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第13回 風車オーナーの組織

イベン・オスターゴー、アスビヨン・ビエール 

風車オーナーの組織

1978年、最初の配電線接続方式の量産された風車発電であったリセアー風車が運転されはじめた頃から、風車発電オーナーにとって自分たち自身の利害を代表する協会が必要だ、と言うことが急速にはっきりと分かってきた。新たな風車発電オーナーはやがて、技術的、経済的、政治的な問題に次々直面し、一人一人ではとても対処できないことが明らかになったからだ。

1978年5月4日、20人足らずの風車発電オーナーと風車発電に心を寄せる者たちの集まりがあり、共通の利害に関して電力会社や政府と交渉したり、風車発電の可能性についての重要な情報を集めるため、協会を立ち上げようと言うことになった。  協会の名前はデンマーク風車発電所協会となったが、後にデンマーク風車発電協会となった。その当初から協会の目的は、一つには風車発電オーナーどうしの交流の場でありその利益組織であること、そしてもう一つの目的は、風力エネルギーの実用化、風力の可能性についての啓蒙活動と環境的なエネルギーの普及を目指す、という二つの目的が定められた。実際、それらは相矛盾するものではなかった。というのは風車発電の発展は、それを支える民衆の理解に基づいた政治的支援が欠かせないからだ。

1978年の頃はまだ人々の認識として、エネルギー・環境的な意味で、クリーンなオルタナティヴ・エネルギーである風車発電の活用は、きわめて健全な常識であるとまで至っていなかった。デンマーク100年の様々な風車発電の歴史のなかでも、最初の第一世代の発電風車が登場したころは、とりわけパイオニア精神に満ちあふれた時代であった。1986年、22kwリセアー風車が配電線接続式で運転された。その一台のオーナー、ジャーナリストのトニー・モラーは風車発電というものは調子よく十分に発電するものだと言うことを世界中に発信した。 彼自身が買ったリセアー風車も、ティのカースティン・フリッツナーが所有するもう一台のリセアー風車の価格、発電量もまずまずであった。それは大事なことだった。安い石油という観念と原子力の夢物語により、民衆は風力エネルギーをあらかた忘れ去っていた。そのころ、電力会社は今と違い、独裁的、強権的で風力による分散型発電に対して全く冷淡であった。1976年につくられたデンマーク最初のエネルギープランに、政治家たちはオルタナティヴ・エネルギーを取り入れていない。そういう情勢なので、デンマーク風車発電協会にとって、風力の可能性に関する啓蒙活動に真剣に取り組むことが何より大事なことであった。最初の仕事はその目的から直接来た。協会はその初期から商務省とコンタクトをとっていた。風車発電の能力についての広い啓蒙、エネルギー政策による公的な影響力を獲得し、風車発電がもっと大きな役割を得るためである。その頃、商務省はエネルギー分野も担当していた。むろん風車メーカーとも十分なコンタクトをとっていた。風車の品質向上とサービス、保証の充実のためである。

差し迫った問題が山積みであった。最初の年から、技術的、サービス、売電価格、電力税の還元、補助金問題、配電線接続問題、付加価値税(VAT)問題、訴訟、風車の研究改良・・・次々問題が押し寄せた。風車メーカーとの対決 最初の年は風車発電にとってドラマチックな幕開けであった。それはとりもなおさず難関と格闘開始の年であった。70年代は暴風によるリスクは約50%であった。と言う背景には、例えば、暴走事故は最初の風車オーナーにとって日常茶飯事の事実であったことが隠されていた。70年代末の風車発電オーナーは、暴風の後にどこの風車が壊れたか、互いに電話連絡をとりあうことは珍しくなかった。 風車協会は行動を起こさねばならなかった。暴走事故や破壊の原因は、どの風車にもスポイラーブレーキがなかったことにあるのは明らかであった。いろんな方式のブレーキが考案され、一つの型の風車で何種類の方式のブレーキも装備した風車もあったが、どの方式のブレーキもダメなときはダメであった。そこが風車オーナーの組織と風車メーカーの最初の対決の場となった。メーカー側は当然、スポイラーブレーキなしでも十分安全性は保たれると考えたわけである。風車協会がこの問題に取り組む事を決意した頃は結成からわずか2ヶ月しかたっていなかった。 風車協会の実行委員会は、人々がスポイラーブレーキなしの風車を購入することを、少なくとも思いとどまらせることを決定した。半年後には市販の全ての風車はスポイラーブレーキをつけていた。そうしなかった風車がただ一種あったが、そのメーカーは1年も経たずに消え去ってしまった。そうした決定ができた背景には、基本的、根源的な議論をえんえんと積み重ね、風車協会として決して特定のメーカーと結びつく事をしない、という結論に到達していたからである。そして一方、風車発電協会はできるだけ価値のある情報を会員に与える任務があり、そうするためには物事を高い次元に立ち、原則的で真剣に判断しなければならない。      

世界一の統計記録

こうした原則の上で行われた良い例は、風車による発電量の月刊統計である。それは1979年1月より、最初の14台の風車による報告から始まった。特に最初の年はその統計は風車を買う予定があるのだが、どの風車がもっとも良いか探している人々に利用された。統計は豊富な実例によって、どの風車が良く発電し、どの風車があまり良くないか明瞭に物語ってくれる。それはメーカー側にサービス、保証への責任感を深めさせる事に大変役立った。 以来、20年にもわたる風車の発電記録は至宝ともいえるものであろう。世界中のどの国にもそれに比肩できるものはない。毎月数多くの風車オーナーから運転記録と発電量を記録したカードが送られてきて風車発電協会の通信「自然エネルギー」に掲載される。 統計は発電量のみならず、運転状況、技術的問題、風車のコストに及ぶ。数あるメーカーのどのサイズの風車がどの地域で優れているか詳しく知ることが出来る。そして、ある地域に風車を設置した場合、それがどれだけの発電量になるかを詳しく予想する新たな情報手段でもあった。 風車の購入価格の記録は風車所有車にとって、政治家と売電価格について交渉するとき、風車オーナー側の立場を強くすることに役だった。

会員のための協会をめざして

22周年を迎えた風車発電協会は会員その他に対し、風車のあらゆる専門分野に関するアドバイスを与えることが出来る。フルタイムの技術コンサルタントはあらゆる種類の技術的問題に取り組む。仕事の範囲は風車の技術一般から保証期間の延長、メーカー向けの報告書の作成、行われた修理のチェック、保険加入のアドバイス、配電線接続工事の見積もり、修理、改修へのアドバイス等に及んだ。 6人の地域コンサルタントが、とりわけその地域における風車の立ち上げに力を貸し、その後も引き続き面倒を見る。例えば、発電量の計算、騒音、経済性、近隣への景観障害の予想、デンマーク風車発電市場に対する偏らずかつ実際的な見解 を伝えることなどを受け持つ。4名が協会に雇われ2名が技術的質問以外のあらゆる質問に対応する事務系のコンサルタントであった。質問は風車の経済性、配電線接続、保険制度のアドバイス、法規制、風車建設計画、環境・エネルギー関係の政治的状況などにわたる。彼らは豊富な多年の経験を持っていた。ヨーン・ラーセンは協会きって風車の経済性に関するアドバイサーである。      

柔軟な組織体制

トニー・モラーは協会の設立に関わり以来、何年にもわたって協会の月刊通信誌「自然エネルギー」の編集にたずさわっている。22年間、年間12回、常に討論や専門的な法律問題などにあくこともなく取り組んでいる。「自然エネルギー」誌は風車発電の進展で実際的な展開をもたらす上でもっとも効果的な役割を担った。メーカーと販売業者は「自然エネルギー」誌に対して一目も二目も置いていた。中央の政治家達や電力関係者は「自然エネルギー」誌上に登場したことがあり、そこで名前を知られている存在であることを誇りにした。風車発電協会の基本方針はリーダーが決めるが、編集は編集者の権限である。このように風車発電協会が活動と批判を伝える自由な場である通信誌を持っていたことは大きな力となった。協会は7人のメンバーで運営される。風車発電に取り組んでいる数多くの協会員から重要な仕事が次々持ち込まれるなかで、とりわけ大きな功績のあったのはフレミング・トラナスである。彼は1981年に会長に選ばれ、以来15年間デンマーク風車発電協会の会長であった。彼は鋭い政治的感覚で状況を把握し協会を導いた。政治的な対処にも現実的なバランス感覚があった。彼の下にメンバーどうしも互いに強く団結し、強力な指導力を発揮した。協会員の風車オーナーたち自身が互いに連帯してできた風車保険会社の設立にも彼の貢献は少なくなかった。 同じくデンマーク風車発電オーナーエネルギー会社の設立構想を進めた牽引力であった。会社は1999年具体化した。

風車野郎の集い    

風車発電協会は話し合いに関してはおよそ労を惜しむことがなかった。地域の会合は年に平均100回くらいであった。ということは風車発電協会としての企画だけで年に2000人集まったことになる。加えて、他の会議やウィンドミル・チャンスなどが次々続いた。ウィンドミル・チャンスは後期になると300人から400人が参加、ある年は600人になったことがあった。それは全国の風車野郎たちが集い、オープンに経験を交流する場であった。彼らはそこで具体的な技術面だけでなく、政治的な方面でもより強くなろうという意図があった。時のエネルギー大臣やエネルギー政策の政治家役人達はこぞってウィンドミルチャンスを訪れた。そしてそこでは皆が皆、討論に巻き込まれるのであった。こうして生き生きとした活発な討論の伝統ができたのである。

最初の会合は1976年11月20日、ブランビエ・ホイスコーレで開かれた。 最初のウィンドミル・チャンスはOVEによって企画されたが、1978年2月のスノグホイのウィンドミル・チャンスでは既にトニー・モラーが風車発電協会を立ち上げていた。そして協会はすぐその共催者となり、後には主催者となった。風車野郎達は公的に有名というわけでもない人たちの集いの場も持っていた。あらゆるメーカーが業種ごとにグループをつくり、同業のメーカーどうしが経験を交流し互いに助け合い、独自の経営と活動方針を持った。必要に応じて同業のメーカーどうしが経験を交流できるということは、今までのようにメーカーとオーナーの関係が固定されたままの状態であるのとは大きな違いがあった。というわけは当時、風車発電は規格ごとに扱わなければならなくなってきたし、メーカーどうしの関係も大きな問題になってきたからだ。そこでは潤滑オイルの規格やギアの問題からサービス条項、保証条件、メーカーどうしの関係に至るまで全て話された。年次総会が始まる前の午前中にはほとんど全てのグループが彼らの総会を持った。 1990年より風車発電協会の年次総会で「風車賞」の叙賞が次第に恒例行事となってきた。最初の受賞者はボーとクリスチャン・リセアー夫妻であった。 (訳注:訳者も夫妻に会ったことがあるが、夫のクリスチャンはいかにも職人肌で奥さんのボーは大変外交的な明るい感じであった。彼がつくった風車を奥さんが販売という関係であったそうな。面会に行った時も奥さんだけが出てきた。はじめ、ご当人のクリスチャンが現れないのでどうしたのかと思っていたが、あとから、時々物を運ぶふりをして通りがかった人がそうであったと分かった。奥さんによると彼は英語が話せないからだということであった。そのうちに私が単にジャーナリスティックなあるいはアカデミックな立場だけで風車に興味を持っているわけでない事を感じたのであろう。いきなり奥さんを押しのけて登場され、彼のアイディアの風車のメカニズムに関して早口のデンマーク語でえんえんと説明を始められたのだ。彼のデンマーク語についていけるかいけないかは全くおかまいなしであった。何を言いたかったのか結局分からなかったが、彼が風車発電に賭けた時代の熱気を感じるには十分であった。その頃既に風車発電は職人の手を離れ彼は過去の人物とされていた)

2000年の受賞者はイエンス・ラーセンで、彼の功績はコペンハーゲン環境センターでミデルグルナーにおける風車発電建設に尽力したことであった。風車発電協会の主な任務は風車発電に関する実際的な仕事と、メンバーに対するアドバイスに始まって、風車発電に関心を持つ学校の生徒からジャーナリストまで、あるいは風車発電建設が予定されている住民に対して、風力エネルギーに関する情報を伝えることなどであった。「自然エネルギー」はそのための中心的な役割を担ったが、協会は年間を通して、様々な風車発電に関する一般からの質問に対して答えた一連のパンフレットを出し続けた。風車発電の本当の事を知りたい全ての人々のために協会は1997年広報局と共に「持続可能エネルギーのホント」という風力と風車に関する27項目のわかりやすくて手短な啓蒙書をつくった。協会のパンフは様々に活用されたが、引き続き最新のバージョンをつくることも協会のしなければならない仕事であった。協会の政治的影響力は様々な局面で大きく作用した。協会のスタイルは壮大な目標を掲げそれに賭けるというものでなく、政治家、役人に対して日々コンタクトし明確な情報、目標を与えるということにウェイトを置いた。地域で進められる風車プロジェクトにたいする地域住民の疑問や質問にこたえるため郡や自治体にコンタクトした。国会と政府、風力関連法に対して協会がコンタクトするターゲットは、とりわけ新しく替わったエネルギー大臣、国会のエネルギー対策委員のメンバーに向けられた。ほとんど毎年、風車には新しい歴史が加わり、協会は新しい法の内容に関する討論、検討とその情宣、広報へと仕事が増えてきたのであった。      

風車発電は競合可能    

個人でも風車発電が利用できるようになるため、そろえなければならない条件はいくつもある。ただ単に、風車は無公害のエネルギーであるとか、家計の助けになるとか言っても、風車発電を建てると確かにそうなるのだという合理的な根拠が求められる。それは一般からの質問の一つとして常にあるもので、風車発電協会は風車オーナーを代表して常にその質問に対して答えを出し続けてきた。議会の後押しも多少あり、風車発電協会と風車発電製造組合は1984年、デンマーク電力協会との間で風力の売電価格についての合意に至った。(85%合意:風車発電オーナーが電力会社に売電する価格は、電力会社から電力を買う時の価格の85%とするという取り決め)それは1990年まで続き、その後国会はその算定評価を立法化した。85%合意は守られたが、税の還元については炭酸ガス税が10オーレ、発電補助金が17オーレと変わった。算定基準は風車発電に対する発電補助金を加えてつくられた。それは社会経済と風車発電の環境価値の折り合った値であることがのぞましいことはすぐに予想できた。それ故、既に1991年、風車発電協会と風車発電製造組合は持続的に研究を進めることを共同提案した。エネルギー大臣アンネ・ブリジッド・リンドホルドはそれは合理的な提案であり、政治的な利害で扱うべきものではないことを理解していた。2年後エネルギー大臣ヤン・シュルセンはその研究を受け入れた。郡と自治体の研究所は1994年から5年にかけて風車発電の社会的な価値という報告を出した。主な結論として、風力の環境への貢献は多大であり、社会的視野を広げれば風力は天然ガスと競合出来るし、石炭火力より有利であると思われる、というものであった。研究は90年代の風車発電の売電価格の算定基礎資料をつくるところまでなされた。次に起こすべき行動はまず何より第一に安定な売電価格を確保するたたかいであり、次のラウンドはそれを最大にすることであった。1998年から99年、その頃はオルタナティヴ・エネルギー運動分野も国会もリベラル精神が支配的であった。売電価格問題は風車建設にとって重要な政治的課題であり、風車発電協会は今までの記録、結果の数字をもとにねばり強くせまった。スタイルは扇情的、戦闘的なものではなく政治家達の信用と支持を得た。協会の構成は風車組合から多数の新たな単独オーナーまで、そして1000キロワット級風車オーナーから一世帯用風車オーナーまで及び、皆等しく協会の会員である。さらに、協会の13000人の会員のうち1000人は風車発電を持たず、共同オーナーでもないのは面白いことである。この範囲の広さが何か問題が生じたことは一つもなかった。それぞれ関心と抱えている問題は同じであったから。21世紀になろうとする時点で個人所有風車と共同所有風車のオーナー数はあわせて約7万人になったと風車発電協会は発表した。それはまさに躍動する民衆の運動であるのだ。

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