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第06回 豊後本線逆走事件

別府の友人宅に一泊して、阿蘇盆地にある宮地までの帰路はJR九州の豊肥本線を利用することにした。大分駅にでると、駅舎の入り口の壁に横断幕が掲げてあった。「祝開通ソニック号 大分―博多 二時間六分」と書かれてある。これまでの最速特急のニチリン号よりも一四分速い、とも添え書きされていた。

切符売り場近くの壁には新幹線の宣伝ポスターが張られてあった。「のぞみ号、東京―博多を五時間四分」の売り文句が印刷されている。近日中には四時間台で走れるように現在は試運転中である、との予告も書いてある。細かな数字が並べられているものだ。

わたしは、大分駅から二両連結のディーゼルカーで豊後竹田まで行く。この駅までは大分市の通勤圏なのか、一時間に三本か四本の便があるが、これより先は一本あるかないかである。都合よくも、降りたホームの反対側に阿蘇に行くディーゼルカーが待っていた。

ホームに降りると寒さに身震いした。小雪がちらつき始めていた。コートの襟首を立てて、一輌編成のワンマンカーに急ぐ。ホームの中ほどに売店があったので、缶ビールを一本手に入れる。代金を払いながらで、初めて真冬にアイスクリームを食べたときのことを思い出していた。房総の田舎から出てきて、都会暮らしを始めたばかりの中学生のわたしは、アイスクリームを冬に食べられるのが都会なんだな、とひとりで合点した記憶がある。それまでは、暑気払いをする極上の食べものと思っていたので、コタツに入って口にしたときには、贅沢の極みに思えた。その奢り気分が、冬のビールにも当てはまった。

車内は暖房が効いていた。すでに何人かの客が乗っていた。明るい灯火の下で、後部のボックス席では三人の女の子が、大声を出してお喋りをしている。そのリンリンと弾けるような話しぶりは高校生のようでもある。前の方ではふたりの女性が向き合って座っている。ひとりが六〇代、もうひとりが七〇代のようだ。ふたりは駅弁を広げ、ジュース缶を片手に、これまた楽しげである。その他の客は初老の男がひとりであった。わたしは中ほどのボックス席に座り、すぐさま缶ビールのフタを開ける。友人が別れ際に差し入れしてくれた煎りジャコを肴に飲む。窓ガラスは蒸気が溜まっていて、外が見えない。ホームには、「荒城の月」が低音で流れている。作曲者の滝廉太郎の出身地がここ竹田だからだろう。初めは新鮮に響いたが、エンドレスで流されると、別な印象に変わっていくのが不思議である。

「お待たせいたしました。一八時四三分発、熊本行き普通列車は間もなく発車いたします」。の車内アナウンスがあってすぐに、ドアが閉まり、走りだした。ワンマンカーであるから、アナウンスは運転手がしたのであろう。ガラガラガラという破けたようなエンジン音をまき散らしながらの出発である。

ホームには売店の六〇格好の男ひとりが残された。これが下りの最終便であった。竹田を出て、次の玉来(たまらい)駅には四、五分で着いた。すでに手にした三五〇cc入りの缶ビールは空いていた。雪は降り続いている。そこを後にすると、次の豊後荻に向かう。車内の明かりが窓ガラスに反射して、外の様子が分からない。備え付けのカーテンを引いて、窓とカーテンの間に顔を突っこむ。車内の明かりが遮断されて、外の様子が少しわかった。人家の灯火らしきものがいくつか見えたが、連なってはいない。あとはどこからも明かりが漏れてこない。森なのか前原なのか、それも分からない。雪には湿度がないとみえて、列車の巻き起こす風にあおられて、砂塵のように舞っている。

鉄路はしだいに上り勾配になっていく。阿蘇の外輪山を越えて行くのだから、この先も昇り坂が続くことだろう。後部座席に陣取る女の子のお喋りが、エンジンのうなりに負けまいとして、甲高くなる。

長いこと走ってやっと萩駅に着いた。駅では五人の客が降りた。初老の男と、弁当を広げていたふたり連れのうちで若い方の女と、それから三人の女の子である。女の子たちは降りる段になってもお喋りを止めない。車内からステップを踏んで外に出るとき、定期券らしきものを目の高さに掲げて、車掌を兼ねた運転手に見せる。三人が順番に「さようなら」をいうと、運転手の顔がほころんだ。定期券を持っているところからして、この駅から竹田市内か大分市内の高等学校にでも通っているのだろう。私服を着こんでいるのは、街に遊びに行っての帰りのようだ。きょうは休校日なのかもしれない。

ディーゼルカーはしばらく停車していた。無人の真新しい駅舎にはプラスチック製のイスが何脚か並べられてある。なぜか、そこだけがライトアップされていて、周囲は暗い。三人のうちのふたりは駅舎をすり抜けて駅前の広場に出ていった。ミニスカートにブーツの大柄な女の子ひとりが駅舎に残された。ライトアップされてイスに腰を下ろしている。ストッキングも履いてない白い素足の裏側が、冷え切ったプラスチックの台座に触れている。女の子は上衣のポケットに両手を突っこみ、踵を立て、膝をすりあわせるようにして座っていた。

駅前には何軒かの店やが並んでいたが、どこからも明かりが漏れてこない。ほどなくして一台の車のヘッドライトが駅舎正面を照らして停まった。棒のような光の中に雪が舞っている。ものの何秒かでライトが回転した。イスの女の子が小さく手を振る。迎えの車で友だちが走り去ると、駅舎からも広場からも、まったく人の気配が消えた。森閑とした中で、女の子は目線を膝の向こうに落としている。先ほどまでのはしゃぎ声とは別の女の子のシルエットがあった。かげろうの様な色香が締め切った室内に漂っているかもしれない。

ディーゼルカーはまもなく出発した。レールの勾配がきつくなったようだ。前原の一枚ごとの段差が大きくなっていく。雪は変わらずに降っている。

何分走っただろうか、床下で「キーッ、キーッ」という胃毛を逆なでするような不快な音がした。それが間を置いて何度もくりかえされた。そのつどエンジンが「ブーン、ブーン」と、扇風機を「強」にしたときのようなうなり声を立てる。どうやら車輪が空転しているらしい。デイゼルカーはしだいに速度を落とし、ついには歩く速さにまでなった。そのときわたしは、自分の足で歩いている錯覚にとらわれた。重い荷を曳いてはいないんだと分かり、ホッとする。乗り物がゆっくりになればなるほど、ありがたみが実感できるのが常だった。

しばらくはその状態が続いた。わたしは席を立って運転席の方に歩み寄る。前の方に座っていた七〇格好の老女に声を掛ける、「どうもスリップしているようですね」と。老女は不安を隠さない。「帰りが何時になるやらねえ」と、きれいな普通語で返してきた。客はふたりだけである。老女はこれよりふたつ先の波野(なみの)まで行くという。わたしが向かう宮地のひとつ手前である。老女もその場に立ち上がり、片手で背もたれの上端を握って、前方をうかがいながらで話す。

「さっき停まった荻駅で妹は降りたから、いまごろわが家に電話してくれているはずなのよ。きっと息子が波野の駅に車で迎えに来てくれているはずなんだけど・・・」

わたしは老女の脇をすり抜けて車両の一番前に出た。左隅にある運転席のすぐ右隣りに立った。運転手との間には、スチールの丸棒が渡してあって、それが仕切りの役目を果たしていた。レールの様子を見たいと思ってフロントガラスに顔を近づけるが、何も見えない。ヘッドライトに照らし出されているのは数十メートル先の樹木ばかりである。自動車のライトと違って、上向き下向きという切替ができないらしい。線路の両側から垂れこんでいる竹笹が視界をいっそう悪くしている。そのとき、運転席の方からずいぶんと冷たい風が流れてきた。横目をやると、運転手はレバーを操作する右手はそのままに、脇窓を開けて、そこから半身を外に乗り出して車体の下をのぞいている。やはり異常をきたしているらしい。老女がいつの間にかわたしの後ろに近づいて来た。

デイゼルカーはとうとう停まってしまった。運転手はまっすぐ正面に向き直ってから、こんどは上半身を反対側にねじった。

「お客さんはどちらまで行かれますか?」

「波野までだけど・・・」

「こちらのお客さんは?」

「宮地までです」

運転手は停車の理由を何も言わなかった。額には汗のようなものがにじんでいる。顔を前方に戻し、フロントガラスに話しかけるようにして、

「遅れますが、しばらくお待ちください」

と、ていねいなモノ言いをした。わたしはいささか面食らった。この車内には三人の他には誰もいないし、それに、口やかましく遅れを責める者がいるわけではない。わたしは、「そんなに他人行儀に、気を遣わなくてもいいじゃないの」と、親しい人に話しかける気分になっていた。

運転手は、脇窓と一体になっているドアを内に引いて開いてから、軌道敷きに降りていった。車体の点検と、レールの様子を見に行ったようだ。わたしは室内にあって、作業を眺めていた。運転手は小太りした長身な男で、見るからに人なつっこい風貌であった。小雪の舞う中を忙しく動き回っていた。

さほど時間を取らずに運転手は戻ってきた。ドアが「バタン」と閉まるとほぼ同時に車は動き出した。次第にスピードを上げて、人が走る速さにまでなった。が、それもつかのま、またしても速度が低下して、そのまま停止してしまった。「帰りがいつになっとかねえ」、と老女がポツンと言う。室内灯がガラスに反射して見えにくいのか、老女はしきりに顔の位置を動かして外の様子を確かめようとする。

「もう少し上れば、古閑(こが)の踏切があるはずだけど・・・」

老婆は付近の地理に詳しいとみえる。

「古閑まで行けば、車も来れるしねえ・・・わたしの実家はその先の滝水(たきみず)で、荻の女学校まで、毎日六キロを通ったから、この辺はよく知ってるんだけど・・・」

言い終えて照れたような笑顔を見せた。運転手は聞いているのかいないのか、変わらずに無言であった。レバーの操作ではどうすることもできないと判断すると、こんどはフロントガラスのすぐ下の床に寝かせてあった袋をわしづかみにして、線路に降りていった。レールの上にスリップ防止用に砂を撒くのであろう。わたしは運転手ひとりに任せておけないような気がした。

「手伝えることがあったら、言ってください、手伝いますから」

「いえ、いいです」

やりとりはそれだけであった。客が車外へ出て、何か事故でも起きれば運転手は責任を問われることになりかねない。私自身も、「余計なことはするまい」と、自分に言いきかせた。

前照灯の薄明かりの中で、レールに砂を撒きながら、何十メートルも先の闇に消えていく運転手の姿を目撃した。その瞬間、わたしは、頭の中で、“越えてはならないハードル”を意識していた。鼓動がドキンと心臓をひと打ちしたかと思うと、体の方は、計器類に囲まれた運転席をすり抜けて、手すりを頼りに、足先でステップの位置を確かめながら、地上に降りたった。そのときすでに、ハードルは意識から消えていた。地に足を着けた新鮮さ、侵してはならない規則を犯してしまった昂奮が先に立ち、逆に心地よくもあった。

「砂かしてください」

わたしは闇の中へ叫んだ。もう、客と乗務員の垣根は取り払われたんだよ、と暗に叫んでいた。運転手は空き缶で袋の中の砂をすくい、それをわたしに手渡した。

「すいません」

とだけいう。息が荒かった。少々肥満気味の五〇男にとって、中腰の姿勢を保ちながら、小走りで砂を撒くのは体にこたえるとみえる。暗くて表情がはっきり読みとれなかったが、声からは「助かります」と聴き取れた。

砂と思われたものは、実は豆粒大の土の塊であった。わたしは指先でそのひとつを潰してみたが、簡単に粉々になる。砂よりも滑り止めの効果があるのだろう。ふたりは無言で土の塊をレールの上に敷いていく。レールの頂上部には丸みがあるためか、それとも鉄が凍てついているせいか、撒いた土の三分の一は滑り落ちてしまった。そんな無駄を出しながらでも、ジュースの空き缶一杯で一〇メートル分は賄えた。わたしは二杯目を分けてもらいに運転手のそばに寄って行った。

「滑りますか?」

わたしは、無意味な質問とは分かっていたが、話しかけやすい顔を作ってたずねた。「ま少し降ってくれれば良かとですが・・・」運転手は初めて私語らしいコトバを吐いた。何十メートルかのレールの上に、薄黄色の土塊を撒いてふたりは作業を切り上げた。運転手が、「もう、これくらいにしときましょう」とか、「はい、ありがとうございました」といって、わたしに作業を止めるように促したわけではない。すべては無言のうちに終わった。運転手が闇の向こうから空の砂袋を提げて戻って来るのを見て、わたしも止めにしたまでである。ふたりは荒く白い息を吐きながら枕木の上を歩いていた。

わたしが先になった車内へ戻る。老女も気が気でなかったとみえて、立ったままで外の様子を見守っていた。運転手は最初のスリップが起きたときにしたように、脇窓から半身を乗り出して、車体の下のレールを点検しながら、右手でレバーを操作する。

ゆっくりと発車させた。車輪が土の塊を踏みつぶすたびに、ブチュブチュとう音を立て、振動が足裏に伝わってくる。塊がもっと大きく、もっと固かったなら、それは限りなく脱線に繋がるはずである。あくまでもゆっくり上って行く。エンジン音も低く、車輪が空回りしているふうでもない。

どれくらい進んだろうか、またしても停まってしまった。運転手はブレーキを掛けたのだが、車輌が後ずさりするのがはっきりと分かった。わたしは、エレベーターが急降下するときに味わう、脳髄までが逆さまになるような不気味さを味わった。運転手は見た目には慌てた様子はなかったが、こんどは土を撒きに出ようとはしない。代わりに、ズボンのポケットをまさぐった。携帯電話を取り出し、それを右の手の平に置き、左手では手帳を繰った。ひごろは開かない手帳とみえて、頁に癖がない。せっかく開いても、次の頁を繰るスキに、また閉じてしまう。数回同じことをくり返した後、こんどは上向きになっている右手の甲で頁を押さえながら、左手で手帳を繰る。やっと交信が始まった。

「こちら二、四、三、ゼロ」

「お疲れさんです」

客にも聞こえる音量で交信内容が漏れてくる。

「現在、荻から上がってきて、途中でスリップのため停止しています。どうぞ」

「ええ、了解しました。どの辺でしょうか?どうぞ」

運転手はすぐには答えられない。やり取りを聞いていた老女が運転席に首を突っこんだ。

「荻からどのくらい来たもんかねえ」

運転手は電話機の送信口を掌で塞いで交信を中断した。老女のほうを見ずに、その背後にいるわたしの方に上目を使った。

「まだ、一キロかそこいらでしょうねえ」

わたしに同意を求めているモノいいである。

「まだ、一キロは来てないと思うけど・・・」

わたしは仲間と相談している口ぶりになっていた。会話からはじき出された格好の老女も割りこんでくる。

「もう少し行けば古閑の踏切があるはずだけど、そこまで行けば歩いて道に出られるし、車の迎えも頼めますよ」

経験豊富な年長者が若者に知恵を授けるといった格好になった。が、運転手はその案には反応せずに、

「いま少し前に陸橋をくぐってきたと思ったけど・・・」

老女は何も答えなかった。この辺りを熟知しているはずだから、おそらくは橋はないのだろう。運転手は客の知恵を借りることに区切りをつけて交信を再開する。老女はまだ喋り足らないふうで、わたしひとりに説明を始める。

「この辺は作治さんのキャベツ畑ですよ。商売やってるから、配達にこの辺によく来るんですよ」

この闇の中のどこに前原があるのか、わたしにはさっぱり分からないが、「作治さん」が身近な人に思えた。

「若いときは女学校に通う道で、いまはうちの息子が配達に回る区域だから・・・」

運転手は竹田の運転管理事務所と相談しているらしい。先方からの指示を待つ間、受話器を耳に当てたまま、客ふたりの会話を遮って、わたしひとりに視線を向ける。

「波野経由で宮地まで行ってもらえますか?」

自動車による代替輸送を念頭に置いているらしい。管理事務所からの指示で、客の承諾を得ようとしたのだろうか。途中経過を客に知らせることなど思いつかないのだろう。客を何とか目的地へ届けようとする思いが先走っている。もう二時間近くも額を寄せ合っているのに、会話の隅々に、何かに遠慮しているような、すまなそうな声がついて回る。人のよさそうな表情を向けられて、わたしは運転手に同情するしかなかった。「はい、いいですよ」と答えたが、内心では「しめた」と、喜んでいた。自動車で外輪山を越えることなど予想もしていなかったのだ。どんなにダイヤが乱れようと、いや、乱れるほどにわたしはワクワクするのだった。

管理事務所とのやりとりの説明がないまま、運転手は三たび線路に降りて土を撒き始めた。わたしも手伝う。わたしが質問を投げかけるまえに、運転手の方から話しかけてきた。

「タクシー代は宮地の駅員さんが払ってくれると思いますので・・・」

頭の中は代替輸送のことでいっぱいのようだ。わたしは、「はい」とだけ答えた。タクシーのことも、それから、代金はとりあえず客が払うことも初めて知らされた。それなのに、まだ先に進もうとして土を撒いているのはどういうことなのだろう。

わたしは不平を吐露する気持はなかった。いきさつを明かしてほしいと訴える気持もない。こうしてこっそり土を撒いているのが小気味よい。平成のご時世であっても、客が保線掛かりを兼ねる路線が現実にある、ということが愉快だ。この秘密を知っているのは運転手とあの老女だけである。管理事務所の人も知らないし、天下のJRの誰も知らない。それにしても、どこまでディーゼルカーを走らせるつもりなのだろう。

また動き出した。三人はフロントガラスに顔をこすらんばかりに近づけている。

「踏切はだいぶ先ですかねえ?」

と、運転手がひとりごとのように呟いた。老女を頼りにしているのがありありと分かる。

左前方に赤いものが光った。

「踏切りだろうか?」

と、わたしが声を昂ぶらせる。運転手は何もいわない。老女が慎重にガラス窓をのぞくが、これまた無言である。素人の早とちりであった。線路脇に立つ標識塔に塗られた赤い蛍光塗料が反射しただけであった。

同じ勾配の上り坂をゆっくりと行く。突然、運転手の足元からけたたましいブザー音が鳴りだした。運転手は慌ててペタルを二回、三回と踏みこむ。

「速度がメーターにものらない低速だと、ブザーが鳴るんですよ」

しばらく行くと、赤色灯が点滅するのが目にはいった。まぎれもなく踏切だ。

「古閑の踏切ですよ」

老女の歯切れのよい声が飛んだ。三人はひとつの塊になって行く手を注視した。ディーゼルカーは踏切にさしかかると、点滅に合わせて、「カンカンカン」という警報音が耳に入ってきた。辺りには人家も見当たらない。杉だか檜だかの林に囲まれた、黒々とした闇が迫ってくる中でデイゼルカーは停まった。運転手も老女も何とも言わない。何の変哲もない風景と受け取っているからだろうか。わたしは赤色灯に見とれていた。人っ子ひとりいない中で、そこだけが生きている、と思えたのだ。運転手は携帯電話で交信を再開した。

「こちら、二、四、三、ゼロです。いま、古閑の踏切まで来ました」

「了解。雪の様子はどうですか?」

「小降りになってます。笹が両側から倒れこんでいるところがあります」

運転手は交信の合間にふたりの方に顔を向けて説明するのだった。

「落ち葉とか笹の類がレールに張り付くと、それだけでスリップするとです」

運転手は少しずつ口数が増えていく。事務所からの呼びかけに気づいて、目線が宙を泳ぐ。

「はい、了解しました」

「それから、運転手さん、お名前は?」

「熊本運転所のウエダカツトシです」

「了解。竹田まで戻ってきてもらったら、帰りは○○便が利用できますから」

すでに逆戻りの段取りがついている様子である。運転手はレバーを外してから、黒カバンを抱きかかえて、無言で最後部に移動した。こんどは反対側が運転席になるようだ。レバーを取り付けると、ふたりしかいない車内に向かって、帽子をとり深々と一礼した。

「ご迷惑をおかけしましす。これから萩に戻ります」

腰をふたつに折り、頭部が全身を覆う形となった。この他人行儀が芝居であったらなら、と、こちらの想いが届かないもどかしさに、気持ちが割り切れない。

二時間かけて進んだ鉄路を一〇分で戻った。運転手が萩駅で客ふたりを誘導するときも、私語はいっさい口にせず、同じように帽子を取り、深々と頭を垂れる。すべては雪のせいであり、運転手には何の責任もない。わたしは、ふと、あの大分駅の広告を思い出していた。一分、二分のスピードを競うことが客へのサービスであり、ダイヤが少しでも乱れると、乗務員は客に詰め寄られるものだ、と決めつけているのだろうか。老女とわたしのふたりに恐怖を抱いたとは思えない。わたしは運転手のバカていねいなあいさつが哀しかった。

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