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野娘幻想(2)

繁則のパンツを借りて第二・十島丸の客となったのは正午過ぎであった。船室でゆっくりする前に、甲板に出て潮風に当たりながら、弁当を広げる。勝巳のウッカタ(家内)が仕込んでくれた弁当は、お握りが三つとタクワンの数切れが入っていた。それとは別の包みには、わたしの好物のヤマイモの天ぶらが添えてある。

食べ終わるとすぐに平島に着いた。沖に投錨した本船に近づいてきたハシケ舟には、男たちがぎっしり乗っている。この島は臥蛇島の半分の広さもないが、百人をはるかい超える人間を抱えている。それでも、近ごろは若手が締め機織りの職人として鹿児島市へ次々と引き揚げて行くとかで、二十代の男は見当たらない。三十代、四十代の男たちで占められていた。厚手のタオル地を額に巻いた男たちがいっせいに上甲板を見上げる。人なつっこそうな目は、誰か知っている人がいなかと捜している。舷門に横付けされたハシケから、男たちが本船になだれ込んだ。本船の甲板員たちがオモテ(舳先)の方でハッチを開けて、荷役作業の開始を待っているが、島の男は誰もハシケに戻ろうとしない。男たちは船の売店の前にたむろして、通りすがる乗船客をつかまえてはお喋りをする。たわいもない島々の噂話に終始しているのだが、その弾んだ声は、新鮮な外気を吸っている喜びを噛みしめているふうだった。オモテでは繁則が体を船腹から乗り出して、「早ようハシケをオモテに回せ!」と、青筋を立てて怒鳴る。

「ナオやないか! さ、ハマに上がるど。茶もしこう(仕込ん)じょったろう」

ひとりの男にわたしは呼び止められた。荷役作業には数時間かかるから、その間、船着き場で茶でも一緒に飲もう、という誘いである。

ハマには大勢の女や子ども、それに引退気分で作業を見物している年寄りたちが腰を落としていた。わたしは以前にこの島を訪ねたことがあるので、顔見知りが多い。ひとりの女が声を張り上げた。

「臥蛇からなあ? みんな元気にしちょったか?」

個々の消息を聞かれたわけではないから、わたしも束にして答える。

「みんな元気やろう」

揚げ荷が多かったので、ハシケが沖と船着き場との間を五回通った。その間に、西の空がアカネ色に染まった。わたしは、最後のハシケ便で本船に戻った。「また遊びに来(け)えよ! 宿の心配は無かでなあ」の声が背後から飛んできた。

次の諏訪之瀬島では夕闇の中で通船作業が始まった。一回目の通船がハマに戻ると、甲板員はすることがない。これより先の島に行く客の何人かと一緒に、舷門から島を眺めていた。しだいに闇に染まっていく岩肌が、昼間とは違った島に貌を変える。

「あの先の瀬にゃあ、伊勢エビがゾーゾーしちょったなあ」

船員のひとりが、以前にエビ突きをしたときのことを話す。十島丸は低気圧が近づいてくると、この島の裏影に避難することがある。島が大きく、山が高いので、風波の影になって凪いだ浦ができるからだった。村内ではここと中之島だけに避難できる浦がある。そんなときの若い船員の楽しみは、本船の伝馬船を海に降ろして、島の磯に渡り、素潜りで海の幸をモリで突くことだった。

突然に、舷門の真下に白いものが漂い寄ってきた。居合わせた者たちが怪訝な顔をする。船室から漏れる明かりが届く海域に、人間の頭がぽかり浮かんでいる。白い風呂敷包みのようなものが、ほうかむりした恰好で、頭部にくくりつけられている。中味が濡れないように、立ち泳ぎをしながら、若者が「手を貸してくれ!」と、海の中から叫んだ。男が船に引き揚げらつれると、フンドシを締めたずぶ濡れの体が黒く輝いていた。

若者は島の元総代の息子であった。「かくまってくれ」と、逞しい体に不似合いなか細い声で訴える。何が起こったのか分からず、皆は若者を遠巻きにしていた。
いくらも経たないで、ハマからハシケ舟が戻ってきた。梶棒を握っていた元総代が、血相を変えて本船に乗り移った。息子を引きずるようにしてハシケに戻すと、舵から舵棒を抜いて、それを息子の頭上に振り上げる。

「こんわろは(この悪いヤツは)……」

憎さの余った声を浴びせる。棒が肉に食いこむ鈍い音が舷門にも届いた。若者は両腕に殴打を受けながら、無言でこらえている。周囲の者は眼孔を開いたまま、喉をカラカラにして見守っていた。

若者は元総代が再婚した相手の連れ子であった。義父はこの継子にひときわ厳しくあたっていた。島の中学を卒業した子は都会に出ていくのがあたりまえになっている中で、この子だけは島で牛飼いの手伝いをさせられていた。中学を卒業して十年近くなるが、島を出ることをいまだに諦めていない。義父に無断で家出を計画したのだった。上り便でも下り便でもよかった。下りならば名瀬に出られるし、上りならば鹿児島市へ出られる。闇の中に入港する便を待ち続けていた。

最後のハシケ作業は十島丸のサーチライトの下で行われね。小舟が岸に戻るときには、投光器が船着き場近くの海面を照らしていた。海を隔てた百メートルほどの間に棒のような光が渡される。本船は、ハシケがハマに陸揚げされたのを確認してから、出航の汽笛を鳴らした。

船は時化だした海を南に走り、一時間後に悪石島に着いた。通船作業が始まったのは夜の九時を回っていた。ライトに照らし出された男たちの顔はどれもが赤い。ダレヤメ(晩酌)の途中でハマに下りて来たのだった。ひと船が通った後、波が急に高くなったので船長は、夜間の作業は危険であると判断した。荷揚げ作業は上り便の寄港時にすることにした。十島丸は奄美大島の名瀬港を折り返して、下り便が辿った同じコースを、こんどは反対に辿って鹿児島まで北上することになっている。

数人の降船客と郵便物、それと、学校用の連絡袋だけが降ろされて、船は出港の汽笛を鳴らした。ハシケの上で舵棒を握る若者が大声を上げた。「女連中が、運動会の弁当に仕込むオカズが無か、て、やかましう言うで、ひと舟だけ食糧雑貨を降ろさんか!」

本船は錨を巻き上げるのを中途で止めた。船員たちが、こんな小さい島の青年団の言うことを素直に聞いたのは、七人か八人いる甲板員のほとんどが悪石島の出身者だったからである。自分の弟や妹、姪や甥たちが通う学校の運動会では、応援に来た家族と一緒に開く昼の弁当がどんなに楽しみであるか、船員たちは知っている。

次の小宝島に着いたのは夜中の十二時を回っていた。船着き場はキタゴチ(東北)の方角に向いているので、折から吹いていた北風をまとも受けて、なかなかハシケ舟が沖に出せないでいる。ミナトでは何本もの懐中電灯の光線が交叉していた。男たちが必死に動き回っているようだ。

普段の便であれば、こんなときは通過してしまう。夜間でもあるし、しかも小さな島はたいして用もないだろうと、船の方が勝手に判断するのが例になっている。口之島、中之島、それと宝島は大きい島であり、荷役量も多い。他は格下の島と見られている。今回は小宝島に降船客がいたので、通過できない。

大阪で美容師見習いをしている島出身の娘が、法事に間に合うように帰ってきたのだった。事務長がトランシーバーの電源を入れて島と交信する。島からの応答は、「波が高こうして、ハシケを出せんが、いっとき待ってくいやい(待ってほしい)。凪ぎを見て、何とか沖に通わすで(通わすから)」で、淡々としたもの言いには自信のようなものがうかがえた。事務長が感情を消した声で応答する。

「了解、了解、本船はこれからミナト沖で待機します」

娘はトランシーバーを借りて、父親と交信する。ガーガーという雑音の中から父親の息遣いをくみ取ると、「お父さん、待ってるよ」と、快活に話しかける。時間が解決してくれることを確信していた。

小一時間が過ぎてもハシケは沖に通ってこない。船上では誰もが根気よく、ハシケの来るのを待っている。新月の下では星明かりが鮮やかである。風波にもてあそばれて船が上下動をくり返すたびに、周囲の潮がかき回される。夜光虫が明るい翠を発光させていた。娘は若い船員とたわいのない話に笑い転げていた。胸の内には別のものをしまい込んでいるのか、笑いの合間にミナトに遣る目は真剣だった。
本船は先を急いではいない。次は宝島であるが、この島は夜が明けてからでなければ青年団がハマに下りて来ないから、ひと晩をこの島の沖で過ごしてもかまわないのだった。

さらに時間が経過した。スイッチを入れっばなしにしてあるトランシーバーから男の声が流れてきた。

「ダメじや、波がとれんなあ」

未練の尾を引いた声である。事務長がそれに応える。

「はい、了解しました。本船はこれから宝島へ向けて出航します」。

机上に重ねられた書類に検印を押すような、淡々と事務処理を進める声が甲板に流れると、あれほど気丈に交信していた娘が、つっかえ棒を取りはずされたように、その場で膝を折り、泣き崩れてしまった。無念の背中に周囲の者が注視する。長い休暇を雇い主からもらうのに負い目を味わい、交通費と島の全戸に配るみやげ代に貯金をはたいたことの結末が、島影を沖から眺めて通過するだけだった。

十島丸が宝島のミナト沖に回航されたのが朝の六時少し前であった。それまでは風下にあたる島裏で仮泊していた。鹿児島港を出たのが二日前の夜九時であったから、三十三時間が経っている。中之島を出てからだと二十時間である。

陽が昇る前の大空が水平線から水平線へとひろがっていた。昨夜の波はとれて、べた凪の海はどこまでも碧い。東の空が鉛色からしだいに朱を増していく。いくらも経たないうちに真っ赤な朝焼けが天空を覆う。あるかないかの横揺れに身をまかせて、北の方角をうかがうと、村内の島々が飛び石のように並んで見える。高度の低い平島の影は水平線とひとつになっていた。島々の上空には、判で押したように小さな丸い雲が、冠を頂いたように浮かんでいる。諏訪之瀬島のわずかに西寄りに浮かんでいる冠が、おそらく平島の上空なのであろう。最北の口之島までは緯度では一度の違いがあるから、距離になおすと二百キロメートルはある。その間が手に取るようだ。さらに北には、かすかに屋久島の岳が見えた。陽が射し出すと、海原から黒みが消え、碧が膨れていく。どこまでが海でどこまでが空なのか分からない。

ハシケはなかなかやって来なかった。その内に、ギラギラとした陽が上り、早くも汗ばんでくる。島全体から、ジーツという、調べともいえない地鳴りに似た響きが、静かな海面を這って船に届く。蝉しぐれであった。十月になれば臥蛇島では、朝晩は毛布でも掛けないと寒くて寝られないのだが、百キロ南にあるこの島は夏のただ中にあった。島のハシケ舟がディーゼルエンジンを全開にして、サンゴ礁の割れ目から沖に走り出して来るまでには小一時間待たなければならなかった。

船尾に「宝青丸」と大書されたハシケ舟は、臥蛇島の青海丸の数倍の大きさがある。ドボドボというエンジンの排気音は、聞く者の臓腑をゆさぶるような底力がある。
ハシケ舟には若者が七、八人乗り組んでいた。二十代と思われる男たちばかりである。太い鉢巻きを絞めた出で立ちだけは他島と変わらない。船着き場の方を遠望すると、人のかたまりが黒々としている。

舷門に横付けされたハシケに客が次々に飛び降りる。そのたびに船底の厚板がドスンと鳴る。臥蛇島の青海丸だと、ひとりが飛び移るだけでも舟は横揺れを激しくするが、ここのはビクともしない。

若者が客の腕を取って、ハシケに乗り移らせる。客の履物は平底の靴かサンダルがほとんどだが、若い娘のひとりはヒールの付いた靴を履いていた。舷門で飛び降りるのを躊躇している娘に、若者のひとりが、「ほら!」と、ぶっきらぼうを装って腕を差し出した。娘は「キャアー」と明るい叫び声を上げる。

幼児は、若者が手渡しで受け取り、それを次々に渡して、母親の元に届ける。老女もいて、船腹をこすりながら上下に揺れるハシケになかなか飛び移れない。体を硬直させて舷門にしがみついていた。若者がハシケの上下動を見はからいながら、素早く老女の脇の下あたりに両腕を差しこんで、全身を吊り上げるようにしてハシケに移した。老女も「ハ、ハ、ハ」と乾いた笑い声を立てた。

客と手荷物でいっぱいになったハシケが岸に向かう。舵棒を握る青年団長と思われる若者が、振り返りざま甲板員に叫んだ、「牛を五頭積むでなあ」。これは頼みごとではなくて、指示であった。次の寄港地である名瀬港に肉牛を出荷するらしい。

サンゴの棚にマイトをしかけて掘削した、細長い水路が奥に延びている。入るほどに水深が浅くなる。舟はエンジンを止めて、舵を海中から引き揚げると、舳先に立っていた若者が竹竿を海中に差して、ゆっくり舟を進める。凸凹のあるサンゴ礁の上にコンクリートを流して平にしただけの船着き場は人で溢れていた。

水路を挟んだ反対側のサンゴ礁の上にも人がいる。彩り鮮やかなミニスカートを膨らませた娘たちが十人前後かたまっていた。娘たちは荷役を手伝うふうでもない。若々しい嬌声を飛ばして、ハシケの上の若者をからかう。若者はコトバではかなわないと諦めてか、苦笑いしながら荷役作業を続けていた。娘たちはさらに大口を開けて若者を相手にしていた。

こんな風景は他のどの島でも見かけたことがない。臥蛇島には中学三年生の女の子はいても、卒業すると全員が島外に出てしまう。ここは島に残るのだろうか。化粧をした顔立ちはあか抜けている。わたしは見慣れない風景に圧倒されていた。隣りにいた五十恰好の男がわたしに耳打ちする。

「ニシたちは中学三年生やろう。春になって、島を出て行くとなれば、淋しかもんよ」

自分の娘もあの一団の中に入っていると言う。村内ではこの島だけがテレビの電波をキャッチできる。名瀬市からの電波をとらえている。それと、名瀬市に出る機会が多いから、女の子たちはそこで化粧の仕方をおぼえ、スカートの着こなしを身につけるのだろう。遠目にはいっばしの娘に見える。

名瀬は奄美大島群島の主邑であり、五万人近い人間がいて、県内では三番目か四番目の大きさの街である。大島紬景気がいっそう人を引き寄せている。港には一日に何便となく大型客船が出入りしている。沖縄からも、大阪や神戸からも直行便がやってくる。鹿児島市からは毎日入港する。飛行機も鹿児島や沖縄から飛んでくる。市内には何軒ものパチンコ屋があり、映画館もある。日刊紙が二紙あるくらいだから、島独自の出版活動も盛んである。

測量斑は宝島に三日滞在してから、横当島に渡った。海上保安庁の船が一行七人を運んでくれた。幸一とわたしが最年少であり、もろもろの雑用を受け持った。技官たちの助手として、資材を担いだり、指示された地点に立って測量棒を握ったりする。夕方近くになると、幸一とわたしは皆よりも早めにキャンプ地に戻って、天幕の脇で夕食を準備した。

五百メートルの高度のある島は活火山の島だった。あたりは溶岩流の跡も生々しい。細長い円筒形の火山弾も転がっていた。ふたりの最初の仕事はかまどを据える石を捜すことだった。
目の前に直系三メートルほどの丸い平坦地ができていた。周囲を石が仕切ってあり、花壇のようになっている。中心部には三十センチほどの細長い石が、間隔を置いて三つ立ててある。石の面には表と裏があるのか、より平に削りとられた方をこちら側に向けて並べてある。

「墓石かも知れん」

わたしが先になって、円形の地に足を入れた。平坦地の後ろには赤さびが入ったトーガ(唐鍬)が一丁横たわっていた。通りすがりの船が転覆でもして遭難者が出たのだろうか。あるいは、この付近で素潜り漁をしていた漁師が事故に遭ったのだろうか。立ててある石の新しさから推して、その昔にここを拠点に暴れ回っていた海賊のものではなさそうだ。わたしは、物珍しさで周囲を歩きまわる。幸一が尖った声でわたしを制した。

「墓の上を歩き回るもんじやなかど」

古老が若者を諭しているもの言いであった。石の下には仏が眠っているかも知れない、そんな仏を足で踏みつける無礼を幸一は心配していた。幸一はポケットからタバコの一箱を取り出し、その中から三本を抜いて、各々の墓の前に供える。供えながらで、軽く手を合わせ、瞑目した。

測量は七日間で終わり、海上保安庁の船が迎えにやって来て、一行を名瀬の港まで送り届けてくれた。国土地理院の五人は鹿児島直行の定期船で北上したが、幸一とわたしは十島丸の上り便を待って名瀬に留まった。地元紙の「入り船出船」欄を見ると、三日後に入港するとある。

「三日の間、どこに宿するか?」

幸一がわたしに相談をもちかけたとき、フッと浮かんだのは、中之島のひとりのジイの娘の家であった。ふたりは稼いだ金の目減りを心配して、旅館に泊まることは避けたいと願っていた。わたしはジイから預かっていたものがあったので、それを届けかたがた、宿の提供を受けようと思いついた。録音テープである。蛇皮線弾きの名手であるジイが奏でた大島節が録音されている。それを娘に届けてほしいと、頼まれていた。娘は名瀬市の西のはずれに嫁いでいた。

市街地を十分も行くと舗装は切れて、砂利道に変わる。峠越えの道を西に向かう。灼熱の陽光を全身に浴びながら坂道を上り始めると、汗が噴き出してきた。時折、脇を車が追い越していく。砂煙が舞い、肌に吸いついた。

しばらく行くと、道脇の松が枝を長く横に張り出していて、灼熱地獄からふたりを解放してくれた。さらに上ると屠殺場があった。豚小屋を大きくした構えの木造小屋である。わたしひとりが道からそれて、中を覗いてみる。誰もいない小屋の天井からはカギが吊されている。皮を剥がされた豚が丸ごとそれに引っかけてある。

異臭は漂っていなかったが、小屋の周辺に放り出されているバケツやシャベルからは、乱雑さを超えた投げやりなものが感じ取れた。順番待ちの豚が何頭かいて、おとなしく隅の方に固まっていた。幸一は気乗りしないのか、道脇に腰を落として、わたしが戻ってくるのを待っていた。

「魚(イヲ)は噛む(食べる)が、肉は噛まん」

と吐き捨てるように言う。見るのも嫌だと言いたげである。わたしはすぐさま島の年寄りのことばを思い出した。「四つ足は噛まんもんやっど(食べないものなんだよ)」。その年寄りが強調したかったのは、明治の終わりに奄美大島からの移住者が島に入ってきたのだが、その人が牛を持ちこんだ、その牛が、島民が神さまと祀っていた神石の上に糞をしたのである。移住者はその糞を拾い歩く屈辱を舐めさせられ、一方の在来島民は穢れた神石を清める儀を行わなければならなかった。幸一は後の世の人だし、大島人への怒りは微塵もないのだが、「肉は噛まん」と、強く言い切った。実は、幸一は肉料理が大好きなのである。記憶の伝達だけが幸一を縛っているのだった。

百メートルの高度があるかないかの峠を越えると、朝仁という部落に降り立った。そこからは海岸線に沿う平坦道を行く。小一時間で目的地の小宿という集落に着いた。あいにく家には誰もいなかった。幸一はあっさりしたもので、家人の帰宅を待とうとも言わず、テープだけを玄関先に置いて市内に戻ろうと言う。わたしとしては、せっかくここまで来たのだから、もう少し待って、あわよくば宿賃を浮かそうではないか、と誘うのだが、幸一はガンとして聞かない。

幸一は都会生活の経験を生々しく引きずっていた。手持ちの金があるうちは、見も知らない人の世話になるのはおっくうだと言う。中学を出てから東京にすぐ出た。その地に十年いたが、どうしても牛飼いがしたくて、近ごろ帰省したばかりである。

わたしは、島暮らしになじんでいく中で、人との交渉の煩わしさよりも先に、現金を使わない工夫を心がけた。他島に出向いても、一宿一飯の恩義を、その家の仕事の手伝いで返そうとした。

市内に戻ったふたりだが、することがない。堤防に腰を掛け、足をぶらつかせながら、漫然と沖を眺めていた。

「いけんすっか(どうするか)?」

幸一が呼吸をするような気楽さで吐く。眼前の海は入り江になっていて、湖面のような静けさに包まれていた。五万都市の喧噪さが聞こえてこないのが不思議であった。沖にポッンと吃立している立神石が、臥蛇島の西に浮かぶコバ立神を思い出させた。

「いけんすっか?」

オウム返しのわたしのコトバにも切迫したものがない。いざとなれば人夫賃をはたけばいい、という気持ちがすでに幅を利かせ始めていた。

夕方の赤焼けの空が広がるころ、高校生らしい男の子が近づいてきて、並んで座る。幸一のほうを向いて親しげに話しかける。

「兄さんはどこに住んでるの?」

「十島村て言うても、分かるやろうか?」

「分からない」

きれいな普通語であった。大島のコトバの抑揚が少しも入っていない。その子は徳之島出身で、名瀬市内の高校に通っている。親元を離れて下宿生活をしているのだった。大島郡内で、少しでも上級学校の受験に条件の良い学校となれば、名瀬市内の高校に限る。それで、他の島からの下宿生も市内には多い。同級生には沖永良部島の子もいるとのことだった。

「兄さん、どこの高校を出たの?」

ごく自然な声で質した。            

「オイは島の中学しか出とらん」

幸一の声は平坦であった。声には強がりもなく、萎縮したところもなかった。三日目の朝、十島丸の荷扱いを引き受けている会社を訪ねた。木造平屋建ての小さな事務所が港のすぐ近くにあった。詰めているのはひとりだけという小規模な構えである。

「十島丸の乗船切符を買いに来たんやけど……」

「ああ、十島なら宝島で折り返したよ」

そっけない応対であった。明治百年を祝う記念事業が中之島で行われるので、各島からの参加者を乗せて同島に向い、その後は鹿児島に上るそうだ。そうなると、名瀬に戻って来るのは一週間後になる。海上がシケれば、さらに何日か遅れるだろう。いっそうのこと直行便で鹿児島に出て、そこで下り十島丸を待ったほうが確実だし、早くもある。

三日間の旅館暮らしは、サイフの底を空にした。直行便に乗る金もない。

「幸一、いけんすっか(どうすっか)?」

借金を申し出る相手はこの名瀬にはいない。日雇い人夫に出て船賃を稼ぐことも考えたが、気が重い。港の周辺をぶらぶらしていると、幸一が、短く、「アッ」と叫ぶ。

「岩雄アニの乗っとる船や」

いつも十島丸が舫(もや)る岸壁に、見慣れない貨物船が留まっている。幸一はその船を顎でしやくった。船首には「警山丸」とあった。船長が小宝島の出身者で、幸一の遠い親戚筋の人だった。その船は十島丸ほどの大きさがあり、鹿児島と名瀬とを往復している。鹿児島にさえ出れば、借金を頼める相手がいる。ふたりはなけなしの金をはたいてウイスキーのひと壜を買い、それを手みやげにして便乗させてもらった。

十島丸は、記念事業で中之島に集まった人たちを、次の日には逆に各島に送り届けなけらならなかった。鹿児島港に向かったのはその後である。だからわれわれの方が先に鹿児島に着いた。
その下り便でふたりは島へ向かった。口之島と、次の中之島までは平常のダイヤで航行したが、その直後から海はシケだした。大型台風が接近しているという。島々のハシケが沖掛かりの本船に通える海ではない。わたしが上陸したかった臥蛇島は通過してしまった。

次のふたつの島にも寄港できず、悪石島に直行した。ここで降りないと、再び名瀬に行くことになる。わたしは急きょ悪石島で降りて、上り便を待つことにした。
幸一は乗り続けて、名瀬に出たが、船は大型台風を避けるために、さらに南の古仁屋港に行って避難した。台風の通過を待って宝島にたどり着いたのは、横当島を出てから二週間目であった。同じ上り便でわたしも臥蛇島に戻ることができた。

わたしは四十年前のできごとを昨日のことのように思い出しながら、フェリーとしまのタラップに足をかける。どの島もハシケに乗り移る必要はなくなった。

「オイ(俺)の分も線香上げて来てくれ」

繁則が後押しするように、わたしの背中に声を掛ける。わたしは、「よう」とだけ応えて降りた。

わたしの両足は岸に降り立ったのだが、気持ちはまだどことも分からずにさ迷っていた。岸壁には降船客の姿はすでになかった。軽自動車が十台ほど行儀良く並んでいたので、そのどれかに吸いこまれていったものと思える。この豪雨の中で動いているのは本船のモヤイ綱を取る数人の男だけである。皆は雨合羽を羽織り、目深に被った雨よけ帽子が、外界との接触を拒否しているみたいだ。わたしの方に誰かが寄って来る気配もなければ、こちらから声を掛ける手だてもない。気だるい憂鬱だけが漂っていた。

わたしの履いている運動靴は水溜まりの中にどっぷり浸かっていた。頭部から落ちてくる水滴が、いく筋かの流れとなって首を這う。それが無駄なく合流して背中に落ちこみ、シャツを体に張りつかせた。電話であれだけ頼んでおいたのに、貞夫が出迎えに来ているふうでもない。幸一の実兄である。歓迎されていなのだろうか、と不安になる。車の一台一台を探して回れば、もしかしたら貞夫を見つけ出すこともできるのかもしれないが、濡れ衣の体を動かす気になれない。車の背後に立ち上がっている防波堤がやたらとくすんで見えた。

わたしは、手荷物を濡らしたくなかったので、誰かの車に入れさせてもらおうとした。目の前のワゴン車の後部のドアーが開いていて、リュックを負ったひとりの男が乗ろうとしている。ドア一には「民宿・みずほ荘」と横書きしてある。わたしは頭を室内に突っこんで、運転席に座ったままで首だけ後ろに回している男に聞いてみた。

「貞夫は港に来とらんやろうか?」

「隣の車がそうじやがねえ」

表情を変えず、顎をしやくって教えてくれた。四十前後の坊主頭の男だった。見慣れない顔だが誰の子どもだろうか、と詮索してみるが、思い当たらない。わたしの知っている島民はこの親たちの世代である。親の名前を聞いてみようかと一瞬思ったが、ためらわれた。その昔は民宿というものがなかったから、外から人が来れば、皆が輪番で泊めるか、あるいは、村役場に関係した人ならば、役場駐在員が宿の世話をした。世話好きな人もいて、ハシケからハマに揚がった見ず知らずの人に気楽に声をかけ、自宅に泊めてあげる人もいた。

いま、民宿を経営していれば、多くの客を島外から迎えるのだから、見知らぬ人間がいてあたりまえなのに、わたしは、宿の主人のそぶりに苦味をおぼえ、他人行儀の会話に息が苦しくなった。わたしは、場違いな期待をよせているようだった。

わたしが振り返えると、隣の車の窓の上の方が十センチほど開いた。曇ったガラスの奥の顔が貞夫であることがすぐに分かった。目元が幸一によく似ている。相手も分かったようだ。

「みずほ荘に宿すっとね? じや、後から見に来る(会いに行く)から」

何十年ぶりかの再会は貞夫のこのひとことで終わった。横なぐりの雨が車内にも打ちこみ、貞夫の額が濡れた。貞夫は素早く窓を閉める。びしょ濡れのわたしは、悪さをして締め出しをくった少年の気持ちだった。

わたしは成り行きで、みずほ荘の客になることになった。民宿主人が軽く額いて突然の客を受け入れると、「ドアー、閉めて!」と後部座席に陣取るわたしに指示する。前に向き直り、車のエンジンを掛けた。貞夫の家に泊めてもらえるかも知れない、という勝手な期待はたやすく消し飛ばされた。

車が発車するのとほとんど同時に、フェリー・としまが汽笛を鳴らした。すでにタラップも外され、モヤイ綱も解かれている。客も荷も少なかったのだろうか、船は接岸してから十分そこそこで出港した。低気圧が接近しているというから、少しでも早くに次の寄港地である名瀬港に走りこみたいのだろう。

車は港を後にして集落のある山裾に向かう。客も運転手も無言であった。会話が始まる気配もない。わたしは何の気兼ねもなく自分の世界に浸っていた。上り勾配にさしかかると、港の全景が鳥瞭できた。サンゴ礁が島のぐるりに張り出していて、それが棚になって沖に延びている。船はすでに棚の外に出ていて、早くも波浪にもまれていた。

この十五分足らずというもの、自分の意志がどこにあるのか分からないまま、何かに引きずられるようにして上陸してしまった。窓外の風景はただ走り去るばかりである。四十年前の痕跡を路傍のあちこちから見つけだし、思い出にふけろうという気は起きない。車の進行に逆らって、気持ちは後戻りしていた。

フェリー・としまを眺めながら、もはや、自分なりの上陸が許されなくなっている、と気づく。自分自身がとった動きからして、何の工夫もいらなかった。宝島へ向かう途中で、定期船は島々に立ち寄ったのだが、わたしは船室に体を横たえているだけだった。デッキにすら出ない。沖で長い時間待ってもいっこうに島のハシケが通ってこなかった苛立ちを忘れている。ふと、小宝島に里帰りができなかった大阪娘の膝折れる姿が思い出されると、風や波にもてあそばれていたことが豊かさの内容だったのか、と思ってみたりする。今回の宝島での上陸は、タラップに足をかければ、一分とかからなかった。

あか抜けた娘の一団に、他島にはない宝島ならではの賑わいを見ようとしたが、あれはテレビという画一化の手先に染まった風景でしかなかった。そう思うと、あの命がけの家出にしろ、他島からの客を鮮度の良い外気とみなす日常にしろ、いつかは超えなければすまされない風景であり、島独自のものではなかったのだ。歩んでいる方向は、今も、四十年前も、すこしも変わってはいない。

墓参という形式を振り回して、繁則の目先をかわそうとしたのも、姑息な知恵だった。

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