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第10回 ダンレーンからボーナスへ

エゴン・クリスチャンセン

ダンレーンからボーナスへ

1980年私はダンレーン社にセールス・コンサルタントとして雇われた。会社はソーレン・ソーレンセンのワンマン会社であった。ソーレン・ソーレンセンは持ち前の勤勉さと能力、質素さでかなりの自己資本を有する会社をつくりあげた。4月から7月までは会社は一定の人員を雇い、残りの期間は少ない人員で運営された。かくして会社の基礎は築かれたと言うわけである。彼の息子ピーター・スタブカー・ソーレンセンも同じ会社にいて彼と私はこの不景気な時代をいかに乗り切るかについてよく議論をした。私たちは都市水道、消火剤、温水ポンプなどに関するいくつかの実証済みのアイディアがあった。最初の2つのアイディアはすぐさまボツになった。温水ポンプに関しては資金の償還期間が意外に長くなりそうだった。 

出口を探るため私たちはライバル会社の者から勧められるままにHIメッセ(デンマーク産業工芸博覧会,訳注)を訪れた。そのメッセにはオルタナティヴ・エネルギーに関する会場もあった。私たちが入った会場の展示の半分は温水ポンプであった。ピーター・スタブカー・ソーレンセンは私の方を振り向いて口短くつぶやいた。「ここにいれば落ち込んでくるばかりじゃないか。」まもなく私たちにノルドタンク風車というパネルが目に入った。ピーター・スタブカー・ソーレンセンはパネルを見てつぶやいた「こいつは誰にでも始められることではないよ。私たちにはこれがむいているかもしれないよ」

私たちはノルドタンク風車のデンマーク総代理店になることができるか可能性を追求したがだめであった。しかたなく私たちは自分たち自身で風車をつくる以外に途がなかった。成果のでなかった仕事にかなりの資金を使ってしまったので多分、社長のソーレン・ソーレンセンは私たちのはかないアイディアにこれ以上カネを使うことはカネをドブに捨てるようなものだといってもう話に乗ってこないであろう。私は辞職し家に帰った。

同じ日の午後遅く息子のピーター・スタブカー・ソーレンセンから自宅に電話がかかってきて翌日来社するつもりがあるかどうか尋ねてきた。彼の父親が私たちに何か話すことがあるという。翌日9時私たちはソーレン・ソーレンセンの部屋に呼ばれた。そこで彼は語った。私たちのアイディアは幼稚であると。だが同時に彼は未来のことなど考えもしないしみったれの老人であるとはとても思えなかった。風車発電のための事務所をもうけ100万クローネ投資しようと言ったのだ。だが、それを使い尽くしたらもう一度ということは考えないようにということであった。彼は最初の風車発電を購入しようと提案した。100万クローネの中から賄わねばならなかったのだが彼が買ったことにした。私たちは額をつきあわせ果たして何をしたらよいか考えあぐねた。私たちは文献を調べ風車発電とそのことに詳しそうな人たちを探そうということになった。随分長かった2週間後、私たちは風車発電とそれに関わっている人物の情報を得ることができた。

重要なポイント

私たちの目標はできるだけシンプルな風車発電をつくることであった。リソー風車発電試験所、ゲッサー風車、ツヴィンド。エカー風力、イエルン・エレクトロ、クリアント、北ユトランドフォルケセンター、その他わかるところならできるだけ多数を訪問した。端的にいえばもし風車についてな
にか知っている人がいたなら喜んで耳を傾けたものだ。フォルケセンターは同じようなコンセプトの風車をつくっていた。私は風車発電の設計製作について援助してくれる意志があるか問うた。だが答えはノーだった。2日後私はプレーベン・メゴアに電話して特別な計らいを乞い、風車発電を作るに際してどういうことに気をつけるべきか問うた。当然私たちはその対価を払うであろうと……。彼の答えは「ありがたい話だがお受けできない。しかし私は来週コペンハーゲンに寄る予定があるので2時間ほどお寄りしましょうか」というものだった。

彼の訪問により私たちは風車発電づくりで気をつけなければならないいくつかの重要なポイントを学んだ。例えば、一つ、メインシャフトは十分良い品質のものでローターシャフトより10ミリ太いものを用いること。一つ、旋回速度はせいぜい毎秒1度程度にすること。一つ、増速ギアボックスは発電機出力の2倍程度の強度を有すること。他の部品全てが耐久荷重で120%有すること。一つ、旋回システムの負荷が一定になるようにメインシャフトの位置をもってくること。

少し遅れることは良いことだ

当初スタッフは3人であった。ピーター・スタブカー・ソーレンセンと妻のアリス・ソーレンセンが技術設計担当、それと私であった。風車開発に対する私たちの取り組み方はあべこべであった。まず1台風車をつくってその後に必要な技術を開発するというものであった。困難な時代であった。ノルドタンクとヴェスタスは既に風車発電を市場にだしていたので急がなければならなかった。私たちの第1号風車発電が出来上がった時、リソー風車試験所から検査にきた。私は次のように言われたのをはっきりと覚えている。ベアリングハウジングはずれるであろう。メタルシートは軸の圧力を受けるには不足である。等々。私たちはそれらの欠点を改善し、次回の検査ではうまくいった。そこで私たちは販売活動をはじめた。それは午後と週末の仕事であった。幸いにして何台か売ることができた。私たちの最初の風車発電を設置するとき何もかもが初めての経験で順調にいくかどうか思いもよらないくらい緊張したものだった。

幸いにして風車は大した問題もなく運転できた。最初の風車発電は22kWだったがすぐさま30kWに取りかかることになった。1981年ダンレーン風力会社は独立した会社になった。私たちは絶えず同業者から追い上げられていた。30kW風車に取りかかったと同時に55kW風車に取りかかるというありさまで、そうするしかなかったのである。それぞれ割に短期間で開発できた。

当時を振り返れば遅れて出発したことはおそらくそんなに悪いことではなかったかもしれない。先行する者が経験した災難を避けることができたからである。ここで私が言っているのはヴェスタスが抱えた翼の問題である。1982年8月1日最初のエンジニアが採用された。同時にカルフォルニア市場のためのパートタイムのコンサルタントを雇った。1982年12月に最初の6台の風車がカルフォルニアに設置された。

もう私も若くないので

1983年に社名はボーナス・エネルギーと変更した。英語でダンレーン・ヴィンドクラフトとは発音しにくかったからだ。同じ年に私たちは30-40台の風車をカルフォルニアに設置した。1984年に大きな展開があり200台以上も設置した。その年に経営部長のペレ・ノルゴーが採用された。年末には20の行程で総数40-50人の従業員がいた。私たちが1984年をなんとか切り抜け、その後ただ前進あるのみだった。今日では350人の従業員を擁し年間15億クローネの売り上げがある。

このような新たな産業としての成長を経験することのできた者は僅かであろうが、幸い私はその経験にめぐまれた。もう私も若くないのでこのように風車発電業界の私の時代を振り返ってみることも良いのかもしれない。

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