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第06回 風車発電産業の発展(1)

ビルガー・マッドセン

風車発電産業の発展

風車発電づくりが何時から産業となったのかは定義の問題であろう。西暦2000年になろうという今日、1999年には120万から150万キロワット(約70万キロワットが輸出用)の生産が確実に見込まれるという時代は80年代始めの風車発電産業にとってはとうてい考えられないことであった。私は通常の機械工場が経済的条件を考慮して風車発電の開発製造に取り組み始めた時期が風車発電産業にとっての誕生であると定義している。

詳しく言えば全ては1979年秋、1979年7月の国会で、オルタナティヴ・エネルギー施設を建設すれば補助金を出す、と言う法案が始めて可決されたことから始まる。風車発電所有者に30%の補助金を出すということになり、風車発電の価格が決められたわけだが、製造業者にとって経済的にとても納得のいく価格とは言えなかった。エネルギー価格はほぼ2年前から下落し始めていたので価格設定は適切でないことは明白だった。市場性を持ちうる価格に近づけることが強いられたのだ。

初期の風車発電は全て、たとえば電気代がそのうちに上昇するかもしれないと言う予想で売れた。また政府のエネルギー・プランEP-81でもやはり、電気代は年率2-3%上昇するとされていた。

最初の始まり

だがしかし、1979年から80年代に風車発電にかかわった企業にしても、これから風車発電に専念しようと決意するにはまだ至っていなかった。こうしたなか、私たちはヴェスタス社で1978年以来、15キロワットダリウス風車の開発実証に土木技術者と共にたずさわった。草の根的には既に行われていたこれらの試みを、技術者のレオンビェルヴィは非常な関心を持って進めた。30%の補助金が未だ存在した頃に、リセアーの風車発電が売れたことも開発の意欲をかき立てることになった。同じく、ヴェスタス社の意欲をかき立てたもう一つの出来事があった。後にボーナス社となったダンレーン社と、ノルドタンク社が風車発電の生産をはじめたのだ。当然ながら、ダンレーン社もヴェスタス社も農業機械分野である。この分野は深刻な危機に面していて、そこへの投資は底をついていた。

こうした特殊な事情以外に、1973年から74年のエネルギー危機がもたらした化石燃料でないエネルギーを創り出そう、と言う広範な民衆の機運に乗じたものでもあった。その機運は個人経営の小規模な機械工場にまで広がっていた。大方の予想では、化石燃料のエネルギー価格は長期的に高止まりであろうということであった。1979年から80年にかけ、補助金に関する新法が通過したころ石油価格は再度高騰した。

こうした状況に励まされ、そしてエネルギー事情を何とかしたいという広範な市民的な関心によって、風車発電生産のための産業を早急に確立させよう、という立法が通過した。80年代初期から風車発電に係わっていた会社は、ダンレーン(ボーナス)、ノルドタンク、ヴェスタス、コングステッド、ウィンドマチック、SJウィンドパワー、エルニー、ソネベルク・モーレン、ポールセン・モーレン、クリアント(アドルフセン)そのほか多々であった。

ほとんどがOVEに関係している市民運動家たちは、堅実な企業が風車発電生産に踏み切ることを強く期待していた。彼らには最初のエネルギー危機以来の成果は、たたかって勝ち取ったものであるという認識があった。先鋭な政治的活動を行っている市民活動家と風車発電産業は、その初期から良い関係をつくってきた。

1978年のツヴィンド大風車建設、エネルギー省と電力会社による2台のニベ600キロワット風車建設、リソー国立風車発電研究所の設立などは、風車発電がデンマークの未来エネルギーとしての可能性について国民的な関心をいだかせるものとして、それぞれが重要な意味を持った。

風車発電産業の誕生

新しく生まれた風車発電製造業者は互いに独自に連絡を取り合う、などということはなかった。彼らが集う場所はOVEが主催した"ウィンドミルチャンス"であった。当時の"デンマーク風車発電所々長会議"(1978年設立、現在デンマーク風車発電協会)も後に共催になる。

1980年3月27日、風車発電製造業者はハ-ニングの宿場に集まり、新たに製造業者の協会をつくることを話し合った。かねて、私たちがなにかと働きかけてきた政府も同様にそれを望んでいた。製造業者組合の再出発には70年代、風車発電に関わったパイオニア達、リオ・オーデルとクラウス・ニブロが加わっていた。彼等は垂直軸風車に取り組んでいたであった。。80年代にはこれらの初期の取り組みは休止された。リオ・オーデルは現在、ウィンドマチック社の開発部長である。

(訳注:訳者はクラウス・ニブロと個人的に面識があるが、彼は次第に大型化して個人の手の届く所から遠のいていく風車発電の発展のありかたに疑問を持って、直径数メートルの多翼式小型風車ウィンドフラワーの開発に向かった。「時代の流れ」に抗した生き方なので当然経済的にも苦しく、多くのパイオニア達がかつてそうであったような質素なくらしを今でもつらぬいている)

新しい規約がつくられた。前の協会から慣行則として存在していたのだが、クラウス・ニブロによって明文化された。最初の会長はリオ・オーデルが選ばれた。ついでながら私はヴェスタス社の代表であり、エゴン・クリスチャンセンはダンレーン社(ミコン社)の代表だった。協会設立の直後に会社からの独立の動きが生まれた。ノルドタンク社の開発部長のピーター・モループが、彼の弟と共に彼等の会社を立ち上げるに至ったのだ。それはミコン社にも及んだ。そのことは風車発電業界に重苦しい雰囲気をつくり、ノルドタンク社とミコン社は協会の運営委員として同席出来なくなった。わだかまりは長年にわたった。だが、ミコン社は合併によって私たちが今日知るところのNEGミコン社となってからは、合衆国市場に対して最大の占有率を持つにいたった。

デンマーク風車発電製造者協会の連絡先は常に現役の会長宛であった。私たちは、私たち自身の会社の仕事以外に秘書を持たなかった。1981年から2年間、私はヴィボーでデンマーク商工会議所の会頭を務めたが、週に16時間秘書を雇っただけであった。私たちのルールは1988年アメリカ市場が崩壊するまでそのまま変わらなかった。デンマークで風車発電の製造販売をする者全てが協会員になれるという開かれたルールであった。同じく、翼やタワーのような風車発電の部品部門の製作業者にも開かれていた。

最初の年の課題は二つあり、一つは適切な売電価格基準づくりと、もう一つは風車発電建設に関する規制をなくすことであった。その頃は公的な売電価格基準はなく、(だが皆がそれに続くとなると動きだすものだが)それまでは風車発電に対してお金を払う電力会社はただ一社だけであった。

その頃、業界のもう一つのホットな話題はDWT(デンマークウィンドテクノロジー)の契約の問題であった。問題のDWTはエネルギー省などが出資して70年代始めつくられた特殊法人で、大型から小型風車まで手がけていた。会社は300キロワット以上の大型風車発電をつくるということで設立された。まもなく15キロワットの風車発電「ウィンドデーン」がつくられた。それは風車発電製作者全てのお手本となるであろう、55キロワット風車への道をひらくはずのものであった。

デンマーク風車発電製造者協会の視点では、エネルギー省から出資されるような会社と民間業者を競合させるというのは非合理であると考え、当時のエネルギー大臣にそのように文書で伝えた。DWTの運営委員のオヴェ・ディートリックはエネルギー省の代表であり、補助金の認可をするエネルギー委員会事務局長であった。何度かにわたる文書、会議を重ねた結果、製造者協会にとって明るい見通しがついた。DWTが小型風車を開発し、製造者協会へ引き継ぐということはしないということになった。

ささやかな補助金制度にもかかわらず、風車発電市場の企業活動は光明が見えてきた。ヴェスタスは、はじめに30キロワット風車で苦労し、55キロワット風車からは80-81年のあいだに市場占有率40-50%のあたりに至った。残りの市場はダンレーン、ノルドタンク、ウィンドマチックがほぼ等分していた。

風車発電の別の立役者は鍛冶屋さんで作られた「鍛冶屋風車」であった。フォルケセンターと共同で開発製造されたものであった。しかしながら、彼らはデンマーク風車発電製造者協会には加入していない。

最初の年の風車発電販売数はかなりのものであった。統計によれば、80年から82年の生産量はそれぞれ、2500キロワット、2600キロワット、5600キロワットであった。私は81年からデンマーク風車発電製造者協会の会長を務めたので、業界に関する政治的な問題により深くかかわることになった。それは私たち業界にとって初めてで、はらはらする体験であったが本当によい経験であった。当時、失業率は高く貿易赤字は大きかったことを想いおこさねばなるまい。

国会での政治的状況は風車発電にとって絶対的に良かった。国会のエネルギー政策委員会においては、風車発電に関して党派を超えて支援してくれるグリーン・マジョリティが存在した。エネルギー大臣のエリック・ホルストは早くから自治体や郡に、風車発電建設の妨げとなるものをなくすよう、簡潔で要点をふまえた通達を出していた。建築物の9メートルの高さ制限は全面的に免除されることになった。

1981年のアンカー・ヨアンセンの政府のエネルギープランEP81は風車発電に関して大変大きな見通しを開いている。そのプランでは、デンマークのエネルギー消費の10%を風力とバイオマスでまかうことができると記されている。たとえば、平均15キロワットの風車発電を6万台設置するというものである。10%の電力を風車発電で、という「目標」は風車発電製造者協会とデンマーク風車発電協会に歓迎されて受け入れられた。そして風車発電に関するあらゆる議論においてその目標は輝ける導きの星となった。

事務局長のオヴェ・ディートリック自身は10%の電力を風車発電、というのは目標ではなく、EP-81がなし得る一つの可能性であると多くの場で説いている。オヴェの言うとおりで、10%を風車発電という目標は存在してなかった。それにもかかわらず、10%と言う数字が数多くの論議で繰り返され、国会でも政治的目標として10%が扱われた。

1983年、私たちデンマーク風車発電製造者協会は、将来、10%電力供給の目標実現に向けた「10%スケッチ」をつくり可能であることを示した。10年後、私たちはその記載を検討し、私たちがなしとげた実績は予想通りに進んでいることを確認した。風車発電の規模の増大と発電コストの低減という2点はデンマークで開発発展されたともいえる。ただ点、将来の化石燃料価格の上昇予想は当たらず、反対の結果になった。(展望2004、FDV、1994年8月)

対立とたたかい

政府と私たちに比べれば、風車の所有者と私たち製造者との間には利害の大きな不一致はなかった。以前から風車発電協会と風車発電製造者協会とは良好な協動関係を築いてきた。系統連携、プランの評価、補助金政策等、全て共に協力して力を尽くしてきた。

もちろん、製造者と使用者という立場の違いから来る摩擦も存在した。双方が標準的な商い取引として受け入れることができるようになるまで、ずいぶん長い交渉をつみ重ねたことを私は憶えている。私たちは互いに合意するというには至らなかったが、仕事上の競争は協会内の企業努力を促した。そのようにして1台あたりの風車価格をより低く抑えなかったら、風車はほとんど売れなかったであろう。

製造者協会、とりわけヴェスタスと所有者協会との間で激烈な論争が交わされたもう一つの分野は保険に関する問題であった。所有者協会はハフニアは風車保険に於いて、ほとんど独占的な存在であるとみなし、補償額は少ないながら、独自の協会内の保険制度を設立した。製造者協会と所有者協会双方の接触交渉以外にも、リソー試験所の専門家グループや、それぞれの議題ごとに選出される幾多の特別委員会等々、関連する部門、組織全てと話し合いを持った。

製造者協会はOVEとは特に大きな摩擦はなかったが、デンマークの風車発電発展という共通の目標を有していたにもかかわらず、時には緊張関係が生じることもあった。たとえば私たちのリソー研究所における活動に対する評価についてであった。OVEは以前の原発論争の時代から抱いていた大いなる不信感の記憶がなまなましかったのである。(訳注:リソー研究所は以前、デンマークの原子力研究の中心であった)

風車発電の開発をしていたフォルケセンターはその初期には決定的な意味を持った。多くの製造業者がフォルケセンターの開発し実証したモデルを用いた。それはアメリカの市場ラッシュが始まり企業が独自の開発部門を強化する頃まで続いた。市民的な風車発電開発組織フォルケセンターとデンマーク風車発電協会は、風車発電産業を市場化し商業的に成り立たせるのに大変貢献した。半年ごとのウィンドミル・チャンス、メッセ、展示会は風車発電を広める良い機会であった。そしてそれから90年代の初めになると、フォルケセンターが国外への技術移転と言う形で大型風車発電を開発していた頃の熱気を、製造業者のなかで想い起こせる者は誰もいなくなった。輸出市場のなかで競合できるフォルケセンター・コンセプトの風車は存在しなくなった。彼らは自分らでノウハウを売ることを学び、たとえばジョイントベンチャー企業を設立した。

最初の個人所有のウィンドパークが建設されたとき、OVEは初めて政治的な反対者となった。共有でなく個人がつくれるというのは、風車発電発展にとって民衆の支持をうち砕くものだというのが理由であった。政治的な干渉により1985年以降、開発は全面的にストップさせられた。

委員会の主な内容は政府方針の決定、環境委員会や"技術的視点"で風車の認証に係わっている技術者グループなどのリーダーシップの下での風車設置特別委員会であった。当時のエネルギー大臣は別の関わり方をした。新たな議題提出に先立って、それを市民的な論争の場となすべきかという論点の議論を各方面に呼びかけた。そのような行きさつでデンマーク風車発電製造者協会はエネルギー省が諮問した「エネルギー輸出グル-プ」に数年間入っていた。

1983年に私たちはデンマーク電力協会所属の電力会社と、系統連携と売電価格設定についての取り決めに"自主的"に入った。"自主的"話し合いは当時のエネルギー大臣クヌード・エンゴールの強力な政治的圧力の下に進められた。もし、"自主的"話し合いがなされなかったら、その件は(議会のグリ-ン・マジョリティの力で)法制化され、電力会社にとってはもっと不利になりかねないと言う状況であった。そしてデンマーク風車発電製造者協会とデンマーク風車発電協会はデンマーク電力協会と引き続き年に3-4回会合を持ち、話し合いの結果を実行に移すに際しての問題を討議することにした。

協会のメンバーである一つの電力会社が取り決めに従わないことがはっきりしたケースがしばしばあり、問題となりデンマーク電力協会側から当該メンバーに取り決めに従うよう勧告状が出され落着した。電力協会は個々の電力会社に対して話し合いの結果を強制できなかったが、彼らは自主的な話し合いの結果を遵守しなかったら、それが法制化されるだけだと言うことを良く知っていた。

話し合いの結果、電力会社は送電線のコストの30%を負担し、風車発電の電力を消費者価格の85%で買い取らねばならないとされた。さらに、測定上の詳細にわたる取り決めがいくつかなされた。話し合いの結果は10年間有効とされたが、当事者たちは期限まで3年ごとに話し合いを持つことにした。

政治的逆風そして停滞と前進

風車産業にとっては信じられないような疾風怒濤の時代であった。風車発電製造者、その使用者、発明家、草の根活動家、政府関係者達など種々雑多な人々が数多く入り乱れ、風車発電発展にとって力強く創造的な雰囲気がつくられた。

デンマーク風車発電協会の通信誌「自然エネルギー」は、風車発電の実際の運転状況を知る上で全く中心的な役割を演じた。私たちが特にアメリカの風車発電開発と比較するとき、電力会社とメーカーのデータ公開の閉鎖性の強さをあげることが出来るだろう。デンマークでは、月々、個々の風車発電のデータが公表され、あるメーカーの風車に一つでも問題があれば、そのメーカーにとっては愉快ではないだろうが、自然エネルギー誌で取り上げられ論議される。そのことがまぎれもなく、デンマーク風車の水準を高めるのに大きく貢献した。

時折、問題の解明が一面的であったことも存在した。私は風車の失速を少し遅くするために"ターボ・テープ"を用いるという長文の記載を記憶している。全てが全て自然エネルギー誌で論議され掲載された。それが風車発電の技術的な成功に決定的につながった。

製造者協会と風車発電協会が、共に協同して発電協会側と取り組んだことは有益であった。外国と違って、それぞれ使用者と生産者の利益を代表する組織、製造者協会と風車発電協会としてその初期から存在していたのである。外国では、全ての利害関係者、生産者、使用者が一つの風車協会をつくっているのが普通で、一つの協会のもとで集約された内容の活動が進められ、しばしば個々の立場による要求の違いが明瞭にされない。

風車発電にもその初期から大きな政治的抵抗勢力が存在し、しばしば建設認可が下りずストップ・アンド・ゴーを繰り返した。例えば、販売高は80年代初期の高利率などの要素で妨げられた。1982年にある不祥事が発覚した。それは狭い市場の数多くの生産者の全く一つにすぎなかった。風車の輸出はきわめてまばらで散発的になった。ほとんどの生産者は1-2台の風車をドイツ、スウェーデン、オランダ、イギリスに輸出していた。SJウィンドパワーはウィンドローズをアメリカにもかなり輸出していたが1981年11月、地元の嵐で破壊されメーカーとしての対処不能な事態となった。ウィンドマチック社は1982年秋にアメリカにいくらか輸出を始めた。アメリカへの大規模な輸出はミグリンズ旧牧師館で持たれた会議から始まる。そこには技術者でコンサルタントのホイバックが住んでいた。1982年の初夏であった。

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