をすれば塔の高さは53メートルで1975年12月型枠にコンクリートを流し込んで完成した。20名の若者たちからなる作業グループはかつて一度も鉄の溶接やコンクリートのミキシングもやったことがなく、F・Lスミス社のいわゆる風車専門家と称する人たちから自分たちだけでやるのは止したらよいと諫められたものだ。

塔は西ユトランドの原野にそびえ立ち大変目立ったものになった。ツヴィンドホイスコーレの人たちもその意味の大きさを感じた。こうなった以上は風車を完成させる以外に道はなくなったのだ。

風車のハットは風車づくりの若者たちにとって未だ難問であり実験であった。この工程は塔のそれに比べるとかなりゆっくりしたものとなった。それは風車グループにとってだけではなく時には既存の技術の範囲を超えていた。機械工学で実証されていない分野が数多くあった。おそらく15メートルの長さのハットは船の建造技術で間違いなく可能であろう。だがハブ部、27メートルの翼の付け根となるハブは80ミリの鋼板を曲げて溶接したものであり、その製作は何度も失敗を重ねた。それは一種の芸術品であった。溶接面の一つにもヒビが入ってはいけないので内部応力のかかるハブの溶接面は完全を要した。溶接作業終了後にはトラックで郊外に移送し、焼き鈍しの工程を行い溶接面がバラバラにならないようにした。

入手可能なもので

風車づくりに用いられた多くの技術は入手可能なもので決められた。さらに言えば社会で安く手に入るもの、例えば企業経営が行きづまったとき生産設備が安く手放されることはよくあることである、とアムディ・ピーターセ ンは言う。風車のメインシャフトはアムディ・ピーターセンがオランダの造船所で見つけてきたもので700ミリという軸の直径は後で計算してみたところぴったりで大変幸運なことであった。

ツヴィンドミルは始めから安全性を重んじそれはデンマーク風車の伝統となりその経験は次の時代に受け継がれた。(例えば素人である彼等は作業に対する独自の安全基準をつくり厳守した)

翼とハブを含めたハットの総重量は115トンであった。発電機は2000kwの同期発電機でやはりスウェーデン製であった。今日私たちがなじみの風車と異なりツヴィンドミルは可変速風車である。風速8メートルで最高毎秒22回転になる。当然、周波数も可変になるので一定にするためツヴィンドミルではいったん直流に変換し、インバーターで50ヘルツに変換して配電線に送電される。変換できるのは今のところ450kw分だけだが残りの450kw分は電熱温水器で給湯用に用いられる。

意外な問題が

最大900kwという運転形態はいくつかの理由から決められた。その一つは余剰電力を地元のヴェストクラフト電力会社はそれほど高く買い取らないであろうということであり、それ故運転を控えめにし寿命を延ばそうという判断であった。また一つには翼の回転数が毎秒28回転を越えるとき振動が発生することが分かったからである。これは風車グループがハットにいる時に気づいた。明らかに風車の固有振動であった。これは大きな問題なので彼等は風車の回転数を毎秒28回転以下に抑えることにした。

27メートルの翼はガラス繊維強化エポキシ樹脂でつくられた。それは有害なポリエステルに替わる無害なものとして大いに期待されたのであった。だがそれでもその作業は翼製作グループにとって大変なことだということがだんだん分かってきた。世界中のどの医学書をみてもポリエステルだけが有毒であるとはどこにもなかった。吹き出物,湿疹、記憶力減退、などの薬物アレルギーにより一人また一人と翼作製用のテント(訳注:デンマーク空軍から借用したという細長いテント)から離れなければならなかった。テントから離れてしばらくすると症状は消滅するかかなり減少した。だが再びテントに戻るともっとひどい症状があらわれるのがしばしばであった。

そういうわけで翼製作グループのメンバーの多くは二度と戻ってくることはなかった。翼製作グループは器具類を大きなバケツ中のアセトンで洗浄したのだがそれでも事態は改善されなかった。エポキシ樹脂を扱う際には換気を良くし手袋をはめるべきであった。

風車グループの一つ鉄工グループはハットを製作した。その際、事故は鉄骨の切断の際と溶接による目の障害が時に起きたくらいであった。

他には理解出来ない矛盾と苦しみ

塔の完成は1976年冬であったがその後風車グループのメンバーは大きく変わった。グループは20-30名を中心にほぼ一定でこの章の筆者も76年から78年までその一員であった。私たちはオイルショックの頃はまだ若かったが、車の走っていない日曜日があったりした。原発の必要性が語られ環境汚染が深刻な問題となりつつあった。そのような状況で私たちは原発や環境汚染のないエネルギーを創り出す役目を担うことになったのだ。

私たち風車グループはただ風車という一点で共通していただけで階級闘争などを口にすることはなかったが、少しづつそのような意識が生じてきたのだ。私たちは一見極めてほほえましく見える大変ブルジョワ的な美徳で暮らしていた。私たちは良きケースサービスとして一生懸命働いた。ハッシュやアルコールの類には手を出さなかった。そして感覚はいつもとぎすまされていた。だがそうした生活は見かけはともかく、少なくとも内面的には実に大変なことであった。仕事は昼夜を問わず、睡眠不足と栄養失調の状態であった。建設期間は当初3ヶ月と見積もられていたが2年間に延びた。風車のコストは始め教師グループが試算したよりどんどん高くなった。したがって労働時間は徐々に確実に延長され、私的なこと、週末に帰省することとかタバコ、コーヒーなどの嗜好品はけずられ衣服もボロボロになっていった。

さらに悪いことに思考や表現の自由がなかった。だんだん私たちは中央集権的な全体主義システムに取り込まれているのを自覚した。そこでは指導者の考えていることからいささかも離れることが許されない。さもなければ容赦なく追い出されるというものであった。意見の相違自体は当然で悪いことではないはずだがそれはエゴイスティックなものと烙印を押され何時間もの尋問と半ば拷問のような洗脳の末、全面的な自己批判を求められる。かくかくしかじか自分は間違っており、かくのごとく自己改善をするつもりであると表明することで決着がつけられるというようなものであった。このようなあり方は各自の多様な思考を根こそぎにするには大変有効な手段であったかもしれない。だがそうした夜中に及ぶ尋問は後に風車グループの雰囲気を重苦しくさせた。

私たちの取り組んだわけ

風車グループがスタートした頃私たちは風車発電というものは既に完成した技術だとずと思いこんでいた。風車グループの多くは1976年秋から始めた。三ヶ月もあれば完成するであろうと信じていた。それが2年間もかかった。このように厳しい状況にもかかわらず私たちの志は信じがたい程大きく他人には言い尽くせないものであった。

私たちの共通する認識は原発を阻止する上で風車はとても重要である。それは時間との戦いであり放棄することは許されないというものだった。私たちが風車を完成できたのは私たちのような進め方でこそ実現できたのか、あるいは私たちのような進め方にもかかわらず実現できたのかは何とも言えない。もし何かツヴィンドがなしたことがあるとすればしようと決めたことを成し遂げたことである。私たちは強く不可能はなかったのだ。

プロの助けを借りて

風車グループに知恵を授けてくれた一人はヘレ・ピーターセンであった。彼はグライダーマニアであり彼の知識と関心はそこから来ていた。それが仕事というわけでなく彼は当時リソー研究所で巨大なヘリウム冷却炉の研究をしていた。またビャーネ・ピーターセンと共に通産省の最初の風車プロジェクトにもたずさわている。さらにパー・ルンセイアーとピーター・スティーン・アナソンが翼の開発にかかわった。アムディ・ピーターセンはヘレ・ピーターセンに対して「彼等はツヴィンドで大きな風車翼をつくろうとしている。それはきっと、あなたヘレ・ピーターセンさんにとっても楽しいことではなかろうか」と声をかけた。というわけではツヴィンドの会議で仕事を引き受けても良いとの意志を表明した。

アムディは言った。彼等ツヴィンドがどんなに大きなものを持とうとしているか。それは27メートルの翼になるが気にしないでよい。多分可能であろう。

ヘレ・ピーターセンは「私たち、パー・ルンセイアーは構造計算に通じているし、ピーター・スティーン・アナソンは動力学の計算に詳しく,私は翼の設計ができる」と語った。

ツヴィンド側が唯一こだわったのは大きさだけであった。アムディはヒュッターの技術を持っていた。ヒュッターは有名なドイツの風車研究者である。彼の技術はハブと翼がボルト固定される翼の根元のフランジ部分とFRP製の翼本体部分をしっかり結合させるためフランジ部分から翼本体部分へ延びたボルトのまわりに長いグラスファイバーの糸をぐるぐる巻きにするというものであった。

ヘレはツヴィンドの人たちと喜んで共に働き彼自身いろんな辛酸を味わった。彼自身このように大きな風車をつくろうとしているのが素人ばかりであることに少しも不思議と思っていなかった。彼は手作りこそが彼の翼に命を与えるという信念を持っていたのだ。ヘレは回想する。まことに有能かつ優秀な技術的才能を持った若者たちであった。

もう一人の重要なプロの援助はデンマーク工科大学のウルリック・クラベ教授であった。風車グループは彼の提案を実践した。彼の提案とは当初のプランにあったように温水をつくるだけの風車ではなく電力をつくる風車にすべきであるというものであった。このことはツヴィンドの風車プロジェクト自体がどんなものであったかを示すよい例である。計画のどんな変更も受け入れない確たる理由は何もなかったのである。

もう一人の技術者は塔の設計計算を担当したハンス・ヨアン・ルントゴールであった。彼はツノの風車プロジェクトの一員であった。

ヘニング・ヨンソンは新リーレベルト橋を手がけた溶接職人であり、ツヴィンド・ホイスコーレに娘さんがいて彼女を通じて風車グループにコンタクトしてきた。彼は風車グループとうち解けた友となり、かつプロとして多大な力を発揮してくれた。彼なくして溶接上の数多くの問題はどれ一つとして解決できなかったであろう。彼は特に困難で原因不明な不思議に思える事態が起きたときは夜中でも来てくれた。巨大なハブの溶接面がはずれたり、5メートルの軸受け台座が溶接手順のミスのためにバナナのようにたわんだりしたとき彼の魔法のような腕が真価を発揮した。ラース・スヴァンボーは機械技術者として卓抜していた。風車グループは実に良くラースと働きいつも進め方を討議していた。私たちに技術的な才があるかどうかに関係なく実践に移す前に、しばしば文献のみの技術情報をかみ砕き自分たちのものにしなければならなかった。

私にとっての完成

トンネルの彼方からついに光明が見えた日、つまり風車が初めて回った日は風車グループにとってとりわけ感慨深い日であった。その日まで実に多忙で何が起こるか分からない混沌とした日々の連続であった。その日の午後はツヴィンド・エフター・スコーレで極めて豪勢な祝典が行われた。近くからも遠方からも花や挨拶に訪れてきた。ジャーナリストは私たちをスターにした。それは大変すばらしい事だったのだが同時に私たちは仕事のことを忘れることはできなかった。ラースは風車グループと共にたたかった人なので私たちがいかに大変だったを良く知っていたので私たちに心からの感謝を表明した。それは本当に心が動かされる感動的なものであった。それが私にとっての風車の完成であった。

想像できなかった発展ぶり

デンマークで風車開発の最初の一鍬が入れられて25年、今では風車はデンマークの最大の輸出産業となった。国中の数十万の人々が風車に投資をしている。当時は月に数千人がツヴィンドミルを見学に訪れた今ではデンマークの国土に6000台の風車が立ち並び、私たちの電力の10%をまかなっている。今やデンマークの人々だけでなく電力会社すら風車に投資しようと目白押しの状況である。

世界では風車がお金になる時代になった。デンマーク風車産業は1000万クローネ以上の産業となり、数千人を雇用している。70年代から見れば隔世の感がある。例えばツヴィンドミル・プロジェクトは「未来技術と産業発展のための基金」からの援助を断られたいきさつがあった。『デンマークの企業にとって風車発電を開発産業化することは開発に見合うだけの十分な見返りが十分予測できない』という理由で。

エピローグ

1999年9月、ツヴィンドミルが運転してから初めて風車グループの全てのメンバーがツヴィンドに招待された。ヤン・ウトゾンのデザインによる赤白に塗られた翼を実際に見るためであった。そのデザインについての善し悪しの評価は分かれた。同時に風車発電グループとしてはそうした外観にお金を使うのはもったいないではないかと思った。本体部分でまだお金をかけやりたい所はたくさん残っているのだから。午後の集まりで、これは懐古趣味ではないか、ツヴィンドが最新の風車発電技術で改修すればあと10年はさらに多くの電力を得ることが出来るのではないかとの意見が出された。そうなれば赤白に化粧し死んだオブジェでなく生きた風車発電として2000年5月29日に25周年を祝う事ができるであろう。

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