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第16回 海上風車の歴史

ヨアン・レミング

近代風車発電史の初期から海上の風車発電・オフショア風車を建設しようという構想は存在していた。そしてその構想はデンマーク流に実現しつつある。設置目標とする海域としてはデンマーク領海域内の淺海域であるが、例えば石油天然ガス掘削リグ、あるいは特殊な浮プラットホームなどを使うという魅力的で興味深いアイディアがあふれたプロジェクトなどがあった。夢はとどまるとこなく広がったものである。

電力消費の半分がオフショア風車で

デンマークで最初のオフショア風車は1985年、エベルトフトのオフショア風車プロジェクトによってつくられた。 だがそれは本来の意味におけるオフショア風車ではなかった。将来のオフショア風車建設を目的に波止場の上に建てられたものであった。オフショア風車の可能性調査を行ったきっかけは、陸上より風が吹くという有利な条件を考慮すれば、基礎工事や海底送電ケーブル設置などに陸上風車より建設費がかかっても経済的に有利であろうということ。また、陸上に比べていろんな利害が絡む割合がずっと少ないであろうと思われたからである。以来、その少ない利害対立をめぐって論議が続いている。

最初の大型海上風車研究はエネルギー省と電力会社の風力開発プログラムに沿って進められた。それに関連して1983年、エルサム電力会社が‘デンマークのオフショア風車’として技術的なレポートを出した。初め、オフショア風車プロジェクトはIEAと国際協力で進められるはずであった。だが、IEAはオフショア風車計画に関心を示さずお流れになった。1986年、設置委員会はデンマーク海域における設置可能性についてのレポートを出している。それは大型風車を海上に設置した場合、発生するであろう特有の利害に関する長期的な分析をした具体的な研究であった。

当時の作図技法は手作業による大変時間のかかるものだったが、それにも関わらず膨大かつ詳細な地図が作成された。そういう大量の地理情報をコンピュータで処理することはまだ夢の時代であったのだ。つくられた地図による結論として、3MWの風車を1800台建てることが可能で、年間130億kwh(100万KW原発2基分に相当:訳注)発電できることがわかった。それは当時のデンマークの電力消費量の約半分に相当する。その結果は、今やほとんど忘れ去られようとしてはいたが、石油ショックの経験を思い出すと大きな意味を持つものであった。これだけの可能性をこのまま放っておくべきではないと言う声があがり、エネルギー省海上風車委員会がつくられ、エネルギー大臣ハンス・フォン・ビュロ-、電力会社が同じテーブルについた。委員会の任務は海上に風車を設置した場合、公共的な利害を明らかにすることと、最初のデモンストレーション施設をどこに決めるかと言うことであった。委員会は海上に利害関係を持つ省庁、関係者、電力会社などの代表者から構成されていた。最初のレポートは1988年に出た。そのレポートで環境的、経済的観点から見て最初のデモンストレーション施設として適している4つの海域を指定していた。そしてエネルギー省はエルサム電力とエルクラフト電力の双方の会社に具体的にプランをつくるように要請した。エルクラフト電力はヴィンドビイの洋上ローランドの北西に最初の施設をつくるプランを明らかにし、一つの提案をした。エルクラフト電力は1985年政府との合意事項で10万kwの風車発電をつくることになっていたが設置場所の選定で難航していた。そこでヴィンドビイのプランを合意事項の枠内に入れてもらうというものであった。結局、海上風車はつくられることがなかった。たった一台のウィンドワールド風車がスコン南方に1990年に設置されただけであった。

開発競争の始まり

1989年、時の技術評議会のオルタナティヴ・エネルギー運営委員会は、海上風車をもと発展させるためにさらなる振興策をとった。運営グループはビュロ- 委員会に招かれないことに不満を持っている人々も加えるよう要請した。

つまり、やる気がない電力会社をあてにしないで海上風車開発に民衆の参加という横軸を入れることを求めたのだ。オルフス郡政府は市民的な立ち上がりによる資金による小型風車をオルフス湾浅海域につくる可能性を研究していた。だが、それはオルフス市が受け入れなかった。大規模なヨット施設の構想と明らかに衝突するからである。1989年、オルタナティヴエネルギー運営委員会の海上風車グループは結論を出し、十分に検討された5つのプロジェクトが競合的に進むよう補助金をだすことになった。コーウィコンサルタントによるノースミンデ浅礁プロジェクトの提案は最も運営委員会の関心を集めたのでパイロットスタディと国の立ち上がりを促すための補助金を出した。オルフス湾風車協同組合が結成され、組織作り、国への提言、シェアの販売に取りかかることになった。だが、不幸にして資金面の調達がうまくいかず、資金的にも技術的にも十分問題ないプロジェクトであることをエネルギー省に説得することができなかった。当時、オフショアー風車プロジェクトの実行は国の補助金に頼り、できればEU(当時はEF)の補助金に頼ると言うものであった。だが、EUはメーカーが参加する競合的プロジェクトを求めた。

エネルギー省は市民協同組合の経済的リスクは公的機関のそれより大きいと判断した。政治的支援も大きくなかった。さらに、最後の局面でオルフス市が計画に反対した。

プレーベン・メゴアはプロジェクトをつぶしたのはビュローだという。彼は自分のヴィンドビイプロジェクトを第一にしたかったからだと。政治家達は市民にも同様に海上風車のチャンスを与えるべきであると言いながら同時に電力会社は最初のリスクを引き受けるべきであるというだけだった。

一歩ずつ

という次第で最初のデンマークの海上風車はヴィンドビイに11台5000kwつくられた。450kwボーナスで工事は1991年に完成した。世界初の本格的な海上風車ということで当然ながら大きな関心を呼んだ。建設行程は陸上のそれとは大きく異なっていた。パイロットスタディを拡大するためには全く別のインフラが必要となった。基礎部分は浮きドックで現場まで曳航された。風車本体も船積される前に組み立てられて運ばれ基礎に据えられた。作業員がタワーに上りやすいように特別の桟橋がタワーにつけられた。ローターとハットの間から塩分が侵入するのを防ぐ対策が取られた。それは後に陸上風車でも標準的な技術となった。当初、エルサム電力はヴィンドビイと同時に同規模のものをリーレベルトにつくるつもりであった。だが、エルサム電力としては海上風車の経済性は未だ暗いと考えていた。(どっち道それは表向きの理由だが)

1991年の社会民主党とエルサム電力との間で、ユトランド地区での電力設備増設についての特別合意があり、エルサム電力にとって、海上風車に参入することは大きな意味があった。この少しばかり変則的な合意は実行された。なぜならエルサム電力は北ユトランド地区で新たな石炭火力を増設することは政党の支持を得られなかったからである。当時国会では保守党以外は有名な‘グリーン・マジョリティ’があった。社会民主党はエネルギー政策に広く大きな裁量権を持っていた。エルサム電力との合意の一つに企業として一カ所を建設しなければならないとなっていた。風力施設は後に、1990年分の政府との新合意となった10万kw分の一部として含まれることになった。。当時選定されたリーレベルトの設置はもはやなしになった。トロ湾が初めて選ばれた。別なデモンストレーション施設は風車の鳥に対する影響を研究するために作られた。新たなリーレベルトの野鳥の数はストアベルト橋の起工に引き続いて行われたがどんどん増加しているので目標までつくるのはふさわしくないように思えた。斯くして物事は変更された。

ウィンドパークへの後押し

1992年エネルギー省は海上風車委員会に仕事を再開するように要請した。それを受けて委員会はエルサム電力が海上風車を建設する新しい場所を探すための手助けを始めた。それと同時に建設場所に絡む様々な公的利害の地図を作り直した。利害関係が多きく変わっていたからである。様々な省庁や利害団体においても海上風車への注目は増し、環境事項は第一の関心事になっていたからであった。エネルギー省から新委員長にヨアン・カルンダン特別コンサルタントが指名され、彼は大変な熱意で事に当たった。 エルサム電力は20カ所以上の建設予定地を提示した。だが、そのどれもが公的団体か利害団体の一つや二つにとって支障のある場所であった。 特に環境関連の省庁は、まず何より野鳥の影響に関する環境影響調査を求めた。オルフス湾内のエベルトフトへの建設は実現の可能性があったが、湾岸漁民が反対した。漁業自体への支障というより漁場である浅礁の保護についてが争点だった。先に建設されたヴィンドビー海上風車による漁獲量への影響調査で悪い結果が出たわけではないし、漁民にとって特に反対すべき状況ではなかったにもかかわらず・・。漁民との摩擦を避けるため、もともとデンマーク海軍が射撃場として持っていたツノーノブ周辺海域を代替えとすることになった。海軍はこれから使用するつもりがなかったので必要な後始末までして快く手放してくれた。というわけで事が動き出した。漁民にとって航行と漁業の禁止が解除されたことは障害がなくなったわけである。海上風車建設は1993年に認可された。しかし公的なヒアリングを経なければならない。以前には実施されなかったが今回ノースミンデ周辺地域に関しては住民との討論会が持たれた。エネルギー省は広くオープンなかたちでヒアリングを行うことを望んだのだ。2カ所で公的な討論会が持たれた。海辺の景観が損なわれることをとりわけ恐れた沿岸住民とサマーハウスの持ち主達2000人が押しかけ反対した。中央政府のもくろみに対してあまり好意的でない聴衆に囲まれることになった。建設に抗議する人たちは地元市に対しても反対するようせまった。 そうした状況下で環境省とエネルギー省は建設認可、1995年に完成となったのである。建設後は景観の点で市民に反対される事はなかった。今日それは環境面、技術面、その両面の見事な成功例として、将来デンマーク水域で海上風車を考える良い見本となっている。地元市の観光課は風車施設までの観光ツアーさえ行っている。

野鳥が戻ってきた

その海上風車デモンストレーション施設では広範な野鳥調査が義務づけられた。結果は風車にとっても野鳥にとっても明るいものだった。施設区域内で風車が野鳥にネガティヴな影響を与えたということはなかった。その結果は、将来新たな海上風車を作ったとき同じように当てはまるとは限らないにせよ、大いに意味のある知見であった。

同時に野鳥の研究調査には妥協をしてはならない事が分かった。施設の建設と同時に野鳥の数が実際に激減したことが確かめられた。だが、幸い研究調査には海底のエサ資源の評価も含まれていた。野鳥の数の減少はエサであるムラサキガイの数の減少によるもので、風車建設によってもたらされたものではないと結論された。今ではムラサキガイの数も野鳥の数も元に戻っている。

ツノー海上風車プロジェクトの遂行に平行して海上風車委員会は公共的利害に関するマッピング作業に移った。以前、省庁が問題にしていた前提は変化していたし、もっと詳細に検討しなければならないところも多かった。特に、沿岸部に風車を建てることによる景観的変化をどこまで容認できるか、という点に大きな関心が持たれ研究がなされた。デンマークの全ての沿岸部に対して景観とリンクした研究を行うことになった。風車建設による景観変化が沿岸住民へ与える影響を考慮しなければならないという観点により海岸から5-10kmの所につくるべきだと委員会は結論づけた。具体的には既存の人工的な施設が既にある港湾の町、そして景観の価値が乏しいとされる海岸の沖合である。また、委員会は野鳥についての影響調査が十分でないと指摘した。

以前の調査ではデンマークの内海域しか含まれなかったが、今回はユトランド半島西方海域のホーン海礁も入った。他の主な海域としてはレソー南方のカッテガトーの一部、ローランド北西部のオモとストルグルンデ、ロッドサンドとゲッサー南方の海域であった。 選定された海域だけでも700万kw(1000kw風車で)建設でき、年間150-180億kwh発電できると委員会は算定した。

市民参入分の確保

政府のエネルギー政策としての海上風車建設は動き出した。そして「エネルギー21」も大きくそれに賭けた。環境エネルギー省は1996年、電力会社に対してアクションプランに基づき海上風車建設に取りかかるように要請した。エネルギー21の冒頭に2030年までに電力会社やエネルギー委員会などと共同で海上風車を400万kw建設する目標を掲げている。そして、それが技術的に可能であり、電力システムに組み入れることが出来るとしている。

最初のデモンストレーション施設であったヴィンドビーとツノーでは発電単価はkwあたり50-60オーレだったが新型の大型風車では35-38オーレとなった。それは最新の安価な基礎工法と1.5-2MWクラスの大型風車の開発による。環境エネルギー大臣スベン・オーケンは電力会社に対して2008年までにまず始めに5つの計750MWの施設を作ることを課した。海上風車開発の突破口としたかったからだ。同時にオーケンは国際的なデンマークの環境エネルギー政策という点でも有利な立場になると考えた。75万kwの風力だけでもデンマークのエネルギー生産におけるCO2の発生を年間210万トン削減できるわけである。電力会社に対してこの分野の経験を積んでほしいとの思いがあったのだが、当の電力会社は‘押しつけられる’ことの抵抗感が強かった。

海上風車をいったい誰が認可を取り所有するか、という論議は最初のプロジェクトの段階から続いていた。政治家達は個人でも建設できるようにするべきであると言いながら、同時に、それに対する不安も露わにした。小規模な海上風車建設を建設したいという申し出が多くあったが、環境的な面と、電力会社がまず行うべきだという希望的願望もあり、許可に至らなかった。

国会でも海上の利用に関して論議がなされた。たとえば社会主義大衆党は一定部分の海上域を陸上における協同組合風車と同じように使えるように提案した。環境エネルギー省にとって海上域と陸上とを分離して考えることは基本的な立場であった。海上では個人所有は認められないし、陸上風車に関する法律は海上ではあてはめられないと。殆どの政治家達もそれと同じ考えだった。

だが、一般論はともかく、個別なかたちで話は進んだ。本著の別章にイエンス・ラーセン自身の報告があるように、コペンハーゲン電力会社(KE:今のコペンハーゲンエネルギー社)と協同でコペンハーゲン湾に民間のイニシアティヴで施設を建設しようという企画が1999年12月に認可された。1996年秋のある会議の後、個人所有のウィンドパークをミデルグルンデンに建設したいという構想が環境エネルギーオフィスのイエンス・ラーセンから出された。そして同年の12月エネルギー委員会に海上風車建設の陳情書が提出された。

誰が海上風車の所有者となるべきか、系統連携費用をどうするかなどが大変迅速に論議された。その考えとしてはリネッテン風車協同組合と同様なやり方で合意を形成するというものだったが、KE側はすんなりとは受け入れなかった。しかしながら両者はコペンハーゲン市議会での一定の政治的討議の後共同事業として遂行されることになり、プロジェクトの公開ヒヤリングが行われた。

電力の自由化は2000年から新しい電力分野の再編をもたらし、同時に海上風車への私的参入への枠組をつくった。将来の電力施設は全て私的なものになるかもしれない。

議論と妥協の必要性

海上風車の設置場所と所有形態の問題はおそらく決着することはないだろう。小規模なミデルグルンデンも大規模なローランド南方の海上風車も共に環境と沿岸から見た景観保全という論議があった。鳥類学会はカッテガトー海域に数多く生息するクロガモへ悪影響がないか完全に確認するまで徹底的に調査するように要望してきた。

問題点はほぼ出尽くした。環境、船舶の安全航行などの安全性を確保することと、風車建設による経済性を求める事とはどこかで折り合わねばならないのだ。ある条件をいじくるとまた新しい問題が発生する。ラムボール社技術コンサルタント、ヘンリック・ユールは「人間が海の上につくったものはいずれ壊れる」といっている。私たちは海上風車がデンマークのエネルギー政策に寄与するものとして提案しているが、ここ10年から15年のうちに実現出来るかどうかは予断を許さない。

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