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第15回 ラ・クールの伝統を引き継いで

プレーベン・メゴール

ラ・クールの伝統を引き継いで

1976年12月、ヴェスターヴィックのビョン・ロッシングは22kw風車を買った。彼が求めた風車は当時、価格が50%値上がりして7.5万クローネもしたので、彼も高すぎると思っていた。

その頃、 ティにはもっと安い22kw風車のプロジェクトを進めようとNIVEグループが新しく発足していた。メンバーは地域の技術者、農家、鉄工業者、教師そしてそれらをまとめる筆者などであった。1978年エケアー風力に5台分の5メートル風車翼が発注された。後の多くの風車プロジェクトに応用された5メートル翼の始まりであった。だがその風車はまだ運転制御装置がなかった。そこの部分はグループの一人フィン・ベンディックスの手に委ねられた。彼はティステッドのHMオートマチックス社の専務であった。運転パラメーターがしっかり設定され、より小型な実用装置であった。当時は翼車旋回装置として尾部の舵取り風車が一般的であった。それはエレクトロニクス装置が発電機とつながり、電気的に 翼車を旋回させるという当時としては大変進んだ運転装置であった。

デンマークで最初に風向計と電動の翼車旋回装置を持った風車としてのNIVE風車であるが、それはやはり、ヨハネス・ユールの設計思想によるものであった。このNIVE風車の労作によってHMオートマチックス社はハーボルクの鍛冶屋(鉄工業者)カール・エリック・ヨアンセンに最初の運転制御装置を納入した。この書の別稿で書かれているようにそれがヴェスタス風車の第1号となった。今日風車に電気的リレーによる翼車旋回装置を皆たやすく用いることができるのはHMオートマチックス社がそれを実用化してくれたおかげであるといえる。

NIVE風車から鍛冶屋風車へ

体育教師のカイ・フェンボー・ヨアンセンは最初のNIVE風車を受け取る。ティステッドのHP機械工場はいわゆる風車メーカーの役割をした。風車のハット(頭部)を製作し、数多くの地域の「鍜治屋」(訳注:小規模金属加工業者)が準備した部材や機器を組み合わせ風車として組み上げた。ツヴィンドのような教育的な、あるいは手作り派のそれとは異なるが、NIVEグループが備えていた風車の知識、取引、協調のセンスは、100年前のラ・クールに始まりデンマークの人々が仕事として事をなすのに欠かせないものである。

フェンボー22kw風車はスヨーリン・ホールに展示された後実際に設置され系統連携された。プロトタイプとしては驚くように少ないトラブルで上出来な運転経過であった。風車は頑丈で安全性も十分だった。ただ、残念ながら騒音が大きかった。頑丈な点以外風車軸に装着されたフェナーギアは風車には適さなかったので次のヴァージョンからは採用されなかった。その風車ははじめ翼にスポイラーブレーキがついていなかった。当時どの風車にもついていなかったのだが。スポイラーブレーキの考えはユールの設計フィロソフィーに既に見いだされる。夜間、暴風が襲ったときに持ち主のフェンボーが不安だと言うのでスポイラーブレーキ付きに交換することにした。

広い視野のもとに、ティステッド地方の小企業が個々に至るまで参加できるようプロジェクトはうまく進められた。私たちのヴィジョンはこうだ。立役者たる小ないし中企業は風車に関する専門的知識を自由に得るべきだ。風は誰のものでもない。民衆こそ風を利用すべきではないか。その後15年間風車は民衆の共有財産であった。

OVEは1978年、76年以来5回目のウィンドミルチャンスを開催した。会場のブランビエ・ホイスコーレには各エネルギーセンターや手作り派の人たちと共に産業団体や業界のトップの人たちも加わった。それはまぎれもなく風車にとってエポックメーキングな出来事だった。「鍜治屋」風車に関して言えば私はそこで2200の小企業を代表しているデンマーク「鍜治屋」協会会長フリッツ・ソーレンセンと協会委員のイエンス・ヤンセンとの出会いがあった。彼らは多くの小企業が力を合わせて風車作りができることを心から望んでいた。例えば、ヴェスタスがかつて手がけ企業として成長したように、彼らは農業トラクターのように普及し標準的な機械の製作生産に豊富な永年の経験を有していた。また、メンバーにとって共通に必要な技術、例えば鉄骨枠組の技術は彼らの協会メンバーなら必要に応じて誰でも協会から得ることができる。それと同じように将来、メンバーが自由に手に入る風車やバイオガス、ソーラーユニットなどの製作マニュアルを作ることができないだろうか・・・・・・。

NIVEプロジェクトがはじめからもくろんでいたオルタナティヴ・エネルギーをオープンにかつ地域的に進めるという目的は理想的な形で進行した。オルタナティヴ・エネルギー開発の歴史全体から長く見れば、それはフォルケセンターの枠組みとして引き継がれ、彼らが自力で進むことができるようになるまで技術的組織的支援を得ることができた。

デンマーク「鍜治屋」協会が参加

1970年代は企業がオルタナティヴ・エネルギーに関して補助金を得ることはあまり無かった。デンマーク産業連合は100%原子力に賭けていた。だが、デンマーク「鍜治屋」協会は時流に流されない勇気を持っていた。同じくデンマーク手工業会議も先を見通す目があった。彼らの立場から会長のイエスパー・ボーエは熱烈に支持を表明した。

一つの社会の中でそのことがどのように作用したかは1985年デンマークが原発計画を放棄したことで理解することができる。「鍜治屋」達が彼らの業界協会を通して風車発電に加わったことはエネルギー政策を超えて産業政策に関わる事であった。それ故、できるだけ早く風車生産に組合のメンバーを結集させる方向に転換した。

NIVEプロジェクトの指導のもとに22kw風車のプロトタイプがリンスのヘニング.ポールセン父子会社でつくられた。 ヘニング・ポールセンは若い頃羽根板式風車に関わったことがあった。ベンディは仕事の時間も休みの時間もなく風車に取り組み多くの成果をあげた。風車の設計図そのものはデンマーク「鍜治屋」協会のものだが原則的に風車に関心を持つ全てのものが利用できると言うことになっていた。試作品は国の認証を受けるためリソー風車試験所に設置された。それは1979年9月の頃で私がデンマーク「鍜治屋」協会に初めてコンタクトしてちょうど一年目のことであった。

リソー風車試験所の認証期間は非常識に長かった。というのはリソー風車試験所をどのように利用すべきかいろんな意見があったからである。リソー風車試験所としては認証に供される風車を完成品と見なしていたが、小企業のメーカーにとっては試験所がその経験と人材を投入して翼の調整などをしてくれることを期待していたからである。メーカーにとっては認証を受けるためにつくった風車であり、事実今まで実際には運転されたことがなかったので最終的な微調整ができる機会がなかったわけであった。 風車発電開発史のこの部分はラクールの伝統と相容れないところだ。

デンマーク「鍜治屋」協会の10メーカーがオルタナティヴ・エネルギー関係の仕事に転換し、22kw風車発電の製造を始めた。そして時は流れ、既に多くのメーカーが55kw風車発電の製造を始めていた。そこでデンマーク「鍜治屋」協会の次の目標は90kw風車であった。それは大変な飛躍であった。それは次のことでもわかるだろう。オルタネギー社は90kwクラス風車向けの10mグラスファイバー翼をつくっていたが、実装テストされる風車が存在せずそれを待っていたという状況だったのだ。

エネルギー省は1982年木製翼プロジェクトに対し補助を始めた。それはラミネート加工したムクのスプルース材による翼で1980年代のNIVEプロジェクトの経験に基づいていた。風車は「鍜治屋」アナース・ダビッドセンのところでつくられた。NIVEの大型風車設計チームの基本的な設計によるもので、電力会社の風車を除けば今までにない規模の大きさであった。ダビッドセンとの共同作業はとりわけ実りあるものであった。彼は言うなれば先見の明があり1982年にフィンランド製のギヤボックスを90kw風車と小型風車につけた。その後彼は自身の設計の風車をカルフォルニアで75台売るという成果をあげた。キム・アナーソンとクヌード・ブールは大企業から飛び出して「鍜治屋」と共に仕事を始めた。そこでノルデックス社の最初の設計を担当した。もともとノルデックス社 はコンテナーとビラーの工場でそれ以前は風車などつくったこともなかったのだが20世紀の終わりには 世界の10指に入る風車メーカーに成長した。

デンマーク協同エネルギー会社

次のプロジェクトは90kw風車を地域で10台生産しようという興味深いものだった。プロジェクトを実行する場所として、モーアにはならずボルンホルムとなった。というのは、そこでは7つの小企業が地域主体での生産、という考えをだしていたからである。 最初に99kw木製翼の風車が作られた。地域での生産と言うわけで、ボルンホルムの人たちは残りの9台の風車も木製翼で作ることを望んだ。だが、そうこうするうちに、改良されたグラスファイバー翼が商品化されたので木製翼は中止になった。そのプロジェクトの商業的リスクとコーディネイトは、デンマーク協同エネルギー会社が担い、技術者パー・ニールセンが地域の代表責任者であった。その仕事の成果は彼にとって大きかった。彼はフォルケセンターの技術者として以外に、多くのメーカーの指導と地域的生産をスタートさせる試みにたずさわることになったのである。 デンマーク協同エネルギー会社は、ラ・クール の伝統の下に、数多くの人々からの資金を集めてつくられるという理念で、 資本金10万クローネで設立された会社である。エベ・ミュンスターとオラフ・エリックセンは、会社の牽引役であった。プロジェクトに深く関わっていた鍜治屋のカイ・ハーマンセンは、ボルンホルム協同企業体の代表であった。

一体型風車に

1983年にフォルケセンターが設立されてから、デンマーク鍜治屋協会はフォルケセンターにおいて、風車の開発に本格的に取り組み始めた。その後、新型風車の開発がどんどん進んだ。そして今や、設計にそんなに手間どらなくなった。問題は翼であった。タワーとヨーイング装置は、それぞれ独立の部品業者から購入できる。ここで私たちは次のステップに入った。軸受けやギア発電機などが搭載される台座を、今までの複雑で重いものからそれに替わるものをつくるため、新たな小企業を起ち上げるための投資をしなければならない。フォルケセンターによって風車全体をコンパクトなユニットにまとめ、商品価値を高め、認証に要する技術的要求水準を満たせるようにしよう。幸い、私たちはヨーロッパのいくつかの大手のギアメーカーと協同で仕事をしていた。彼らは、いろんな用途のギアに関する設計製造に関する長年の経験を持っていた。機関車のそれは、風車と運転状態が近かった。船舶のは大きすぎる。その他、巻き上げ機、ローラーなど諸々あった。ギアメーカーがギアを作るとき、余分な肉厚を削り落とす。そのため、私たちはギアの強度と形状を決めなければならないというのだ。実際そうなのだ。この件で、私たちはギアの設計経験を持つ、フィンランドとドイツのギア設計技術者に相談した。デンマークでは、それができる人がいなかったからである。

近代的な一体型風車のモデルは、ゲッサー風車が始まりである。ユールでなく、1942年のゲッサー風車からである。著者は1974年、ゲッサー風車外部の庭園でF.L.スミス製の保存の良いギアを発見し、手に入れてフォルケセンターまで運搬した。(訳注:現在はフォルケセンターの庭園に展示されている) 現代のギア設計技術者がこれを見れば、近代的風車の翼、発電機、ヨーイング装置、ブレーキ、等々を単にボルトで留めればよいようにするために、どのようにして“切り出”せばよいか一目でわかる。私たちはギアにかかる荷重、寸法、安全率を決めなければならない。後はギア設計技術者が決めてくれるわけだ。

こうして、異なる6社のギアメーカーにより、11kwから525kwまで、11種の一体型バージョンが製作された。1980年代になって、風車メーカーのいくつかが、このコンセプトをとりいれるまで、私たちは175台の風車をつくった。

ウィンドワールド社は一体型風車の設計を行うにあたり、フォルケセンターのデザインをそのまま使ってよいか、と問い合わせてきてた。だが、私たちはそれにはうなずけなかった。ノルデックス社も一体型風車を作り始めたが、私たちがデンコン社のために開発したそれと大変似たものとなった。一体型風車のコンセプトはドイツにも及び、1987-92年にわたる、EUの525kw風車プロジェクト、におけるパートナーであったタック社を通して、多くのノウハウと経験の交流がドイツとデンマークの間で行われた。

一時代の終わり

フォルケセンターの援助の下で数年間、風車メーカーであったいくつかの会社を振り返ってみよう。デンコン社はアエロスコービンの造船所の子会社だが、75kw風車から出発した。その町の西方にはいつも風車が回っているのが見えたものだ。後に、デンコン社は一連のきわめて洗練されたデザインの200kw風車をつくった。アエロスコービンのプロジェクトの目的は、ボルンホルムのそれと全く同じであった。新しい産業が地域経済を活性化しなければならない。そのために、最新型12メートル翼を装備したアエロスター200kw風車が、アエロスコービンで処女運転をしたのだ。同じく、フォルケセンター設計のLM社11メートル翼も処女運転された。ブレナスレフのウィンドシッセル社はある時期、150kwクラス風車では最も強力なメーカーにまでのぼりつめた。社長のフレミング・オスタゴーは常に新しい道を模索していた。まもなく、巨大な3枚翼の270kw風車が商品化された。だが、開発のピッチは急激でモデルチェンジは煩雑であった。

残念ながら、フォルケセンターは品質管理という面では、問題点を押さえることができなかった。国立の認証組織(リソー風車試験所)も、品質管理については全くフォローしてなかった。フォルケセンター所員の何人か、技術者のヘンリック・キルケハイナーとビルガー・キューンは、ハンストホルム風車会社という自分たちの会社をつくった。彼らは有能な「鍜治屋」であった。彼らは最初、ハンストホルムに75/100kw風車を建て、それからもずっと風車の開発に関わっている。同じく、フォルケセンター理事のオレ・アルバートセンは、小企業と地域生産を強化すべきだ、という信念を持っていた。この考えの下、1988年、リベ・ウィンドができ、タワーメーカーであるリベ社と共に、95kwと150kw 風車をミッデルフォートでつくった。風車はずっと調子よく運転している。 フォルケセンターでの技術的な熟練というベースがあったからこそ風車メーカーになれたのだ。

21世紀になろうという現在、デンマークにはわずか5社しか風車メーカーは残っていない。そしてバラバラになったフォルケセンターの「息子達」は最強者として生き残るため、過酷で命がけの開発を強いられる企業で働いている。それにもかかわらず、フォルケセンターの長期にわたる風車開発プロジェクトはすばらしいフィナーレがあった。

1986年、EC委員会は500kw風車開発のための研究プログラムを持っていた。デンマーク側のパートナーとして、ノルドタンク社とフォルケセンターに約300万クローネの予算がついた。当時としては大金であった。双方とも技術と設計ではAクラスであったが、フォルケセンターは組織としてはBクラスであった。実際、私たちは生産工場ではないから、それはしかたのないことである。だが、そのころアメリカの風車ブームの直後で、ノルドタンク社が開発計画を引き受けることは全く無理であった。 と言う次第で、EC委員会は私たちに引き受けるつもりがあるか問い合わせてきた。二つ返事で引き受けたのは言うまでもない。この種の契約では、最低2カ国が関わらなくてはならないということになっていた。もう一つの国のパートナーは、ドイツのタッケ社に決まった。その頃すでに風車を作っていたが、技術的にも規模においても私たちが今まで蓄積して持っているものからすれば大したことはなかった。協力関係は理想的であった。タッケは著名な船舶用大型ギアのメーカーで、15トンの大型ギアを作ってくれてプロジェクトに用いられた。その代わりタッケ社は、ドイツでは未だ不十分であった荷重や構造に関する多くの知識を私たちから得た。この協同プロジェクトはタッケ社が1/3、フォルケセンターが残りを受け持ったが、双方のパートナーが1992年9月、それぞれのプロトタイプ風車をボルクムとハンストホルムに建てた。

プロトタイプ風車建設認可は、双方のパートナーともなかなか思うように行かなかった。デンマーク側の問題は、系統連携に関する電力側の官僚主義的な対応であった。ドイツ側のパートナー、タッケ社の問題は、タッケ社が財閥MANの傘下に入ったことだった。自社だけでは、これから風車にどのように取り組むべきか決められなくなったのだ。

双方の風車にはLM社の翼がつけられていた。後に、LMはタッケ社が良い顧客となった。タッケ社はここで述べたような規模の風車をつくれるように奮闘し、ドイツ第二の風車メーカーに成長した。ハンストホルム風車に関してはローター荷重、ヨーイング部の荷重、ギア荷重等々多岐にわたる計測が集中的に詳しく行われた。これらの計測は本来なされているべきであったが、デンマークではその頃はなされていなかったのである。

フォルケセンターの風車プロジェクト全てに関わり推進したのは技術者ニールス・ヴィルスボルであって、フォルケセンターが小企業と共に遂行したこの最後のプロジェクトへも測定グループとして関わった。525kw風車は1992年9月の運転開始以来、技術的には申し分なく順調に運転している。ヴェスター海に面し海岸から50メートルのすばらしい景観の所に位置していて、年間140から160万kw発電する。国内外から訪れた数多くの見学者が、そこでは生まれて初めて風車の内部からハットへ昇って見学できるのだ。

フォルケセンターの理事会としては、風車発電開発でフォルケセンターがこれ以上100%商業的な分野に力を注ぐことを望まなかった。私たちの役割は終わった。私たちは一世帯用風車発電へ向け、新しい型の発電機の開発と測定へ取り組むべきだ。

風車づくりの仕事は無くなったがその知識は残っている。ラール・アルバートセンは ある時、オープンで無料というヴィジョンがあれば第三セクターによって世界中にノウハウを移転できると表明した。そのヴィジョンは商業的利害とは相反する所はあるにせよ、今日ますます緊急性を増している。そのヴィジョンは市場原理で動く時代においてラ・クールの伝統を引き継ぐことであろう。

忘れられた風車のことなど

「私は木を植え森になった。私はその木を切って私の風車の翼をつくった。」

ティのヤコブ・オヴァーゴールは「Dansk Energi」(邦題、「エネルギーを創る人々」パー・マンシュテッド監督、1980年訳者などにより日本各地でも上映運動が行われた)の中で語り、原発なしのデンマークのヴィジョンを実現するため、当時の民衆の努力を語った。映画は1977年上映され、引き続いてパー・マンシュテッド監督は「More Power Stations」(邦題:知られざる原発)を製作し原発の何メートルの壁の背後で何が失われていくかを見せてくれた。それはおぞましいものだった。それに比べると ヤコブ・オヴァーゴールの風車開設祝賀会のシーンは全てが対比的であった。初めに近所の人々が紅白のタワーの上で回っているグリーンの翼を見た後、庭園に移動する。大広間にはコーヒー、ケーキ、ブランデーなどがある。たまたま、著者の当時5才の息子も並み居る紳士たちにまじって午後のパーティに加わっている。ヤコブはその宴会の席で明確に、自分たちは原発なしでやっていけるという考えを打ち出した。

以下訳注

ヤコブ・オーヴァーゴール風車(デンマーク、ユトランド北西部の町ティで風車発電を復活させた祝いのパーティでの会話)

――ここティという所は良いところです。人々は自立していて、物はなるべく安く調達していました。

しかし1960年代に私たちの発電所は閉鎖され、大型に併合されてしまいました。1970年代には町村合併でより大きな町になりました。そして今日ではヨーロッパ共同市場の時代です。すべてどんどん大きくなるが、大きくなる程悪くなるですね!ヤコブ

――その通りだよ。原発が必要だという人はたくさんいるけれどそのそばに住みたいと言う人はいないよ。結局は怖いのさ。

――問題は放射性廃棄物をどうするかだよ。

――そう、でも例え専門家が大丈夫といっても事故の可能性はないわけではないからね。

ところでさっきヤコブの言った事に帰るがここティの人々は自分のことは自分でやっていたよ。なぜなら政治家達は自分たちのやりたいことしかしないからさ。政治家達は私たちの代表のような顔をしているがね。政治家達が私たちの代弁者でなくなったら取り替える必要があるよ。

一枚翼で十分!

当時はそれぞれがそれぞれの考えで動いていた。一番効率がよい空力翼(プロペラ翼 )は一枚翼だと技術者のブルマン・イエンセンは述べた。フィン・イエンセン とソーレン・オルセンは1977年コールディング ホイスコーレで開かれた風車講座で、民衆の理想の風車としてはセールウィング風車だ、という信念を披露した。 その風車は出力はたった6.5kwだが、翼の回転面積が95‡u もある巨大風車だった。年間2万kw発電できるということになっていた。

また違うところでは、一枚翼風車の研究がなされていた。巨大軍需産業メッサーシュミット社を始め、スベンホルムゴッヅの安価な民衆風車も同じ末路となった。 少ない翼でより速く周り、風力を利用できるということだった。だが騒音がひどかった。ある日暴風が吹き荒れ、一部を残して風車はすっ飛んでしまった。合板製の翼はタワーに激突し砕け、破片は250メートル離れたところまで飛んでいった。

デンマークの風車発電技術について

1981年、当時のエネルギー大臣ポール・ニールセンはケニアのナイロビにおける大規模なエネルギー会議の後、ASEAとヴォルントという強力な巨大企業の参入による半官半民の会社を創設した。それぞれが株を1/3づつ持つことになった。「これで枕を高くして寝ていても良い」とニールセンは社長のオベ・ディートリッチに太鼓判を押した。1980年2月27日のティステッド日報は、「地域の発明」という欄で、「ヴォルントは風力から得られる大きな市場を期待している。というわけは実証運転された風車は全て量産されることになるわけで、それによって会社は巨大な利益を得ることになろう。」とあり、2種類の風車の写真が添えられていた。一枚はティステッド空港に設置され、役に立たなかった風車であり、もう一台はリソーで作られたと書かれていた。後の社長ハンス・ビエルゴーは、試験所がヴォルントのために風車を開発し、作ることへの疑問に対し、それは正しいことであると文書で表明している。私たちにとって、そうした態度は特に珍しいこととも思えなかった。試験所は常に企業寄りに偏向した仕事を引き受けていたし、企業にしてみれば製品開発のための重要な機関と見なしていただろう。私たちはリソー試験所の小企業に対する数多くの差別的対応を知っている。

ナイロビに設置された15kw風車は、1/4回転しただけで翼が破損し、ナイロビの政府からも国民からも愛想をつかされた、という話を私は英国のジャーナリストからルネ・カロッティと共に聞いた。 後に、風車はケニアに寄贈され、ヴィクトリア島に設置された。しかしながら、その風車は一度も運転されることがなかった。だが、風車のタワーは役に立った。地元の水産業者の排水管として役立てられたそうな。エイヴィン・ベウスはオルタナティヴ・エネルギー誌で、「概して巨大風車は風車を作るためと言うより、PRのためである」とDVTの265kw風車プロジェクトを批判的に描いている。その小さな風車は、一見エレガントな格好なので、次のヴァージョンとなるコルビー265kw風車のキャンペーン風車となった。ところが、リネス港のニベ風車の側に建てられたコルビー風車は、タワーの下部が太くなっていて、翼の先端とハットに支索がついたグロテスクなものであった。それはまさに、牝鹿の脚のように流線型で、さぞかし風の抵抗は少ないであろうと思われた。(訳注:著者の皮肉であろう)その後、もっとまともな格好をした新しいヴァージョンの風車が製品化されることはついになかった。強力な企業のバックアップがあるにもかかわらず・・・・・・。

「それは国の補助金の不正使用ではないか!電力会社の大風車より安い価格でエネルギーを生産できる20の風車工場を脅かしているのだ!電力会社にとっての風車プロジェクトとは一体何なのだろうか?」ベウスは1982年、オルタナティヴ・エネルギー誌のなかでそう述べている。

だが心配無用であった。DVTの製品は粗悪、醜悪で誰も買ってくれない。結局、風車はテンナー工業学校に教材として、それぞれ異なった型の10台が設置された。「私たちは結構です、と言ったのですが彼らが勝手に持ってきたのでしかたなく・・・」と校長のイエンス・イエンセンは語った。他にもテストのためリソー風車試験所へ何度も送られたが、どの風車も芳しい成績は修められなかった。

風車手作り派から風車メーカーへ

コングステッドのオレとケニイ・ハンセンは、風車作りに関してはDVTよりもっと多くのものを持っていた。彼らはOVEの草の根活動から風車メーカーになった。実際、彼らはその頃のベストな風車を作ったのである。その型は規模もちょうど良く、当時先進的な一体型のステファン・ギアが用いられ、伝説的な耐久性と発電量を誇った。彼らは1982年、約3年間で風車業界を去った。理由はただ一つ、互いに信用することができず、見解の相違は訴訟に持ち込まれる、という企業の世界について行けなかったからである。

オレ・ハンセンはオルタナティヴ・エネルギー誌のポートレート欄で語っている。「部品下請け業者は、しばしば指定外の材料を使用したので交換しなければならなかったり、また、喧嘩好きな風車の購入者がいて、真夜中に電話をかけてきて文句を言うなどもありました。暴風でなくても風車にトラブルが起きることはあり得るのだが、それにしても・・」と。
だが、いかにしてオレ・ハンセンは風車メーカーになったのだろうか?1976年時分には商品としての風車メーカーはリセアーとボレの2人しかいなかった。

オレ・ハンセンがボレ風車をホルベックのOVEの仲間と一緒に彼の家の庭に建てたのだけど全く期待はずれであった。現在、スキベの展示場にボレの風車が回っている。だが、モーターで回しているのですよとオレは教えてくれた。その次に彼はリセアー風車を買った。ある本にはリセアー風車は“完璧な風車”だ、と書かれていたが、それにも失望させられた。

ギアボックスは小さすぎた。グラスファイバー翼はヒビが入ったし、タワーは低すぎたし、出力の変動が激しすぎた。“それらに対してリセアーはちゃんと対応してくれなかったのですよ”。そこで彼はうまくいくような風車を開発することになった。リセアーから購入した風車の改良によって、形式認証され補助金が受けられる彼自身の風車が出来上がったのである。“それは風車をつくるためのベストな経験でした。リセアーが風車をつくる時、ゲッサー風車から多くの経験を学んだのとまさに同じことですよ”とオレは語る。

新しいエネルギーを古い風車から

技術者のヨアン・クロスゴールは、古いオランダ式風車を発電用に改造するのに成功した。1978年、彼は兄弟のK・ハンセンから小さなオランダ式風車を譲ってもらった。だが機械部分も翼も残っていなかった。そこで翼を付け全体的に修復しようということになった。

“昔ながらのラ・クール式羽根板翼をつくりました”と彼は語る。元の風車軸はそのまま利用して、近代的なギアシステムを用いて11kwの発電機が装着された。羽根板翼は彼のオリジナルなブレーキ制御方式であった。だが、デンマークでは古い風車はもうほとんど残っていなかった。そこでヨアン・クロスゴールの次のプロジェクトとして、教材用風車を目指すことになった。1979年、彼は自宅の工房で廃品からつくられた、3枚翼バックウィンドタイプの小さな風車をつくった。その風車は良く回り、子供らの夏休みに大いに活用された。子供らのテントの明かりを灯し、車のバッテリーを充電した。ということでその風車は十分に目的を達し、彼はリソー風車試験所で働くことになった。ある日、彼は風車のことをもっと勉強したい、というエムループボル・フォルケスコーレの先生からの訪問を受ける。

彼らはヨアン・クロスゴールの小型風車に大変興味を持った。彼の小型風車は更に改良され2枚翼、直径1.3メートル高速翼タイプとなっていた。その風車の作り方は「風車作り教本」として出版され、全国の学校に1000台以上の小型風車をつくらせるに至った。

風で暖をとる

発電用風車以外の風車は例外的に少ない。その一つは温水用の撹拌式給湯風車である。ツヴィンド風車は、始めは温水用の撹拌式給湯風車の予定であったが、後に発電用風車に変更された。ブロナスレフの鍜治屋ヨアン・アナセンは1975年、高速3枚翼の撹拌式給湯風車をつくった。この温水風車に注目する人は多かったが、“カロリー小風車”として実際に商品化されたのは90年代になってからであった。風力を利用できる効率で言えば、撹拌式給湯風車は発電用風車と異なり、いわゆる風速の3乗則、風速の3乗に比例する出力がそのまま得られる。ということは、撹拌式給湯風車は同等の規模の発電用風車よりも原理的に高い稼働率となり、より多くの総出力が得られるということになる。原理的に言えば、撹拌式給湯風車とはわざと効率の悪い循環ポンプを動かしている風車である、といえる。熱媒体は液体で、熱は給温システムによって伝達される。問題は風車出力の制限(訳注:強風で風車が過負荷状態にならないようにすること)である。それには二つの方法がある。撹拌式給湯風車はある風速になると強い制動力が働く、そうなると誘導発電機を使った発電用風車と同じく翼は失速状態になる。もう一つは、翼のねじりを変える可変ピッチ装置を付ける方式である。1930年代にアメリカのカルバーは撹拌式給湯装置を開発し、その基礎的な計測を行った。トースループの農業技術研究所で1975年、ソネ・コフォとリチャード・マッチェンという2人の技術者が、撹拌式給湯風車の研究を行っている。それは2枚翼失速制御方式の風車だった。撹拌抵抗で制御する方式だった。その測定結果は公表され、後の撹拌式給湯風車開発にとって良い基礎資料になっている。水車開発のパイオニアのグナー・ブロは、撹拌式給湯装置も手がけていた。彼はエコロジーグループの“エコ・ラ”とコンタクトがあり、“エコ・ラ”グループはゲート・オットーセンとヨアン・クロスゴールが風車に関わっていた。グナーとの共同作業を通じて、最初の撹拌式給湯風車が運転に入った。鉄塔式タワーの3枚翼アップウィンドタイプであった。この風車の経験を元にヨアン・クロスゴールは3枚翼可変ピッチダウンウィンドタイプの撹拌式給湯風車をつくった。ここでも廃品が利用された。風車のハットは車の後車軸のスクラップであった。

結局、撹拌式給湯風車が世に打って出ることはなかった。だが、ローランド・ファルスター撹拌式給湯風車を語らずしてこの種の風車は語れない。会社はサックスケービンの古い牧場で設立された。直径12メートルの可変ピッチ機構付き木製合板翼風車で、遊星ギア装備の洗練されたハイテク製品であった。撹拌装置は翼の過回転防止機能も兼ねている。

リチャード・マッチェンのあらゆる経験がこの新しい風車にうまく生かされていた。ただ、熱媒体は水からオイルに変更された。ある種のオイルを使うと風車の運転制御ができ、凍結対策にもなる。

デンマークで最もうまくいった撹拌式給湯風車と思われるのは、ベント・ハンス・スベンボー兄弟がつくったもので、2人は知的で創造性に富んだ工芸家であった。その風車はティのハンス・スベンボー家に建てられ、一年中家屋内と設計室を暖めた。兄弟は、風車に関する手に入れることのできるあらゆる情報を得ていたのである。手作り3枚翼の、遠心力で作動する制御装置を備えていて、調子よく作動した。プロペラシャフト付きフォード車の後車軸で、動力をタワー底部の撹拌式給湯装置まで伝達する。プロペラシャフトは、支索で支えられたパイプタワーの内部を通る。ここから、温水管を通って家屋内の温水タンクに導かれる。こうして、その後何年間も風で暖を採ることができたと言うことであった。

魅力的な‘鞭型風車’

ダリウス風車は1975年から10年間にわたって、デンマークだけでなく世界中の多くの風車開発者達にとって魅惑的な風車であった。理論的にはシンプル、安価、安全、丈夫なはずだが、一方、ローターが風が乱れる地上部から立っているので、地上部付近はエネルギー密度が低い。発電機を地上に設置できることは、保守点検が楽になり、発電機の問題は考えなくても良いことになる。そこには技術的に新しい問題はない。それに対して、一番の問題となるのはローターである。そこが大きな問題であった。特に翼とその耐久性が問題で、そこがしっかりしていなければならない。というわけで、私たちは1980年にダリウス風車を商品化することをあきらめた。だが、多くの風車開発者の夢としての‘鞭型風車’は今も生き残っている。ダリウス風車と言う名前は、それで特許を取ったフランス人ダリウスに由来する。最初の発明から50年後カナダで再評価され、かなりの研究業績がなされ、マグタレン島でテストされた。同じ頃、ニューメキシコ、アルバカーキのサンディア研究所はダリウス風車の開発に深く関わった。絞り出し成型で鞭型翼を作ろうと意図する巨大アルミ産業のアルコと共同開発であった。ノルディック ケーブル&繊維(NKT)の一部門であるアルミノルドが刺激され、ダリウス風車用の翼型を提供しようとがんばっていた。OVEの古参オレ・ホイランドと船舶研究所のソーレン・アーサー・ヤンセンはダリウス風車の試験プロジェクトを行い、ソーレン・アーサー・ヤンセンは80年代に更に進んだ研究を行う。   

天才ボルネ

過渡的な時代、全てを完成させたとして伝説的な人物として技術者ニールス・ボルレがいる。彼は照明器具メーカーにいたが、早くにダリウス風車の一種である垂直軸風車の研究に打ち込んだ。非常に初期の鞭型風車のように、翼は曲がっていなく真っ直ぐであった。最初のボルネの風車は1977年秋、EFFO(フレデリックスヴェルク&オメゲン電力会社)に建てられた。オープニングセレモニーには多数の人がまねかれた。だが、風車が回せるだけの風が吹いていたにもかかわらず、彼の風車はとうとう回らなかった。後にこの種の風車でまた別の風車がリソー風車試験所に建てられ、世界中の人々の関心を引きつけたという。だがそれは商品化されることはなかった。にもかかわらず、そのデザインは行政に絶対的にうけた。たしかに良い風車であった。たまたま暴走事故で派手な壊れ方をしたというだけのことである

エネルギー自給の努力こそ風車の推進力

アドロフセン、クリアント、ボステッド、ゲンヴィンド彼らは皆一斉にダウンウィンド、支索ワイーヤー付き鉄塔式11/15kw風車から始めた。この手の風車はローリーの後車軸と、いろんなギアとの組み合わせで成り立っている。だが、翼はその都度変更されている。初めはエケアーの翼が使われた。後に商品化された風車にはKJ翼が用いられた。ゲンヴィンドの風車は、リソー風車試験所で設計されたムクの木製翼であった。撹拌式給湯風車の“カロリー小風車”と共に、まさにこの風車はこの20年間、クレームの少なかった風車として記憶するに値する。それは技術的に言えば、ブレーキシステムに空力的なシステムを取り入れていることによるのであろう。あるいはまた、何よりもこれらの風車は、自分自身の風車を持ちエネルギーを自給したい、という民衆の強い願望を体現する風車であったとも言える。つまり、当時の人々が一世帯用風車を建てるに伴う種々の問題、配電線接続、設置許可、売電料の交渉を電力会社と、どのような思いを持ちながら行ったのかはっきり分かる。と言うことは、とりもなおさず、これからも安価で小型の風車の開発を続けるべきである、ということである。それらは大型風車を建てるにはふさわしいとはとても思えない、個人の家の庭の隅っこに建てられものであろう。

訳注:現在はデンマークの風車発電は一般化して、多くの人が風車発電に参加しやすくなったが、当時は、電力会社と個人で風車発電を建てようとする者との関係は、言わば、第二次大戦中デンマークのドイツ占領軍と対独レジスタンス運動者との関係、にも喩えられる程緊張したものであった。(デンマークにおける循環エネルギー(1)鹿児島大学紀要No31,pp.45-50(1998)) 彼らが切り開いた血路の上に現在の風車発電の発展がある、とも言える。また、著者は現在の巨大化していく風車発電を手放しで喜んではいない。一方では、それを生み出した民衆から遠くなりつつあるからである。そう言う意味で、個人風車という原点を忘れてはいけない。と著者は言わんとしているのであろう。

技術革新をもたらしたクラムスベア風車

1983年から1984年にかけて、今日クラムスベア風車と呼ばれる15kw風車をヨハン・クラムスベア・ハンセンがつくった。彼は大変卓抜した技術を持っていて、KJ翼の3枚翼ダウンウィンド風車を長年かけて開発した。ここでも廃車になった戦車の後車軸が使われたが、ギア装置の安全率が2から3あり、ちゃんとしたメーカー製のギア装置以上のものであった。それは風車としてメーカー製風車と同程度に技術的に洗練されたものだった。 ヨハン・ハンセンは小型船舶の発電照明装置を開発し、長年の実績のあるデンマーク・トランスジェネレーター社からアドバイスを得ていたのだ。励磁コイルの磁化率を変化させることで発生電力を制御する方式は、単独型風車の運転制御によく適合する。

最初のリング発電機が登場

クラムスベア風車に言及するなら、オダー風車にも触れるべきであろう。それは、18.5kwKJ翼のダウンウィンドタイプであった。オダー風車は1983-1984年にかけて出現したが、商業的には全く成功しなかった。だが、その技術的高さは否定しがたいものがある。それを受け入れる社会の枠組みが不十分であり、オルタナティヴ・エネルギーも市場経済に依存しているからである。きっかけは実業家のワーナー・カストルプ・ピ-ターセンが、掘削機を観察していて、油圧パイプが非常に熱くなることを知り、風車で油を循環させれば熱を得ることができるのではないか、とひらめいたわけであった。だがそのアイディアは放棄され、58極同期発電機を駆動する発電用風車に没頭することになった。それができれば、風車にとって数多くの問題を生じるギアボックスが不要になるわけである。ちょっと考えてもわかるが、オダー風車に関わった人たちがさらに進めていたら、恐らくデンマークはリング発電機に関して、今日その方面で世界をリードしているエネコン社よりも早く、市場を押さえることができたであろう。

エコロジカルな風車

ティ風車は1984年頃の現れたユニークな風車であった。グレンケール機械工場のフレミング・グレンケールと建築家のニールス・ヘルマー・クリスチャンセンは共同で7.5kwの小型風車を開発した。スタンドアロン型の安価で頑丈な風車だった。対象とするユーザーは北ユトランドの世帯と小規模農家であった。この風車の特徴はニールス・ヘルマー・クリスチャンセンがつくった頑丈な木製翼であった。かつてフォルケセンターで技術者のヤコブ・ブゲがこのタイプの翼を研究していて彼はその成果を用いたのであった。風がよく吹くところではこの小さな風車は年間2万kwを発電し、一般家庭の温水用風車として十分であった。こういう風車はメーカー製の風車では存在しない。太陽熱装置や暖房器具を備える代わりに、この風車で家庭の全ての熱エネルギー需要をまかなえた。風が吹けば、風が薪を挽き割ってくれる、というわけである。ティ風車はデンマーク・デザインコンクールで入賞した。ニールス・ヘルマー・クリスチャンセンは合板3本脚のタワー、新デザインのハットなど全て木製の風車を開発したのである。色は黄土色であった。この風車は今までの風車で最もエコロジカルな風車と言われている。これを少し大きくしたPADEMO75KW風車がヘレ・ピーターソンが裏庭に建てた。それは全くデンマークコンセプトの3枚翼非同期発電機式であった。当時ローランドは鍜治屋のアナース・ダヴィッドセンのローランド風車と共に風車文化を創り出していた。ローランド風車は様々な大きさがあった。だが、どの風車も商品化されることはなかった。ローランドには新しい産業はつくられることはなかった。機械製造業は島の伝統には馴染まないものとされていたのである。

ウィンドマチックとテラス

これまで少し変わった風車のことばかり取り上げてきたが、それにはウィンドマチックとテラスは異論があるかもしれない。その風車は典型的なリセアーコンセプトの風車で、かつコンポーネント・コンセプトの風車でもあるからだ。 1983年度の風車カタログを見ると、このタイプのウィンドマチックの風車がずらっとならんでいる。それぞれが味のある作品である。リセアーは当初その会社に関わっていて、彼の作品は10S22kw、12S30kw、14S55kwまである。Sの前の数字が翼直径である。一世帯用LM翼7.5kwウィンドマチック風車も先に述べたティ風車と同じ頃商品化されている。だが1983年には大きな変化があり、55kw3枚翼の通常型風車にやっとリセアーの影響が消える。そしてウィンドマチックはボーナスやノルドタンク、ヴェスタスが君臨する業界へ参入する。それは正解だった。更に大型の75kw風車はカルフォルニアでブームとなった。ウィンドマチック社は鉄工とトランス容器の伝統ある会社のアルフレッド・プリエス社に引き継がれた。そこで150kwから200kwのLM翼つきの風車が全く新しい、いわゆる一体型ギアボックスで開発され、イエンス・フィッシャー機械工場で製作した。 それまでは、外国から手に入れなければならなかったギア装置が、小企業とフォルケセンターとの共同研究によって、はじめて作れるようになったのだ。

ハーニングの風車野郎たちは常に新作を出していた。1986年に13人のウィンドマチック社従業員が テラス社を設立した。彼らは、今までの農場仕事を引き払って、新しい会社を誕生させたのだ。リオ・オーデルとポール・ホイホルトは同僚の仲間達と、傑作機であるLM8m翼80kw風車を記録的時間で商品化した。それは35台製造された。その後、アップグレードされたヴァージョンは、翼がもっと長くなり、95kw風車となった。 それらはドラゴーのウィンドパークに9台建てられ、風車の国デンマークを訪れる人々を迎えている。

どこにも収まらない風車

以上、いろいろ紹介した風車に収まらない風車もいくつか挙げなければなるまい。パン屋のオリオン・ヴェンシッセルは5枚翼のヴェンテブロ風車を建てた。製作者のアルネ・ブロゴーがパンが、粉を風車で挽くことで、さらに本格的なエコロジスク(有機無農薬栽培食品のこと)なものにしよう、ということで特別につくったのだ。昔のような平ベルトがついていて4通りに使え、風がない時は電気でも動かすことができる。

ヘレ・アスビヨン・ピーターセンはケーエの化学工場の機械部長であったが、スヴァンスベアの実家の暖の採り方について、全く独自のアイディアを持っていた。彼は1979年8.5メートル翼の風車を裏庭に建てた。12kwの直流発電機は、以前B&Wのクランク駆動モーターとして使われていたものであった。家屋内に投げ込みヒーターが入った温水タンクがあり、2台の4kw暖房装置で部屋を暖めるというものだった。だが、風当たりが良くないところであった。そして1996年,突然雷が落ちて風車は壊れ、片づけられてしまった。

もう一つの風車は70年代にパー・ニールセンによってつくられた。カーテミンデの友人達と一緒につくったもので、タワーに電信柱を用いていたので人々は電信柱風車と呼んだ。学校などの公的なところでは風車建設に電信柱が用いられることはないだろう。だが、他の点では今日の風車のコンセプトと根本的に異なる所はない。パー・ニールセンにとってそれは風力エネルギー人生の入り口であった。1983年彼はデンマーク協同エネルギーのプロジェクト・リーダーになった。ボルンホルムのプロジェクトにおいて 鍜治屋風車側の交渉役として、バルチック電力会社とあたった。 彼の会社であるVEデータ社、後のエネルギーと環境データ社は、この四半世紀、とりわけオルタナティヴエネルギ関連と、デンマーク風車発電協会コンサルタントとして風力評価関連のソフトウェアー開発に取り組んだことで知られている。

その頃はまだ、風車の技術はそれほどに成熟してなかったので、伝統的な重厚で確実性のあるものへと、だんだん戻る傾向があった。さて、かつてのツヴィンド風車グループがつくった小型風車があった。サネ・ウィトループ、ラース・ピーター、リスホイゴー・マーチン、ハンス・ピーター、イベン・エスタゴー達である。それは大変洗練され効率の良いものだった。非常に軽負荷な流線型のセールウィングタイプであった。だがそれは数多くの不具合に見舞われた。とりわけ、それが起きたのが風車のオープニングセレモニーという微妙な日のときは、問題の翼を取り外すに外せず、それができたのはセレモニーが終わった後になった。したがって、泊まりがけでセレモニーに参加した人は同じ風車が、当日は3枚翼、翌日は2枚翼、となったのを見たことになる。それは主に実験家達に使われたが、初めの見込みのように一世帯当たり6万から8万クローネも稼ぐと言うことはなかった。

こうしたこともあったが、特に90年代初めからは、計算方法や材料技術などが非常に進歩し、風車の改良は大変進んでいる。

著者にとって風車開発の落とし穴だと気づいたことがあった。スウェーデンのベント・ソナゴーの「風車読本」である。当時、風車に関して唯一入手可能な文献であった。私は仮に記載されていることが本当に信頼できるのなら、ソナゴーが風車のエキスパートだと思った。初め、私たちは「風車読本」に記載された通りにつくったものだ。 80ミリのパイプに木枠がつけられ、アルミ板が鋲止めされて空力的翼型の2枚翼の枠組みとなる。隙間には発泡材が充填される。発電機は11kwであった。ギアはトラクターの中古で、タワーは砂利採取場の排水管だった長さ8メートルのさびた鋼管だった。部分的に錆びて薄くなっていて、かなり弱くなっていた。残念ながら、とてもタワーとして使い物になる代物ではなかった。翼には異常な力が加わっているように感じられた。風車を風向きに旋回させる手作りの装置も、うまく作動するとも思えなかった。風車はガタガタ、ブルブル と震え、ハットを支えていたワイヤーで何とか倒壊を免れていた、と言う有様であった。破局を迎える前に、私は処女運転で風車を止めようと思った。そして、その風車は2度と運転されることはなかった。

私は風車実験家ではなく、だた各自が自分の家庭の電気を供給することができる風車をつくりたいだけなのだ。

真のパイオニア クラウス・ニブロ

この章で述べたより、もっと多くの人々が風車づくりにかかわったものだ。風車の歴史を書くにあたり、歴史の中で無視されてきた人たちが消え去らないうちに彼らを再発見することが必要であろう。その掘り起こし作業の一鍬一鍬ごとに、未来を拓く新しい源泉を掘り当てるかもしれない、と言うことを知ってほしいのだ。というわけで私は、風車の歴史に25年間大きな足跡を印した一人のパイオニアについてのいささか言及をもって拙稿の締めくくりとさせてもらいたい。

建築家、作家、風車開発者、活動家、発明家、製作家としてクラウス・ニブロは、今世紀最大の真の風車づくりの一人と言える。彼の風車人生の初期に、カール・ヘルフォースと共に「太陽と風」という小冊子を出した。それはまことに役に立ち、良く考え抜かれた本であった。70年代の風車づくりの人たちのバイブルであった。毎年たくさんの注文があり、書店で売り切れる有様であった。良い時期に良い本であったのだ。

リオ・オーデルとクラウス・ニブロはダナ風力会社を創立し、そこでつくられたホルガー・ダンスク風車は風車発電の新しいデザイン、技術のスタンダードとなった。ダナ風力に関しては、ピーター・ヒューラー・イエンセン著「リソー研究所の風力エネルギーへの取り組み」にも述べられている。

訳注「ホルガー・ダンスク」:ハムレットの舞台とされるヘルシンガーのクロンボー城の地下にある伝説上の英雄の石像で、デンマークが危機に瀕した時、動き出してデンマークを救う、という言い伝えがある。

その後一時表に出る活動がなかったが、アメリカ研修ツアーに関して‘カルフォルニアウィンドパーク’という報告書で再度登場した。その時、彼はボーナス社のために高度な設計をしている。デンマーク設計業界が風車発電のデザインコンクールを募集した時、クラウスは第一位を獲得した。その後彼の人生はウィンドフラワー200wというまことに小さな風車の開発に捧げられた。南フィン島にある彼の小さな工房にはデンマーク内外から関心のある人たちが訪れてくる。独自の花びら型クラウス風車はエレガントで静かで効率的で耐久性が大きい。 この章に登場した歴史上の風車は全て消え去ったのだが、クラウスの風車は未来に登場するものとしてあるだろう。だがそれはほんのわずかしか製造されていず、世界のどこかで成功した風車として認められているわけではない。 クラウスの風車は、人々が自分の家の前か庭先で電気を自給するという全く新しい社会、そのような社会が可能であることを、美しく、かつ説得力を持って考えさせることができる。だが、そのような社会が実現するとすれば、現在の工業文明と浪費社会が行き詰まった後のことであろう。

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