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第07回 母よ、わたしの荷車を・・・

わたしは自転車の荷台に竹細工道具を積んで高架下の仕事場に通った。朝七時を少し過ぎている時間であったが、ここに常住している〃隣人〃たちはすでに身辺を片付けてどこかへ出掛けた後だった。人影のないコンクリートのたたきの上にゴザを広げ、その真ん中へ腰を落として竹を割り始める。

梅雨のさなかにしてはカラッとした風が吹き抜けた。目の前の民家の壁には強い日差しがかかっていた。

長さ二間半の真(ま)竹が、乾いた音をたてて右へ左へと滑っていく。何度か往復していくうちに、丸竹は紐のような細いヒゴに姿を変えていった。小一時間もすると、六寸の筒回りの竹が、厚みの一定した、幅が三ミリほどのヒゴになった。わたしは、できあがったヒゴの根元を手の平で束ねて、ギュッと握ってから上下に振った。数十本のヒゴが、浜辺に寄せる波のようになって先に転がっていく。二回、三回くりかえしているうちに、末広がりになっていた先端部分が寄って、最後はひとつにまとまった。腕先の動きひとつで二間半先が生き物のように動くのが愉快だった。

細割りにされたヒゴでカゴを編み始める。平面に編まれた底を、四方から立ち上げるために、中腰の姿勢でしゃがみこんでいると、前方に折った首筋を血がどくどくと上っていくのが分かった。鼻から血が出そうな気がしたので、急いで首を上げて天を向く。そのとき、通過する電車の轟音をまともに浴びた。上向きにした目に何かが入ったのか、瞼の裏で小さなものが痛痒く転がった。段取りよく仕事を進めているはずなのに、気持があっちこっちに散っていく。「気分の乗らんときは、気をつけんといかんばい、怪我するか知れんけん。」師匠の柔らかい球磨弁が耳底でささやく。

わたしは仕事を放りだし、自転車に跨がった。東西方向に走る総武線の高架道よりも一〇〇メートル北側に、千葉街道が平行していて、そこを西に向かった。背後から近づいてきた自動車がわたしを追い越そうとした瞬間、ブワッと音をたてて排気ガスを吐き出した。青みのかかったガスをまともに吸ってわたしは頭をくらくらさせる。逃げるようにして間道に入ると、踏切にぶつかった。街道のさらに北側に走っている京成電鉄の地上線であった。赤信号が点滅していて、「カンカン」という金属音がせわしなく鳴っていた。

自転車を曳いたひとりの老婆が遮断機が上がるのを待っていた。荷台に大きな段ボール箱をくくりつけていて、中から食料品が顔をのぞかせていた。束になった納豆や、佃煮のようなもの、煎餅の袋などが乱雑に入れてある。家族が食べる量にしては多すぎはしないか、とわたしは背後から勝手な心配をした。老婆はひさしの短い野球帽を被っていた。初めは、孫のお下がりだろうかと、ほほえましく写ったが、頭部がわずかに回されたときに、これは制帽なのだ、と知った。正面に木札がとめてあるのが分かったからだった。名刺の倍の大きさの板いっぱいに数字が書きこまれている。食品市場に出入りする業者の鑑札のようだ。小商いの仕入れをしての帰りなのだろう。そう考え直すと、商いが小さ過ぎはしないか、とまたしても余計な心配がよぎった。ひとり食べていければいいくらいの考えで商売をしているのだろうか。

電車が鼻先を通り過ぎると遮断機が開いた。同時に向こう側から自転車が数台、急いた塊となって走ってくる。その後から徒歩の人が続いている。レールとレールとの間に枕木を並べて段差を埋めただけの横断道は幅が狭い。皆が道いっぱいに広がって近づいてくると、老婆はこちら側で身動きもせずに立っていた。必要とあらば何日でも立ち続けそうである。人影が消えると、老婆はおもむろに自転車を発進させようとするが、踏切の緩い段差を押し上げることができない。

何とか段差を上りきると、自転車を徒歩で押しながら進む。渡りきる手前は下り勾配になっていて、そこでも手間どっていた。そのとき、後続の電車が近づいてきたのか、警報機が甲高く鳴り出した。それでも老婆の歩調は変わらなかった。踏切を渡りおえ、軌道敷の外に出ると、平坦な所を選んで自転車を止めた。老婆は片方の手でハンドルを握ったまま、体をねじって、もう一方の手を荷台の段ボール箱に突っこむ。背を丸め、多くはない荷物のひとつひとつを並べ換えていた。どんなに周囲が急いていても、体に馴染んだリズムは替わりそうにない。

わたしは老婆の背中に別れを告げて、線路に沿ったひとすじの道を西へ走った。どこまでも延びている鉄路との境にはコンクリートの杭が一メートル置きに立ててあり、杭に直角に鬼番線が二段になって張られてある。道のもう一方の側は新興住宅がびっしりと並んでいる。建坪率は、限りなく一〇〇パーセントに近い。

しばらく行くと、大きな屋敷があり、周囲をコンクリートの塀でめぐらしていた。塀は年月が経っているとみえて、道の方へ斜めにかしいでいた。昔ながらの地元の百姓家なのか、大きな門の奥に母屋が建ち、その脇に赤茶けたトタン葺きの小屋が並んでいる。入り口には鍬や、泥のついた一輪車が無造作に置いてある。

敷地のあちらこちらには松の大木が何十本となく立っている。その昔、千葉街道の南は海だったというから、海岸線からわずかしか入っていないこの辺は防風林が必要だったのだろうか。あるいは漁師たちの手で植林した魚付け林(うおつけりん)だったことも考えられる。魚は陸の緑を目がけて岸近くに寄ってくる習性があるという。天を仰ぐと、どの松も片かしぎにかしいでいた。塀に沿って立っている一本は樹齢二百年はありそうだ。旧式の郵便ポストほどの太さがあり、形のよい枝を張り出して天空を覆っていて、空のありかがわからない。悠然とそびえる老松には風格があった。

目線を下げると、幹の部分が湾曲して道にせり出している。四方に伸びた根が舗装を持ち上げ、黒く蛇行した亀裂が道を渡っていた。わたしはそこを跨ごうとしたとき、わずか数センチの割れ目が、地底からの誘いのように思えて、とっさにペタルに乗せていた足を浮かした。

松の幹を改めて見ると、うろこのような樹皮に塀のコンクリートが食いこんでいた。わたしは自分が異物でも飲みこんだようで、気持が悪くなった。よく見ると、我が身にコンクリートを突き差されてあえいでいると思えた老松が、逆に、コンクリートをくわえているのだった。悠然とどころか、成長の邪魔になる囲いを押しのけようと、相手をめくり上げ、崩しにかかっている。コンクリートの裾がボロボロになっていて、中に埋めてある鉄筋の先端があらわになっていた。

わたしは相撲の大一番でも観戦したあとのような疲れを感じた。ごつごつとした張り根の感触を尻に受けながらペタルを踏む。そのとき、電車が耳元を疾走していった。風が巻き起こり、鉄粉臭い空気がわたしの全身を包んだ。

一本道に誘われるままペタルを踏む。菅野(すがの)という小さな駅を過ぎ、市川真間(いちかわまま)駅に着く。線路と交差して商店街が長くのびていた。歩道を覆うアーケードは古びていて、鉄柱には赤錆びが入っていた。その年代物の町並みに誘われて、鉄路添いの道を直角に曲がる。薄暗いタタキの上に、陳列ケースをスケスケに並べただけの店やがあった。数十年前の駄菓子屋を想わせるたたずまいである。「ここが近郷一番の賑わいをみせていたのだぞ」と店の主人はいまでも胸を張っているふうだ。けっして少なくはない人の通りであるが、せわしない流れが、かえって店々の軒先を閑散とさせていた。

古い町にはきまったように、煎餅屋があり、豆腐屋があり、床屋がある。もしかすると、古本屋の一軒もあるかもしれない。わたしが左右の街並を目で追うと、あんのじょうあった。間口が一間しかない、ひっそりした構えの店だった。横目に入ってきたのは、あふれるように並べられたアニメの本と週刊誌であった。わたしは裏切られた思いで、一度は通り過ぎたのだが、思い直してのぞいてみることにした。

週刊誌の奥には文庫本がぎっしり棚に詰まっている。蛍光灯に白く照らし出された、ウナギの寝床のような店内を奥へ進むと、こんどは単行本の棚であった。本の多さにびっくりした。まだ奥があるようだ。光度を落とした白熱球の明かりが軟らかく漏れている。その一角からは、古本屋特有のカビ臭いような匂いが漂ってきた。わたしは吸いこまれるようにして半間ほどの口から入っていくと、なんとそこは、これまでの売り場とはうって変わって、シャモジの先のように、丸く大きくふくれている。けっして高くはない天井であるが、床から層をなす棚にはおびただしい冊数の本が並べてあった。室内が燦然と輝いているほどのめまいを覚え、わたしは二度びっくりした。

本はていねいに区分けされていて、一冊ごとに手書きの内容説明が背表紙に添付されている。店の主人は根っからの本好きなのであろう。誰もいない中で、わたしは腰を落として本を広げた。戦前に発行された総合誌のコーナーがあって、そこに昭和十一年五月発行の『改造』があった。黄ばんだページをそっと開くと、時代がそのまま飛び出してきたような錯覚に襲われた。「南洋政策を論ず」とか、「寺内陸相と粛軍」、海外の話題としては「西班牙に於ける人民戦線の勝利」、「黒人帝国の滅亡-アジスアベバ陥落」などなど。わたしは、半分土に埋まっている遺跡を掘り起こすような気分で次々に頁を繰った。

文芸欄に目を移すと、室生犀星や里見とんの名前がある。まだ三十代の初めの、『放浪記』で売り出して間のない林芙美子もいた。改めて目次をひもどくと、なんと知っている名前が半分以上あった。裏表紙の右肩に鉛筆で「〇百円」と記入されている。小銭入れをのぞくが、わずかに足りない。立ち読みをきめこむ。本棚の裏が事務室にでもなっているのか、人の声がするが、誰も出てくる気配がない。

小林秀雄、高見順、そして島木健作と続いた。半世紀以上も前の読者の指紋が残ってはいないだろうかと、子どもじみた期待をかけて読みすすむ。最後に三好達治の小説があったが、あんまり長居してもすまないようで、端寄るつもりで、最初のページだけに目を通すことにした。

『暮春記』という題の小説で、病後の静養を山の宿でしている主人公が、川面に顔を出したカジカを眺めているうちに、幼少のころの記憶が蘇ってくる。わが家をたずねてきたひとりの小父さんを前にして、父親がいつもの真顔で、そしてさも無雑作に主人公にたずねた。

「おまえ、この小父さんのお家へ行くかい?」

幼い主人公はさびしさを覚えたが、泣き出そうともしなかった。父親の何とも解せない問いかけに反目する替わりに、以前にその男の人がかわいいカジカを入れた金網をわが家に持参してきたことを思い出し、「行く」と、とっさに答えた。父親は酔っていたようだった。母親不在の中で養子縁組の話がまとまっていく。父親の本心がどこにあったのか、成人した後でも主人公にはわからない。父親の愛が信じられる軌跡をひとつでもいいから探そうとするのだが、かなわない。わずかに、実家から使いを頼まれてたずねて来た者に、「一緒の汽車で家まで連れていってくれ」とせがんだ自分を思い出して、少し気持ちがほころぶ。自分にも父親の面影を慕ったことがある、というひとつの反証をとりだして、落莫とした思いを癒そうと努める主人公の姿がわたしを金縛りにした。なぜそうなったのか、わたしは不思議であった。早くに父親を亡くして、その愛も味も分からないのだから、主人公に共感する下地はどこにもないはずなのに、目に見えない糸がわたしを縛りつけていた。

うっとうしい梅雨空のすき間から太陽がこぼれていた。蝉が鳴きだすには間があるが、日差しの強さは夏であった。わたしは額に汗をにじませながら、真昼の白い道を行く。筑波の新興住宅街を外れ、森に囲まれた静かな集落へ入っていった。ひんやりとした土の香りに包まれると、呼吸が楽になった。

「ばあさんが死んだ、と姉さんの知らせには書いてあったが、大往生だったろうなあ。あのばあさんなら、死ぬ間ぎわまで我意を通したであろうから」。そう呟いた自分の言葉が、自身にはね返ってきた。わたしは、実母のことを「お母さん」と呼んだことがないのである。

父親はわたしが二歳のときに他界した。転地療養先の房総南端の漁村でのことである。戦争が終わってから、母親は、わたしと姉とを父方の祖母に預けて働きに出た。初めは汽車で一時間の街に通勤していたが、いくらもしないで東京に出た。房総から母親が間借りしている吉祥寺という街までは五時間かかるという。家に帰ってくるのは年に一度か、あるいは二年に一度であった。そんなとき、祖母が「ほれ、お母さんだよ」と、わたしにうながしても、他人を見る目しかなかった。母親はそんな我が子をどう思ったのだろうか、笑顔を浮かべてはいたが、すすんで抱きしめたりはしなかった。

中学に入ってから母親との同居が始まったが、「お母さん」の声がどうしても出なかった。人前では「母親」であり、面と向かっては「ねえ」とか、「あのう……」で過ごした。成人してからは、「おふくろ」で通した。大人になりきる前の若者の照れが見え隠れしている。所帯を持ち、子どもをもうけてからこっちは、「おばあさん」か「ばあさん」である。そう呼ぶことで、わが子に親しみを抱かせようとした。自分にもより親しい気持を植えつけようと試みたのである。母親をどう呼んでいいのか、いつもぎくしゃくとしたこだわりがあった。

わたしは母親の死の知らせを受けたときも、こうして仏前に線香をあげに向かっているいまも、いつもと変わったところがない。親を失ってやせ細るほどに悲嘆にくれる人がいる中で、自分は何なんだろう、と思うのだった。何か大きなものを忘れたまま歳月を重ねて生きてきたのだろか。世間に通用しない奇な自分を見るようで落着かない。

その親は親で、実母の、つまりはわたしの母方の祖母の死に目に遭わなかった。

「行かなくていいのかい?」

わたしが葬式の日の朝にそれとなくうながすと、母親はいつものけだるい表情で、「いいんだよ」と、だけ答えた。その後、母親は実母の墓参をするでもなく、線香を立てるでもなかった。じつに淡々と日々を送っていた。だからといって、生前の実母と仲たがいしていたわけではない。同居していた弟の家にばかりは居たくなかったとみえて、年に二度は必ず娘の、つまり、わたしの母親の元で長逗留していた。そんな母親の気持ちがわたしは読めないのである。

筑波の山の中を歩きながらわたしはふと思った。わたしは五歳まで母親と一緒だったのだが、台所に立つ母親の姿を記憶しているのは、熱を出して床に伏しているときにお焼きを作ってもらったときだけである。中学生になって母親と同居してからも、こまめに家のことをする人ではなかった。それよりも、外の世界を泳ぐほうが好きであった。東京に出てきて、五年目には小さな洋装店を持ち、一〇年後には都心部にしゃれたブテイックの店を開いた。一五年後に開かれた東京オリンピックが飛躍の年となり、日本全国のデパートを股に掛けて商売をするようになった。「お針子さん」と呼ばれていた弟子が二〇人を超える時期もあった。家政へのこまやかさはますます遠のいていった。誕生祝いだとか、近くの公園で家族と弁当を一緒に広げるなどということは頭の隅にはなかったようだ。

そんな母親の淡泊な情愛が、ありがたく思えたことがある。わたしが二十歳を越していくらも経たないころ、尾瀬沼へ抜ける三平峠で登山客相手に清涼飲料水の露店商を始めたころである。いたって気楽に店を張ったのだが、てきや仲間の仁義を知らなかったばかりに、ちょっとした立ち回りとなり、片品村のお巡りさんに世話になるはめに陥った。母親にも連絡がいき、事情を聴取されたが、わたしに向かっては、「カルピスだかなんだか、売れるのかい?」で終わった。

それから間もなくして、新潟に大きな地震が発生して、罹災民が不自由な生活を送っていると耳にして、わたしは商売そっちのけで、鉄道も不通な中を徒歩で災害地に入り、被害の大きかった水没地帯で人の手伝いをしていた。あまり長いこと連絡がなかったので、母親は心配が膨れていく。お針子のひとりが、「センセイ、この前に観た映画に息子さんにそっくりな役者が出ていましたよ」と教えられて、すぐその映画を観に行ったそうだ。捜索願を警察に出そうか出すまいかと迷っている時であった。だが、わたしに対する愚痴はひと言も出なかった。その後、わたしは竹細工を稼業にしたのだが、母親はそのことにも何の異議もさし挟もうとしない。

その母親がなぜ遠い人なのか。縮められない距離がもどかしい。何かないのか、ほのぼのとする思い出はないのか、手がかりがどこかに潜んで居いてもいいはずだ。

大きくなってから人に聞いた話を思い出した。振り向きもしないで先を行く母親に幼いわたしは地べたにしゃがみこんで、泣き叫んでいた。母親の頭の中をいっぱいにしていたものは、連れ合いを失い、これから先、どうしたらいいのか、見当もつかない不安であった。姑との折り合いも悪い。若い漁師との間に育ち始めた恋情も思うにまかせない。そのころわたしが目撃した一コマがいまだに網膜に焼きついている。飼っていた子猫が畳の上で粗相をしたとき、母親は鬼の顔になっていた。もつれきった糸をひと太刀に切り落とそうとでもしたのか、猫を片手でひょいとすくいあげると、それを思い切りよく床にたたきつけた。猫は切り裂くような悲鳴をあげた後、ぐったりと横倒しになり、腹のあたりをわずかにヒクヒクさせていた。抑えることのできない激情に身を任すのも母親だったのだろう。後追いする児の泣き声が耳に入らないのもうなずける。縮まらない親子の距離が近所では評判であったという。

わたしは筑波の森の中を歩いていると、先方に白と黒の斑点模様が揺れていた。木もれ陽のいたずらの中に、母親の背中が見え隠れした。ふと、三好達治の句が口をついて出る。

母よ 私の乳母車を押せ

泣きぬれる夕陽に向かって

りんりんと私の乳母車を押せ

母親の丸く老いた背中に溜め息が出る。踏切のあの老婆にうながされるようにして、わたしは母親に呼びかけていた。「もう押さなくてもいいんだよ」。親を慕う気持があったことに安心したのだった。わたしは、いつとはなしに『暮春記』の主人公になっていた。

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