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第13回 独りカーニバル(3)

人影のない部落の中の道を行く。学校に上がる前の幼児も見当たらない。さんさんと降り注ぐ紫外線の下で、乾いた土の道が白く反射していた。そこらに放し飼いにしてあるはずのニワトリも見かけない。静寂そのものである。いつもだと、東シナ海の潮騒がそれとなく崖を這い登ってくるのだが、冬の入り口にしては珍しい凪ぎで、それも聞こえない。遠い昔の、船も通わない孤島の時代の落ち着きをフッと想った。耳に入ってくるものといえば、ガジュマルの大木の枝先でさえずるウグイスぐらいである。島に一年中居着いているから、季節感をかきたててくれるではなし、どこかで、そまつに聞き流していた。

きょうはどこのハマに行こうか。拘束のないひとりタビに出かけて行く気分である。工事中のハエノハマには行きたくないと、だだをこねるような考えが浮かぶと、急に見えない縄で縛られたような、窮屈さを味わった。

きょうは競争相手もいないことだし、部落のすぐ下のマエノハマにしよう。そう決めて、部落の中を東西に貫くゆるい坂道を西に下る。人家が切れる少し手前で、人影が道を横切ったような気がした。近づいて、脇の竹藪に首を突っこんで確かめると、ウンドウジイが道具小屋へ入って行くところだった。わたしは、久しぶりで人に会ったような恋しさを覚え、大声を立てる。

「ジイ、ウンドウジイ!」

ジイは目を丸くして、扉の取っ手を握ったまま振り向く。藪の中の声の主が誰なのか、測りかねているふうである。わたしは、少し先に行ったところから枝道に折れて道具小屋に近づいた。

「ジイ、元気かあ?」

ジイは無言でうなずいた。広い額が、赤銅色に日焼けしていた。禿げあがった頭頂部とは対照をなして、豊かなもみ上げがあごひげと一体になっている。僅かに開いた唇が、白いヒゲの中で鮮やかな朱に染まっていた。

「カイコンなあ?」

ジイは太い首を少しかしがせて、ニコッとした。ワラジに通した二本の足が、粉が吹いたように白い。芋田の手入れでもしていたのだろうか、乾いた泥がポロポロと脛から剥がれ落ちた。はいているズボンは、膝頭の少し下あたりを鎌で断ち切ったのか、裾が段差になって垂れている。股下には別地の布が縫い足してあり、動きを楽にする工夫がこらされていた。

小屋は土手を削って作られていて、入り口に竹で編んだ扉が取り付けてある。半開きの中が見えた。薄暗い奥の方には唐鍬やスコップなどが無造作に投げ入れてあって、ズボンの切り口のおおざっぱさに通じている。丸みのあるウイスキー瓶だけは、大事そうに木の根に引っかけてあった。シマでは焼酎以外を口にする人はいないから、ハマで拾ったのだろう。作業に向かうジイの腰には、これがいつも揺れている。オータの田んぼでひと休みするときは、瓶から水をラッパ飲みしながら、東シナ海の大海原を飽きずに眺めているのが常だった。

人の噂では、これまでに何十枚もの田んぼを独力で開いたと言う。開墾にあけくれるジイだが、この半世紀は誰とも口をきいていない。三〇代後半の平蔵が、以前に一度、大声を上げてテレビの前で笑っているジイを見たことがある、と言っていたが、本当かどうか分からない。ジイの本名を知る人は少ないが、ウンドウジイの名ならば、子どもでも知っている。「うん黙るジイ」が訛ったものである。「押し黙るおじさん」という名をいつの間にか付けられた。

未だに定期船が島々に通っていない大正時代の始めのころ、ジイが二〇になるかならないかのころであるが、泳いでシマを抜け出した。自死を選らんだのではない。晴れた日を選んで、家ではひとつしかない大切な手鏡を褌の下に隠し持っての家出であった。はるか西沖に泳ぎ出て、近ごろ通い出した大阪商船の沖縄航路の船を目がけて、太陽の反射光を浴びせる。船員が不思議な光に気がつき、すぐさま船長に報告する。船長は停船を命じ、船員にロープを投げさせて、東シナ海のただ中を泳いでいた褌一丁の若者を救助した。

若者は大阪まで乗せてもらい、その地にしばらくいたが、その後、東京に移る。東京で何の仕事に就いていたかははっきりしないが、夜学に通っていた。ジイの縁者のひとりが幼いころにローマ字を教わった者がいる。大正の時代であれば、仮名を書けるようになると、「目が開いた」といって、お釈迦様に感謝したぐらいだから、ジイはシマとは桁違いの環境に飛びこんでいったといえる。

東京では大正一二年の関東大震災を経験して、その後、カソリック教会で洗礼を受けた。なぜ信者になったのか。震災直後に目にした朝鮮人虐殺と、祖父の郷里である奄美大島のヤンチュの姿が脳裏に焼きついて離れなかった。藩政時代の支配者である島津の殿様がもうけた階層で、主人の考えひとつで売買が自由に行われていた農奴のヤンチュ(家人)たちの、悲惨な暮らしぶりが耳目に触れる機会があったようだ。

いくらもしないで、風呂敷包みひとつを携えて徒歩で西へ向かった。中には下着の何枚かと、聖書が入っていた。野宿をくり返し、三ヶ月を掛けて鹿児島に戻り、それから先は枕崎のカツオ釣りの漁船に便乗してシマへたどり着く。

帰郷して最初に手がけた仕事は八幡様の焼き討ちであった。雨乞いの泥合戦がオージの田んぼで行われ、ネーシ(女神役)が芭蕉布で仕立てた神装束をまとって、神楽を舞っている最中のことである。田の向こうに拡がる竹藪の中の祠から火の手が上がった。

ジイにとって邪悪な神も、シマでは何よりも神聖であり、ありがたい神である。八幡様が焼け落ちたその夜、ほら貝の音を合図に、総代の家で寄り合いがもたれた。誰もが、シマの神さまに手をかけることなど、考えつかないことであった。何をどうしていいのか、判断の下しようがない。人を裁くことを知らないから、村八分とか所払いというコトバもない。周囲を荒海に囲まれていれば、シマからの追放は死を宣告するのと等しい。「ちっ殺してやる!」とは言えても、「出ていけ!」とは言えない。

それから半世紀、どんなに凪が続いても、ジイは皆とマグンで漁に出ることはなかった。共同作業にも出ない。祭りにも無縁である。狭いシマであるから、同じ人間に一日に何度も出会うことだってある。それを避けるために、ジイは自分だけが通う道を何本か用意した。それでも人と会う。会えば、あいさつの代わりにニコッとするが、コトバをかけ合うことはしなかった。雨であろうが、晴れていようが、黙々と田や畑の開墾に汗を流す。毎日曜日は安息日と決めて、聖書をひもとくのだった。文字を追うことなど、怠けているとしか思わないシマであるが、今ではジイに誰も何ともいわない。行き会えば、「ジイ、元気か?」と声を掛ける。

わたしは、ジイのしたこともすごいと思ったが、それを丸呑みにしているシマもすごいと思った。ジイは誰ともマグンでいないが、ジイに向ける皆の目は温かい。こうなるまでに半世紀が要り用だった。

シマに入りこんで間のないわたしが、工事に出なかったことで、キリキリと胃を痛くしているのが滑稽であった。不必要な大声で、「ジイ、ハマに行って来(く)っでな」と、吐いたとき、何か大きなものに見守られていたいという、すがる気持ちを隠しきれないでいた。

わたしは、専業を持たない心地よさに飽きることがなかったが、一〇余年の後に思わぬ事件が起きた。ナガシ(梅雨)時期で、雨カッパが離せない日々であった。そんな中でも工事は休みなく続けられていた。出働できる者は、よほどの理由がない限り、休まない。かけがえのない現金収入は、日々の生活を安定させ、工事開始六年目に、初めて昼間部の高校進学者がシマから生まれた。最も近い高校は鹿児島市内か、大島の名瀬市内にしかないから、下宿通学をするしかない。その費用を何とか捻出できる日がきたのである。

工事に顔を出さなければ、現場監督も困る。三〇に近い監督は、シマが日々変わっていく手応えに、俸給生活者の枠を超えて若い肉体を惜しみなく動かしていた。限られた人手をうまく手配して、何とか納期に間に合わそうと務めている。だから、日雇いだからといって、人夫に無断で休まれたりすると、工事の段取りに支障をきたすことになる。

孤軍奮闘の感があった監督だが、ひとりの若者が心強い助手として現れた。若者は近ごろ都会から帰ってきて、工事には毎日出てきた。機転は利くし、重機の修理や運転もできる。監督は願ってもない手元を重宝がり、夜の焼酎飲みも若者を連れ歩くほど、公私ともに厚く接した。若者が毎日の通勤に使っている単車の燃料がなくなれば、工事用の燃料が入ったドラム缶にホースを差しこんで、必要なだけの量を抜くようにこっそり指示した。周囲からのやっかみもあったが、それだけの仕事をこなしているので、強く出る者はいない。体力を出し惜しみしない性格だから、皆には好かれていたと言える。
若者は肉牛の飼育をしたくて帰島したのだが、軌道に乗るまでに三年はかかる。監督に常雇い扱いを受けることで、当面の暮らしを立てるめどがついた。一方ならぬ恩義に、「監督のためなら」という想いを強くしていた。

ある雨の日、わたしは、朝、弁当を仕込んでいざ出かけようとしたが、体が気だるく、どうしても出口の敷居を跨ぐことができなかった。工事仕事の内容は大工まがいの仕事であったり、ときには、左官屋のまねごと、ときには鉄筋屋だったりで、興味が尽きなかったが、部落共同作業と変わらない顔ぶれに、いささか疲れを覚えていた。

座敷でごろごろしながら本を開いていたら、突如若者が包丁を握ってわが家に怒鳴り込んできた。わたしは、蛮声を上げて入り口の戸を開けた若者に、瞬間、何を言われているのかも分からないまま後ずさりした。しばらくは無言の対峙が続いたのだが、妙なことに、少しも恐怖心が襲ってこなかった。どす黒い怒りが瞳の奥に隠されているものと思っていたのに、虚ろな眼差しがあらぬ方角に投げられていた。刃物を握る手がいつの間にか、だらりと下に垂れている。

監督が困惑している姿を目にして、直情が包丁を握らせたのだろう。「工事に出て来い」という督促をわたしにしたのは、いつわりではなかったが、自分のしたことが内に向かい、尻つぼみになってしまった。

若者のとった行動は、誰かがいつかはすることだった。溜まっていたマグマが噴出するように、シマの総意が爆発したのだ。「出て来ないなら、イッポウシゴトを持て」という指示が含まれていたかも知れない。そういう想いが巡ると、わたしの小心はたちまち頭をもたげた。包丁は怖くはなかったが、シマの総意に心臓をドキドキさせた。皆を敵に回したようで、身を縮めた。

救いを求めるようにして、ウンドウジイがすぐに頭に浮かんだ。ジイはどういう方法で四面楚歌の中をくぐり抜けたのだろうか。八幡様焼き討ちの後、すぐさまカイコンに明け暮れる日々を目指したとも思えない。シマの声を耳にする前に、天の声が先に下りてきたはずだから、受け入れることのできないシマの神々へ、今後どう向かえばいいのか、そのことで頭がいっぱいになったはずだ。自分の道を探すのは、それから後のことになる。天の声にも無縁なわたしの参考にはなりそうにない。

時間を置いて思い返してみると、どうも、シマの皆が敵ではなかったようだ。若者が都会暮らしの中で神経をいささかすり減らしていたことも分かった。わたしは、あの一件に立ち会ったことが、自分の居場所をはっきりさせるためには、都合が良かったとすら思うようになった。

それからいくらもしないで、わたしは、妻子をシマに遺して、熊本の人吉盆地に竹細工の修業に出た。シマのいたるところに自生している琉球寒山竹を加工して、換金するもくろみがあった。

腕が上がっていくと、さらなる磨きを求めるものである。四六時中、竹細工をやっていたければ、シマには戻れない。そこには、祝い事があり、共同作業があり、家作りのカセイ(加勢)がある。頼まれれば何の仕事でも引き受けるのが、若い層の義務である。イッポウシゴトが成り立つ地でなら、金を出して専門の職人に頼めるが、シマはそうした環境にない。

年寄りがひとりで暮らしていけるのも、カセイがいつでも頼めるからだった。魚は手にはいるし、家の修理はおろか、新築も可能である。カセイのお返しは、永年シマで暮らしてきたという実績だけでいい。若いときから、カセイに明け暮れてきたのだから、年金暮らしをしているに等しい。「カセイしてくれんか?」の声に、「イニャ(否)」の応えはない。若者は自分の暮らしを後回しにしてでもはせ参じる。親の「カセイに行かんじょって(行かなくてどうする)!」の後押しも力にはなっているが、何よりも、子どものころからカセイがどういうものかを見て育っている。自分も、自分の親も、周囲のカセイがあって暮らしてこられたのである。カセイにすぐさま応じる構えがないのなら、シマでは暮らせない。

年月をかけて定められたシマの秩序はビクともしない。それに挑む資格など、わたしにはない。わたしは、独り相撲に近い葛藤を、カゴ編みの修業をしながらくり返していた。いつの間にか、妻子を本土に呼び寄せることが自明のことのように思えてきた。

竹の師匠の元から離れて独り立ちした地は北関東の山村であったが、ほどなく、房総半島の南端の地に移り住んだ。カゴ屋と呼ばれるイッポウシゴトに携わってはいたが、身の回りのものを自分の手で作る快感が忘れられずに、武熊アニの教えを地で行った。

移住して間もないころ、近所の古い農家が建て替えるというので、わたしは解体の手伝いを頼まれた。茅葺き屋根であるから、まずは萱を屋根からむしり取る。次には、その下地に敷き並べてある竹を解く、そして、最後に梁や柱といった材をばらす。家のすべてが廃棄物であるから、近くの空き地に運んで燃す。農家の造りは大きく、燃え尽くすのに一週間かかる。

イロリやカマドから立ちのぼる煤がどの建材にも付着しているから、材を放り投げるたびに煤が舞い上がり、作業をする者の誰もが、瞳の周囲の白さを残して、顔は墨を塗ったのと等しい。誰が誰だか分からない真っ黒な面相を互いに笑う。

わたしは、仕事の合間に煤で汚れた軍手で竹の表面をこすってみた。煤の下からは艶やかな飴色の肌がのぞいていた。カマドが据えてある土間の真上の竹は、油煙を吸い易いから、飴色を越して黒紫色を帯びていた。百年でも二百年でも屋根に乗っていた竹だから、炭化が進んだ竹の表皮が宝石の輝きを見せている。

わたしは、「捨ておけぬ」と直感し、何本かを焼却を待つゴミの山から引き抜いて家に持ち帰った。いつか、何かに使ってみようという下心はあったが、具体的にどうししょうという案はその場では浮かばなかった。高度成長期でもあり、家の建て替えが激しく、それ以降も近隣の茅葺き屋根の解体の手伝いは続いた。そのたびに、宝物を燃している心苦しさにさいなまれる。知らず知らずのうちに煤竹に手を出し、持ち帰る竹でわが家の軒下は、出入りにも支障をきたすほど、埋め尽くされた。

煤竹といわず、煤そのものも捨てられなかった。百年以上も降り積もった煤が天井板の上に厚い層を成して、何枚もの薄綿を重ねてできた布団のように、フワッと乗っている。この世にふたつとない宝物をのぞいてしまったのだから、見過ごすわけにいかなかった。ちょうど、流れにもまれた石や流木が、贅肉をこそげ落とした安定感があるように、この煤にもにたような魅力を感じた。これを素材にして何かを作れないだろうかとも考えた。ハマで拾ったタマネギが蘇ってきた。

材木や鉄、あるいは、古い和紙や布も、「捨ておけぬ」という判断が下されると、家に持ち帰ることになった。訪ねて来た人がそれらの品を目にして、「欲しい」といえば、惜しげもなくあげた。投棄を免れれば気持ちは充たされるのだった。

軒下が満杯になると、納屋も利用した。材木は古トタンを被せて庭に置いた。持ち帰り品が積み上がっていくのを、離れたところから見ていた連れ合いが、「いいかげんにしなさい」と、突き放した声を上げる。家屋敷全部がゴミに埋まってしまうとでも思っているようだ。

そんな日常の中で、ひとりの女の姿から眼を離せなくなった。わたしはその人と会話をしたことがないのだが、近くの街へ買いものに出かけるたびに行き合う。街といっても、漁村の中の商店街で、端から端までの一キロの間に商店が何十軒か並んでいる規模に過ぎない。海岸線に沿って走っている国道が街を貫いている。バイパスがあるでもなく、狭い道を車が切りもなく行き交う。歩行者はそのつど商店の軒下に身をかわして車をやり過ごす。

そんな街中を、年齢がはっきりしない女が一輪車を押して歩いている。直径が三〇センチほどのタイヤがひとつ取り付けてあり、その上に六〇センチ四方の荷台が乗っている。取っ手が後ろに付いていて、両腕でバランスを取りながら、前方に押しながら走らせる。工事現場で土砂を運ぶときに使われるのと同じ型の車である。

女の後ろからは、決まって老婆が付いている。小柄で、腰を折って、ほとんど地面をにらめっこする格好で歩いている。腕を後ろに振ると、真っ直ぐに天に向かってしまう。歩幅が大きくとれないから、ふたりの間隔は広がるばかりである。並んで歩いているのを見たことがない。五十メートル近く離れることもあるが、それでもひたむきに後を追う。

女は、商店のひとつひとつに立ち寄り、店主が通りに出したゴミの袋を勝手に開いて、中からアルミ缶だけを選り出して別のビニール袋に詰め替える。それを止める店主もいな代わりに、声を掛ける者もいない。

袋の中は紙も入っていれば、衣類や生ゴミも混ざっている。分別収集という集め方が、どこか遠くの街で始まったと聞いたが、この漁村では、袋の種類はひとつだけである。缶が多ければ詰め替えに時間をとるから、後から追いついた老婆が手伝うこともあるが、大方はひとりでやっている。雨の日も、かんかん照りの日も、欠かさずに集めて回る。集めた缶は仕切り屋に持ちこまれ、一キロあたり何十円かの金に換わる。

女は、ときおり服を替える。小中学生が体操の時間に着るアクリル製の上下服があるが、そんな服を四〇歳を過ぎたと思えるその人が着ていると、ドキッとする。かわいらしい服の上に、むくんだような丸い顔が乗り、頬は垢焼けして黒く照り反っている。組み合わせを間違えた着せ替え人形が歩いているようだ。

そうかと思うと、次の日には、真っ赤なロングスカートに黄色い毛糸の帽子を被り、足にはヒールの打ってある黒のビニール靴を履いていたりする。首を大きく振って歩くから、そのたびに、左右の肩が上下する。一輪車もかしぐのだが、荷をこぼすようなことはない。遠目には、派手な色で全身を着飾った踊子が行くようだ。踊り子はひとつの店先での詰め替えが終わると、こんどは道の反対側へ渡る。漁村の風景は色の変化に乏しいから、独りカーニバルがひと筋の街をジグザグに渡って行くようだ。

派手さが目立つよになったのは、後追いしていた老婆の姿が消えてからだった。きっと亡くなったのだろう。わたしはふたりが親子かと思っていたが、いつも立ち寄る八百屋の主人が言うには、「あれで、赤の他人同士なんだっぺから・・・・・・」と教えてくれた。毎日、目にする光景であっても、自分にはかかわりがない、というもの言いに終始していた。

身に着けているものは、ゴミ袋の中から選りだしたものである。老婆の面倒を看なくてすむようになってからは、その女なりのおしゃれの時間が多くなったようだ。鏡の前で色合わせするでもなく、日替わりで贅沢に色直しをしている。

その人がどこでどんな暮らしを立てているのかは分からない。、一度だけ、川が海に流れ込む洲の上で用足しをしているのを見たことがある。頬の黒さが嘘のような、ムッチリとした白い尻をむき出しにしてしゃがんでいた。近くに架かる橋のたもとに小屋掛けしているのかも知れない。

この人と行き逢うと、わたしは決まって水や風や土を思い出す。浄化する力に嫉妬しているのかも知れない。古いしきたりの街の人がその女をどう見ているのか、むごい空気が流れているのではないかと、わたしはハラハラするばかりである。

わたしは、「じゃあ」と、乾いた声をゴロベエに遺して運転席に収まった。荷台には四寸の角材が二本積まれていた。二転三転の醜さをさらけ出した後、結局は、分けて貰うことにした。高価な材を新たに挽いてもらうよりも、手近にある材を使いこなそうという場当たりな気持ちが先になった。客の気持ちに背いたことをしたのだったら、二度と同じ人からの注文はないだろう。あれこれ考えていると、意識がバラバラに引き裂かれそうになる。

竹覆いひとつも専らの仕事にできないことが、絶望に繋がらないのが不思議である。シマを離れた時点で、何でも屋を放棄したはずなのに、シマでの些細をきのうのことのように思い出しては、そこに避けては通れない道筋があるようで、反芻を止めようとしない。

ゴロベエ夫婦がわたしを見送っている姿がバックミラーに映ると、疲労がドッと全身に回った。

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