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第11回 リソー風車試験所の前史(1)

エゴン・ベネゴー

リソー風車試験所の前史 

石油ショックの最中の1974年、船舶技術研究所に大臣直属の技術部門委員会より問い合わせがあり、風力エネルギーに取り組むつもりはないかと問うてきた。たまたま研究所には風洞があり、流体と空気力学の研究を行っていた。同年、デンマーク科学技術振興財団は一つの委員会を設立した。特にデンマークの風力エネルギー利用拡大とその必要性を研究するためである。その報告書は1975年5月に出版された。1976年にデンマーク科学技術振興財団は風車発電に関する別の委員会をつくった。

ツヴィンドとの共同作業

同年の1976年、船舶技術研究所は技術部門委員会より2つのプロジェクトに関して予算をもらった。その一つは大型風車発電の計測と計測装置に関する研究開発であり、ツヴィンドが試験風車であった。

予算の認可に際して若干のトラブルがあった。そのころツヴィンドのプロジェクトは既に進行中で、その建設に関して国の援助が受けられなかったということが同じ技術委員会のなかで知られていたからだ。だが幸いにしてその風車を試験対象として考えるという法があり、ツヴィンドはそう考えればOKであった。

プロジェクトを進めるに当たってツヴィンドで大型の翼試験の台座が必要であり用意しなければならなかった。台座に翼を固定しストレーン・ゲージを貼り付け台座で計測する。翼に砂袋を載せ、その反りぐあいから反りの程度と計測データの関連を知ることができるし、どれくらいの静荷重に耐えられるかというテストにもなるからだ。

ツヴィンドが最初に私たちを受け入れた時私たちは大変暖かく迎えられた。昼食はいつもタラの缶詰であった。「これが一番安くて健康にも良いさ」とアムディは言った。私たち計測技術者はツヴィンドの人達と共に同じ食堂で食べた。食事はいささかスパルタ式であった。私たち技術者の一人がうち明けるには、ある日ジャガイモの皿の中から一切れの小さな肉きれを見つけた時には思わず歓声をあげたものだ、ともらした。

翼の製作に従事していた人々の中から有毒ガスを含む作業環境により倒れる者が続出した。だが、誰も健康のことを考えずただ共通の目標あるのみだった。現場では歌を歌いながら楽しげに仕事はどんどんてきぱき進められた。その間一度だけ"ドレイ"たちにエネルギーを注入するためリンゴを満載した車がきたことがあった。来る日も来る日も熱狂状態がつづくのには全く驚くしかなかった。かつて私は風車グループの一人を乗せて週末に車でコペンハーゲンまで行ったことがあった。私は彼に何故週末にコペンハーゲンに行くのか尋ねた。彼が答えて曰く「いや、私にはウイークデイもウィークエンドもないのです」、「自分は今日が何曜日かなどと言うことは意識すらしていない」ということであり、「自分はただ、「旅するホイスコーレ」に用いる古バスの改造に必要な部品を探すことしか頭にない」と。(ツヴィンド・ホイスコーレはアフリカ、アジアなど第3世界の実情を学び、自分に何ができるかを考える学校として開設された。古バスはそれに乗って旅しながら現地を訪れる手段で自分らで改修する:訳注)

私たちの計測プロジェクトでは計測自体の意味を私たちが皆に分かってもらうということまでは行かなかった。が、私たちが実験室の外で測定するときはかなり大きな間違いをすることがあるということを学んだ。例えば翼から風車軸に行く重要なリード線が翼の運転状態になると亀裂が入るということを頭に入れてなかった。

ひびが入るということでは、デンマーク科学技術振興財団の会報に報じられた記事で私たちがこの計測プロジェクトから得たノウハウを外国などに売買するという内容があり問題になった。ツヴィンド側としては私たちがタダで手に入れた測定データをよそに売るというふうに受け止めた。そして直ちに私たちを追い出した。幸いニールス・マイヤーがデンマーク科学技術振興財団の会長であったので、そうしたことがあったにもかかわらず計測を終えることができた。

移動測定局

私たちがツヴィンドの計測を始めたすぐ後にリソーと共にゲッサー風車の計測計画をたてた。ゲッサー風車の計測プロジェクトの予算は一部、アメリカの風力計画によってまかなわれた。アメリカはゲッサー風車の詳細に大変関心を持ち、ゲッサー風車の再開と一連の風車発電計画に資金を提供した。  

船舶技術研究所が始めたもう一つの風車発電プロジェクトは移動測定局の開発であった。既に立てられている風車発電の風速と出力の相関曲線を測定するものである。その測定局は大変役に立ったと思う。それは当時デンマークでは唯一のものだった。最初に計測局で測定され出力曲線が判明した風車はリセアー風車だった。それとともに7.5kWから30kWまでの多くの風車が移動測定局によって計測された。それらの初期の成果は「風車発電とその可能性」というパンフレットにまとめられている。そのパンフレットは1978年の初夏に出版され、いくつかのパラメーターから風車発電のエネルギー生産量を大変簡易な方法で予測でき、風車発電の規模と経済性を選定できるような内容になっていた。そしてそこには風車発電を設置する許可をとるには行政上の手続きをどうしたらよいかということまで述べられている。その頃はまだ風車発電の認可など考える者はいなかった。それは風車発電を買いたいと思っている潜在的な風車発電の購入者に道を開きその良き手引き書になった。

リソーが風車試験所になる

1976年のデンマーク科学技術振興財団の委員会提案の一つは小型風車試験所の開設であった。船舶技術研究所所長ミルトン・ムンク・ニールセンは同研究所をそこに結びつけようと大変積極的であった。もし研究所の内部からそうした動きがなかったら私たちは単に海上のことだけをやっていただろう。リソーに風車試験所をつくるべしという強力な政治的な力が働いていたのだ。幸運にも当時、リソーの原子力研究所には、もっと多様な方面にも研究を広げなければならない、と考える将来のことを見通せる人材がいた。そして物事はそのように動いたのだ。リソーは躊躇しながらもその任務を引き受けたわけだ。だが多くの者は"カザグルマ"良く言って"風力"ごときものはエネルギー源としては吹けば飛ぶようなそのうち消え去ってしまうはかないものだと思っていたので、研究所の一隅のバラックを貸し与えれば十分だと考えていた。そこに最初の風車発電研究リーダーと共同研究者が常駐した。船舶技術研究所はそこの運営グループの一員として試験所の活動を担わなければならなくなった。船舶技術研究所の仕事は新しくできた試験所の下請け業務である風車発電の計測業務に変わった。近年はトリポット社が計測業務の企業として軌道に乗ってきた。80年代半ばよりこの分野での船舶技術研究所の活動は徐々に小さくなった。

私たちの仕事はいつも大変重大な意味があった。風車産業で収集された経験は私たちが事象を分析し対応する科学的な手法にのっとって集積された。それは風車産業の発展と安全性の向上にとって大事なことであった。また風車所有者の利益団体が適切な形で関わったことが風車産業の発展にとって本質的に重要であった。 風車へのエネルギーと活力が当時のリソーのような組織を動かしたわけだが、それによって風車発電産業による風車とその部品の開発が迅速に進んだということに私たちはやがて気づいた。

リソーの組織と所員はより基礎的な手法による研究開発実証という分野で企業ではとても及ばない位置にいた。最初のリセアー風車が試験所に届いたのは1979年であった。クリスチャン・リセアーは試験所が彼の企業秘密を保持できるとは信じていなかったので試験所としてはアスビヨン・ビエールから中古の風車を購入せざるをえなかったのだ。その風車のギアボックスがなぜ壊れたのかよく分からなかった。工場側はギアが十分頑丈でなかったからだと言った。私たちがその風車を測定したところ30kw風車なのに45kwにならないと失速状態にならないことが判明した。失速制御に関する研究は最初の年に特に多かったが徐々に一つの研究分野になった。事故はしばしば起こったので新分野は注目され本格的な研究がはじまった。

82年から83年ころには風車の失速制御はまがりなりにも満足に動作するようになった。1980年、ヒナループのヴェスタス55kw風車の事故は風車翼に対する静的荷重の実証試験を余儀なくされた。以来全ての型式の翼について静的荷重試験が認証条件になった。同じく1981年9月のヴェスタス55kwの別の翼事故とノルドタンクの翼先端部事故は風車の強度記載についてさらに詳細なものを求められるようになった。特に翼の静的荷重に対する最大強度と疲労強度に関する必要強度を両方記載した記録文書を求められることになった。疲労試験の手法は例えばコロネット・オルタネギーのエリック。グローブセンが行った実験などに学んだものだった。

認証作業に関連して私たちは風車発電工場をしばしば訪問し風車の構造計算、設計図を風車業者と共に検討した。私たちの訪問に対して初めはほとんどの風車業者は警戒的な態度をとっていたが後に気を許すようになった。私たちが風車業者を訪問することで彼らの設計はしばしば変更になった。実際、私たちが訪れた工場を去る前に設計変更がなされるというあんばいだった。風車業者やそのほかへの訪問は私たちにとって多大な経験として還ってきたし、その後の試験所の運営に大変役に立った。

最初に私たちが認証した風車はアドロフセン風車で認証番号はA1であった。それはエケアー翼をつけた11kwダウンウィンド風車であった。次に続く3台の認証はウィンドマチック風車(22/30kw、45kw、55kw)で全てリセアー風車であった。その後多くの風車が認証された。手作りの風車、フォルケセンター、ダナ風車(リオ・オーデル、クラウス・ニブロなどの「風車づくりコレクティブ」による)、小型工房、そして後に本格的な風車企業となったソネベア、ヴェスタス、ノルドタンク、1980年の頃のボーナスなどが続いた。

工場訪問に関して数多くの逸話があるが、とりわけ明けっ広げで多くを学んだ仕事場はハーボルクの鍛冶屋カール・エリック・ヨアンセンのところだった。彼は風力-ディーゼルシステムをよそが取り組む以前から手がけていた。にこにこ笑いながら彼は彼のつくったシステム、配電網に接続され家と工場の電力をまかなっている装置を見せてくれた。

また彼はこの認証制度は不満であった。なぜなら彼にとって同じ風車をたくさん作ることはありえないからだ。その都度たえず改良されねばならないからだ。彼にとってベストな認証制度は風車をつくる人自身にたいする「認証」であった。笑いながら「デンマークでベストな風車は彼のつくった風車だから」と。むろん私たちはそのような認証など認める訳にはいかなかったが、彼の所を訪問するときにはコーヒーとケーキを忘れないようにしなければならなかった。彼は私たちが訪問した後非常に早く認証をとった。前にもふれたようにカール・エリックの30kwと55kw風車のしくみはヴェスタスの最初の量産風車となった30kwと55kw風車のベースとなった。

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