トップページ / 南島学ヱレキ版 / 2010年9月号 無人島開拓(稲垣尚友)
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無人島開拓――諏訪瀬島の藤井富伝(稲垣尚友)

(初出『あるくみるきく』190号、日本観光文化研究所)

1. 藤井富伝と私
――そういえば一五年前に、蛇皮線弾きの老人からゆかりの銀杯を見せてもらったことがあった。

富伝の名を初めて耳にしたのは、いま〔昭和五七年=初出誌発行年〕から一六年前〔?〕の昭和四二年正月であった。鹿児島県の十島村、俗にいうトカラ諸島の島々を私は渡り歩いていた。とば口の口之島に九日ほどいて、南隣りの中之島に移った。ここでは精糖工場でしばらく働き、路銀を稼ぐことにした。

そんななかでの一夜、私はひとりの蛇皮線弾きの老人を訪ねたのである。なぜ、そうなったのか、いまでは思い出せない。

老人の家には裸電球がひとつ、奥の間にぶらさがっていた。

南の島とはいえ、一月の夜はひえる。老人は肩から厚手の衣装をはおって焼酎を飲んでいた。脇で奥さんが老人を気づかうようにして坐っている。

哀しい旋律が屋内に漂う。焼酎が回ってきたのか、盲目のその老人は奥さんに手をとられて立ち上がった。土間に出て、入口の戸板をあけ、外に放尿する。腰を奥さんがしっかり後ろから支えている。座敷に戻ってから、彼は私に見せたいものがあるといって、箱の中から“銀盃”を出して見せてくれた。

「これはジイさんが諏訪之瀬島を開拓した功労で、明治天皇から賜わったものです」

ということだった。

諏訪之瀬島とは、目の前の海上に浮かぶ火山の島である。赤く燃えた火口が中之島に向けて口を開いている。夜になるとそれがよく見えた。目の前に出された三つ重ねの盃は、暗い屋内の灯のせいかうす汚れて映った。私は内心で、

「年寄りの自慢ばなしか」

と舌打ちして、その場を逃げるようにして立ち去った。

海岸に沿った月明りの道を歩いて宿に帰った。途中思ったことは、明治天皇の下賜という事実と、この焼酎くさい辺地の島の人間がその対象になったということが、どうつながるのだろうかということであった。定期船の就航が決まったのは明治四一年であった。何カ月かに一度立ち寄るか立ち寄らないかの船であった。それ以前は、年に二回ないし三回、鹿児島に通う“年貢船”が唯一の交通手段であった。情報も乏しい。日清、日露の兵役に出た者もいない。徴兵制が島に施行されたのは明治四一年になってからであった。中央からおくれること三六年である。

私は中之島に数週間いて、次は臥蛇島に渡るつもりでいた。それから島を逐次南下して、奄美から沖縄へ渡り、その南端から漁船にでも乗って台湾へ上陸しょうかぐらいに思っていた。私は頭の中で“国境”を無視したがっていたのである。

島づたいに南下する二五〇トンの村営定期船に乗り込んだ。が、あいにくキタゴチ(東北)の風が強くて、臥蛇島からのハシケが出せない。接岸港がないから、ハシケの中継がなければ荷も人間も陸に上がれないのである。定期船は汽笛を島に吹きかけでもするかのように一声すると、次の島に向かってしまった。

次の平島でも波浪が高い。三つ目の諏訪之瀬島まで来たが、やはりハシケは出せない。切石浜というところの沖に二泊して、やっとハシケが通う凪になった。船酔いの激しさから、私はわらをもつかむ思いで上陸を願い出る。

上陸後何日目かにひとりの島民が、

「藤井富伝ていう人の墓が部落はずれのスバタケに建っているよ」

と教えてくれた。スバタケとは海上を見渡せる台地の上にある潮見の場所で、そこに墓は建っていた。ただ「藤井富伝之墓」とだけ刻まれていた。ところが、別の島民は、不満顔で、

「諏訪之瀬島を開拓したのは、富伝ひとりではないですよ。みんなが力を合わせて、この島を切り開いたのだよ」

というのである。

以上のことを見聞きした段階で、私は富伝のことは忘れてしまった。

――愛する島・臥蛇島の「実在証明」の過程で藤井富伝の名が急に浮び上がってきた。

時は下り、臥蛇島が過疎という理由から昭和四五年に廃島となるのを目撃した。その後、私は島の古文書類を譲り受け、“遺産刊行″をガリ版本で試みる。廃島処分にした行政府への、私の力ない質問状でもあった。告発状までのエネルギーは望めなかった。

回答を得られるべくもなく、私は南隣りの平島へ“浮気”をする。人口一〇〇人、三五戸の人間集団の中で、私は現在を生きる島民の真似ごとをする。カミさん子供も巻き込んで。日々を刻むことこそ歴史の証人としての役目、と、ウスラウスラ自覚していた。

その私が時代をさかのぼることに抵抗がなくなったのは、島を離れてからであった。それも、逃げるようにして離れてきたのである。「二度と島には戻ってくるか!」と捨てゼリフを吐いての離島である。自らが勝手に描いた島への憧れを、勝手にのろってみたまでである。

そして、北関東の内陸部深くに潜んで、竹細工を生業として何年かがすぎた。カゴ、ザルは言うに及ばず、机、椅子、収納箱、天井張り、ベランダ……、竹でできるものならなんでもつくった。

あるとき私は、岡山に住む二〇を過ぎたばかりの若者から手紙をもらった。彼は最後の臥蛇島分校中学卒業生である。

「……毎日元気でおじさんのそば屋で働いています。先日、配達先で偶然に島の記事を目にしました。

親父がいうには、島にいる山羊の権利は手放したわけではない。山羊の権利がまだ島民のものだとすれば、何とかもう一度、島を興せないでしょうか。たとえ私ひとりでも島に上陸して、と思ったりします……(後略)」

若者の思いが私にわずかではあるが伝わってきた。それで私は、彼の教えに従って、笹森儀助著『十島状況録』(明治二九年刊)を探し、読んでみた。臥蛇島の項を捜す。

-家屋の構造、中之島に及ばざれども、村落の清潔なること其上にあり

-本島古来漁獲もっとも挙ぐる地なり

-漁業の進歩を追い其方法を改め、内地漁船の競争に抵抗するを得るもの独り本島あるのみ

-金銭の貯蓄ある事十島に冠たり

―独り本島婦人のみ其容貌の改良せられたるは、しばし内地、枕崎に渡航するに原因すといえり

垢抜けした婦女子と十島随一の財力とが、著者の印象に残ったようだ。それだけの記述をしてくれたことで、私は儀助を高く評価してやまなかったのである。つまり、私の読み方というのは、いかに臥蛇島が他島に負けない存在であったかを抽出したがっていたのである。

「わしらが青年のころは、臥蛇は平島なんぞに負ける島じゃなかったがなあ」

と述懐した老人のことばは、私を喜ばせてくれた。現実は一方が青年も多くにぎやかな島であり、一方は無人の島となったのだが。

同じ本の諏訪之瀬島の項にも目を通す。ここで初めて私は、藤井富伝のことを詳しく知ることになった。私が知ってからのトカラでも不便な地だと思っているのに、全く船の通わない時代に、無人の島に渡ってきたのだろうと思うと、不可解でならなかった。臥蛇島の“実在証明”のための証拠固めの途中で、富伝が飛び込んできてしまったのである。

2. 富伝とその時代
―― 富伝に関して書かれたものは限られている。

ひとつは前述の『十島状況録』である。これは三一書房から出されている『日本庶民生活史料集成』の中に収められているので、金さえ出せば誰もが読める。ほかに同じ人の著した藤井富傳翁傳」というのがあると後日知った。私はその本を儀助の孫に当たる人から見せてもらうことができた。

いまこの二書を参考にしながら、富伝の略歴とその時代背景を少し書いておこう。年齢はすべて数え年である。

文政一〇年(一八二七)、一歳 いまから二血五年前に、富伝は奄美大島笠利間切赤木名外金久で生まれた。父の藤井彦七は鹿児島川内平佐の出身である。大島寓居のときにもうけた外腹の子、と前書にはある。

四歳 父・彦七がこの年齢のときに没した。三〇歳の若さであった。中産の農民であったが、負債が払えずに田畑家屋までが他人の手に渡る。兄・喜祖富(幼名・万次郎、一一歳)は父の残した薬価砂糖一〇〇〇斤分のために医師の“奴僕”となる(以後九年間)。

この「奴僕」というのが私にはわからない。島には特有の農奴として家人という身分があり、普通健康男子で砂糖一五〇〇斤ないし二〇〇〇斤で取引きされたが、喜祖富の場合はそれではなさそうである。

次兄・牧民は八歳であった。牧民、富伝、母の三人は親戚の製糖場に間借りすることになった。

この年、島の歴史上の大事件が起こった。「砂糖惣買入れ制」が実施されたのである。積年の赤字は島津藩に五〇〇万両の負債をつくり、藩士への給与も一三ヵ月滞ったほどである。その財政立直しの矢面に立たされたのが島の砂糖であった。辛苦の労働の中で作られた砂糖であるが、農民はそれをひとなめすることもできないほど絞り上げられたのである。「若シ、抜砂糖ヲ取り企テ候本人共ハ死罪卜為シ行ワル可ク」(「大島代官記」)とある。上納後手元に残った余計糖は藩が強制的に買い上げる。金ではなく羽書という一種の手形で、その羽書で島民は日用品と交換する。交換レートも藩のおしつけである。砂糖一斤で米一升二合弱が、手に入った。当時の大阪の相場の実に六・二八倍の交換率であったという(前田長英著『薩摩藩圧政物語』)。

島はますます疲弊し、上納のままならない農民は激増し、島人の三割近くが家人の身分に落ちていった。

七歳 牧民一一歳で名瀬に養子に出る。富伝は母とともに農事に努める。

九歳 余暇に隣人の萩原萩哉に文字を習った。この人は遠島人(流刑人)であったろうか。ともあれ、文字を習うということは、一般自作百姓(これをひとり百姓という)では異例のことである。

一三歳 貯金を得て兄の身体を償還する、と儀助の書にはある。借金を返して兄・喜祖富の身分を解放したのであろう。家人の場合も、一世は金で解放されるが、その子は永代家人である。生涯、農奴として働くことになる。家人人口は増えこそすれ減らなかったのも道理である。
さらにこの年、富伝は蓄えの中から田六反を買い、半分を兄に分与している。その労をねぎらうためだったのか。まだ一三歳の少年がしたこととは思えない。

――一九才で最初の無人島探検。その後も絶えず舟人たちから情報を集めていたようだ。

天保一四年(一八四三)、一七歳 鹿児島に出て、父方の従兄に医道を学ぶ。

一八歳 病に罹るがただちに快復する。後の眼病の兆しはこの時に発している。三〇歳のときに一度明を失い、六七歳では完全に失明する。

また、この年、トカラの南端の無人島・横当島に渡り、竹を植えて帰る。将来の移住民の使用に供すためも漂着船の補修用のためである。このときすでに無人島に強い関心を抱いていたことが分かる。

一九歳 従兄没し、富伝は大島に帰り、再び農業に就く。農業に就くといっても、その規模は知れたものであった。兄の喜祖富と耕地を二分し、年間の籾の収量は二石七斗にしか過ぎない。芋(甘藷)と麦で食料を補っていた。

二九歳 赫家の長女を嫁にもらう。この赫家というのは、一字姓を許され、郷士格として赤木名の支配層に名をつらねている由縁人(島役人をつとめる由緒ある家系の人)である。だから、赫家と婚姻を結んだことが、逆に富伝の身分を物語っているはずなのである。

山岳重畳し、海岸線まで山がせり出している奄美では、耕地は不足していた。永年の“砂糖地獄”に苦しむ貧農たちにとっては、自作の耕地など望むべくもない。他人の土地を小作し、わずかに飢えをしのいでいたに過ぎない。この現実に富伝は何を考えていたであろうか。

笠利間切赤木名は大島本島の東北部に位置している。大きく湾入した入江のつけ根の部分に赤木名部落はあり、天然の良港に恵まれている。それがため、藩制時代には港町として栄えた。島の最高権力者は大島代官であるが、彼の屋敷(仮屋敷)も赤木名に建てられていた。

船の出入りは盛んであった。鹿児島から大島全域に運ばれる物資はここで陸揚げされたのである。砂糖を積んで上鹿する御用船もここの港から出た。こうした船の乗組員や上鹿した島人から聞く話の中に無人島の話があった。そのなかには「土地すこぶる広大にして、(文化一〇年=一八一三の大噴火で廃島となり)目下無人の境界に属するものなり」という諏訪之瀬島の話もあったはずである。

――ご一新を期に好機到来と富伝は勇みたつ。が、折悪しく西南戦争の最中でかえりみられない。

明治九年(一八七六)、五〇歳 維新後、新政府が拓殖事業に熱を入れているとの情報を得る。若いころから“遺憾”に思っていた諏訪之瀬島開拓を実現する機会がやってきた、と彼は判断した。

同じ赤木名の村に泉実行という人がいた。彼も新天地を捜していた。そして、同じ大島の名瀬方瀬花留辺村の山奥に平坦地を見つけたので、その地に鍬を入れる決意を囲めた。

そのことを聞いた富伝は、さっそく泉実行宅に飛んでいく。彼の頭の中は、諏訪之瀬島のことでいっぱいである。同島開拓にはまず資力、それと人材である、とみていた。
泉実行を説得してみる。「いくら平坦地があるといっても、大島では知れたこと。それに人口が多い。隣り合わせの狭小地を耕すことになりかねない。どうだろうか、周囲六里(二四キロ)もある無人の島を一緒に開墾してみては」と話をもちかけて、泉実行をくどきにかかる。

泉実行は説得に応じた。この二名に盛仲信と林時広とが加わり、開拓団の核となり、人選をすすめた。同行者の条件として、「一、性行確実。一、飲酒セズ。一、航海二熟練ナル者」の三点を考慮して、合わせて一一名を選ぶ。核となった四名を加えると一五名である。

彼らは、永住が可能か否かの下検分をすることにし、島形三間船を新造し、各自が白米を一斗、そのほかの必需品を積んで、赤木名港を出帆した。明治九年六月二二日のことであった。

翌二三日に一行は悪石島に着いた。順風であったのだろう。一〇〇キロ余の海上を一晩で走り抜けてきたのである。

この島は諏訪之瀬のすぐ南、海上六里(二四キロ)のところにある。文化一〇年の大噴火で諏訪之瀬島が溶岩流に埋まったときの避難民が、この島に移ってきていた。その人たちに旧村落のことや地形等をたずねる目的で寄ったのである。以後も開拓の中継基地として、たびたび立ち寄ることになる。

悪石島に九泊して、七月二日に目的地に向かう。波が高くて旧村落になかなか近づけない。島の南側を廻って切石浜に上陸し、陸路、旧村に向かう。探検の目的は三つあった。火山の再裂の恐れはないか、水はあるか、三〇〇人の入植が可能な地があるか、である。洋上から火口を確かめ、上陸後は耕地・水源を確かめる。四日間の踏査の後に富伝は三条件は備わったとみて、移住を決定する。

帰路、悪石島までは順風に恵まれたが、翌日から風が逆になり、出帆できない。二一日も後の七月二八日、ようやく風を得て出るが、途中洋上で無風になる。付近は“七島灘”と呼ばれる航海の難所である。海の藻屑と消えた例は枚挙にいとまがない。“舟人”交代で漕ぎ続け、二日目の昼ごろようやく笠利村にたどりついた。

帰郷の八日後、八月七日に、移住開拓の願書を戸長に提出した。合わせて資金借用も願い出る。金二〇〇〇円、米一五〇石、大豆八〇石、塩一〇石、それに鰹船四隻を願い出るのである。担保として、願主たちの生産糖一三万余斤を出すことにした。

五一歳 翌年になって却下がいいわたされた。時の県令は大山綱良である。彼は西郷隆盛の高弟であり、同年に始まった西南の役の軍資金調達の任に当たっていた。無人島開拓に注ぐ資金などありようはずもない。資金の目途も立たず、同志も去っていく。

――入植したはいいが、拝借金も成らず作物も実らず、一時撤退。再渡島したら噴火に見舞われ、餓死寸前の日々が続く。

明治二八年(一八八三)、五七歳 戦役は終わり、県令は長崎で斬に処せられる。県令が二度代わった明治一六年に、先の発起人三人と共に富伝は再び上願するが許可は得られなかった。が、別の達しで「まず其業に着手すべし」とのことであった。富伝はさっそく同志をつのる。

閏五月、二七名の賛同者は二隻の帆船に分乗して目的地に向かう。一隻は買い入れたもの、一隻は借り入れたものである。飲料水、そのほか船中や移住後の食糧を積み込む。開拓のための道具類も合わせて二〇〇円を超す量を持参した。費用は各自が等分に負担したと、『十島状況録』にはある。

このとき何人かの協力者から寄付をもらっている。赤木名で紬を商う友野商店からは帆を何校か贈られた。そうした品目がこまかに書かれた「芳画帳」が、子宝に恵まれなかったために明治八年に迎えた富伝の養子・乙次郎の孫に当たる藤井吉夫氏が子供のころまで島に残っていたという。

諏訪之瀬についた彼らは、元浦の海岸に「大なる木屋」をつくり、ここを根拠地に開拓にとりかかる。が、実際に開拓にとりくんだのは富伝を含め一三人で、残り一四人は手塚大和なる者とともに一艘に乗し、資金拝借のために上鹿していた。この手塚大和という人は鹿児島人で、赤木名に寓居し子弟に文字を教えていた人だが、富伝らの行いに深い関心をもち、実際に諏訪之瀬まで来て、耕作するに足ることを確かめたうえで、人員を二分することを提案したのである。が、その“斡旋”にもかかわらず、拝借金はならず、八月になって、わずかな玄米と種麦を島にもちかえることができただけであった。

島に残って富伝らは、日々木を伐り山を開き、畑六反歩余を拓いて、甘蔗、甘藷、里芋、大豆、大根を植えた。が、実りはまだだった。持参の食糧も底をつきつつあった。彼らは、耕作物が成熟するときに再び来ることにして、いったん大島へ帰らざるをえなかった。

五八歳 四月、再渡航。このたびの賛同者はぐっと減って、富伝のほか八名を残すのみとなった。うち二名は、家族に病人がある関係で、ともに行くことができない。で、富伝は養子の乙次郎を伴うこととした。

幸いに、前年に植えつけた耕作物は大いに成長していた。一同はほっと安堵し、開拓に励もうとした矢先に、乗ってきた三間船が大波で沖に流されてしまう。外との連絡が不可能になったことは、かえって志を確かにするものだと、後に富伝は回想している。

八月、病人のあった二家族が来る。食糧が乏しくなったため、その船で四月に来た者の大半が大島へ帰る。そのなかには、乙次郎も含まれていた。

十月、御岳が噴火し、ほとんどの作物が降灰に埋没してしまった。わずか七畝だけがかろうじて野菜が採れたに過ぎない。主食にすべき唐芋は全滅した。入植者は噴火の明りを頼りに山野に分け入って葛根を採って、それを叩いて澱粉をとり、団子にして食べた。樹の実を採ったり、貝類を浜で拾っては飢えをしのいだ。周囲が絶好の漁場でありながら、舟がないため沖魚を獲ることはできなかった。

五九歳 食糧が足らず、一家族が餓死寸前になる。富伝は最後の手段として、南の崖の上でノロシを揚げた。救助のために悪石島の青年団の丸木舟がかけつけてくれたのは一五日後であった。

さらに一一月には、口にした野草の毒にあたって二名が落命した。島に残ったのは、富伝の他に三人だけとなった。八歳の娘をかかえた池山仲吉夫婦であった。夫婦は富伝の一時帰郷のすすめにも応じなかった。

六二歳 この年に至って噴火は治まり、耕作物もできるようになった。一時帰郷者たちも、少しずつ戻ってきたのである。

明治二八年(一八九五)、六九歳 富伝の死ぬ一〇年前のこの年には、耕地三五町、戸数三六、人口一六〇人の島にふくれあがっていた。これは笹森儀助が上陸した時に調べた数字である。

大島の島司(現在の大島支庁長の存在に似ている)として十島の島々を巡っていた笹森儀助は、この富伝らの苦労話を耳にして、いたく感動するのだった。

儀助一行は大島出発からすでに七〇日が過ぎている。連日の夜を徹しての調査、それに帆船による島旅、食糧として持参した米がなくなり、芋をかじっての毎日、そうしたものがつみ重なり、儀助は疲労困億する。「絶海孤島この危難に罹る。たおるるも天命なり」 (『巡廻日誌』)と絶叫している。「病臥」とだけ走り書きする日が続く。そんな中で、人の肩を借りて諏訪之瀬島の元浦港に辿り着くのである。

富伝と出会った彼は、「其身体ノ疲労ヲ忘レ思ハス二時間余ノ長談ニ」及んだのだった。「島庁下拾四万人中一人ノ出色並肩スル者ヲ見ス」と筆はふるえ、欄外に朱で「偉人・諏訪之瀬島拓殖家藤井富伝」と書き加えるのだった。

なぜ、儀助はこれほどまでに感動したのか。

●明治九年探険者一五名氏名●藤井富伝 泉実行 盛仲仙 林時広 池山仲吉 藤井喜祖富 久木山貞和志 本田浜祖喜 原口当和嘉 有馬常積 萩原萩和志 松元伝芳 川畑伊富行 泉覇栄吉 川畑伊富栄

●明治二八年移住者二七名氏名●藤井富伝 池山仲吉 盛仲仙 林時広 池山仲政 浜田実祖志 伊喜美則 牧幸孫子 草貫当和志 泉実行 三川実栄志 泉覇栄民
泉覇栄吉 山田宮積 (姓不詳)春栄 (同)伊栄益 丸山喜美政 円喜史民 (同)浦豊 清清行 山田覇栄静 高尾野幸助 盛赤坊 坂元嶺静 有馬常積 用源百九 永田喜子元

●明治一七年以降の新移住者● 増角原行・(妻)アグリ 盛長太郎 山田斉次 坂元福太郎 山田亀次郎 富山直太郎 萩原坊 土岐利兵衛 泉直熊 前島艮蔵 高米和志 前田平兵衛 栄福太郎 中村吉太郎 畠喜美行 鎌田タケ 本田浜祖喜 丸山佐喜厚 山田七熊 (『十島状況録』から)

3. 儀助の感動
――守旧派と民権運動のせめぎあいのなかで儀助は官をなげうち、士族授産の道をあゆむ。

儀助は青森弘前藩の出である。富伝よりも一七年後に生まれている。

明治維新のときは二三歳の青年であった。多感な青年儀助は、時代にも敏感であったようだ。北方の防備を説き、藩主に国政改革の封書を手渡す。その手続無視の非礼故蟄居を命ぜられるのである。明治新政府の特赦で許されるまでの三年間は、外との通信交際を一切断たれて過ごした。二三歳から二六歳までの時期であった。この間に培った性癖、思考は後年も大きく左右したものと思える。

明治二三年に帝国議会が開設される予定になった。これは、ひとえに、日増しに激しさを加えていく民権運動をかわすためであった。開拓使官有物払下げにみる政府高官の不正なども火に油をぐ結果となった。弘前にも、民権運動の波は押し寄せてきたのある。中央から派遣されてきた県令に利用された点もあるが、不平士族が主軸となった守旧派と、民権派との抗争が激しさを増していった。

儀助はというと、どちらにも属さない。守旧ではない。かといて、激しくわきあがる民権運動にも身を置くことができない。中に巻き込まれたくないと思った儀助は、あっさりとそれまで二年間務めた中津軽の郡長職を辞した。そして、かねてから念願していた士族授産の道を歩む。富伝が五〇の峠を越して、楽隠居のはずを、土地・家屋を投げうって無人島開拓にひた走ったのと、どこかで共通点があるように私は思う。

儀助が具体的にやったことは、農牧社という名の共同経営農場で、移住農家に開拓させる構想であった。また、当時としては先進的であった酪農も試みたのである。職場に入ってきた若者のひとりに外崎嘉七というのがいる。後にカナダからりんごの苗をとり寄せて、今日の青森りんごを育てた人である。

農牧社のかたわら彼は熱心に新設の帝国議会に通い傍聴する。牛乳の売捌き所を東京に設けるためといっては徒歩で牛を引いて、数百キロをデモンストレーションをしたこともある。政府の借入金の申請のために時の要人の元にも出入りしていた。まだ四〇代の儀助には官吏登用の道を捜していたふしもある。

在京中に品川弥二郎や井上毅らとも往来があった。内相・井上はその後も儀助を励まし、時にはポケットマネーを手渡していたようだ。後に儀助が関西・九州に七〇日の徒歩旅行をするに際して、井上はあれこれと面倒をみている。また、陸掲南からも多くの示唆を得ている。掲南は、時の論客である。「日本及び日本人」を主宰し、また、多くの著書をものにしている。弘前の、しかも同じ在府町の生まれであることも手伝って、二人は親密であった。

議会に多大な期待を寄せた儀助であったが、その実状を知るや、いたく失望する。山県有朋の計画した軍備補充予算は議会で削減されてしまう。民権派のいう民力をまず休養させよ、経費は節減せよ、という論が儀助には納得できない。民党は民におもねて、国を危うくするのではないか。儀助は、たえず国を憂えていた。

――辺境をへめぐったすえに儀助は宮伝に出会う。そして、自分の夢の実現者を見る思いで感動する。

議会への期待を捨てた儀助は、農牧社からも手を引き日本各地への徒歩旅行を思い立つのだが、その初め、特異な2ヶ所を訪ねている。ひとつは福岡玄洋社という政治結社の一員であった故・来島恒喜の遺族を、もうひとつは、故・西野文太郎の遺族をである。先の来島は、外務卿・大隈重信(早大創設者)に爆弾を投げつけて片脚を奪った男である。屈辱的条約改正の責任を迫ったわけである。もう一方の西野も、政府高官に切りつけている。文相・森有礼の伊勢神宮における不敬に怒って刺し殺す挙に出た。民におもね国を危うくする人物たちを失脚させたことで、儀助は喉のつまりをいくらかでもおろせたのであろう。二遺族に祭祀料を置いて立ち去っている。

儀助は“中央”をたえず注視しながらも、辺地・辺境へ足を運ぶ。先の七〇日の徒歩旅行は明治二四年(一八九二)である。二年後には千島を探険している。二五年(一八九二)には、南島探険と称して琉球の島々に渡っている。どんな資格・肩書きでいったのか、はっきりしない。表向きは一私人であるが、井上内相らの紹介状もたずさえていたろうか。旅先で投宿するところも支配層につらなる人々が多い。出会う人(面会者)も役人が多い。

琉球から帰ってきてから、彼は大部な報告書を著した。『南島探験』である。この書は時の地理学者に評価され、紹介記事がいくつか世に出された。

そんな前歴もあって、儀助は大島の島司におされる。明治二七年(一八九四)から三一年(一八九八)までの丸三年である。この時に十島の島々を巡ったのである。今日にいたるまで十島を訪ねた島司(後の支庁長)は儀助ただひとりである。

この巡航の中で富伝に出会ったわけだ。無人島開拓に心血を注いだ人間を前にして、農牧社から中途で身を引かざるをえなかった自分を対比させたに違いない。「偉人・藤井富伝」と朱筆したときの感動は、後世の我々にも伝わってくる。感動の次に儀助は何をしたかというと、県知事(県令は明治一九年=一八八六に改称される)に上申書を提出したのである。七〇年間無人であった火山島を開拓した人間がいる、ということを知らしめずにはいられなかった。そのあと、政府賞勲局にかけあう。国益を計り、顕彰に値する人間がこの辺地にいる、と力説する。そして、一平民に対しては名誉この上ない「特例銀杯一組下賜」の官報が出された。儀助はこの報に接し、ひとつの義務を果たしたと思ったことであろう。富伝の計り知らない間のできごとであった。

4. 富伝研究の二人三脚

-養子 乙次郎の孫の証言-
――銀杯を貰いに上鹿したとき富伝は吏員に「くれるものは早くくれ、風向きが変われば島に帰れん!」とどなった。

一方の富伝は、はたしてどんな気持で賞勲局からの知らせを目にしたろうか。そんな疑問を投げかけても、富伝の側からの記述はどこにもない。それで私はこの足で富伝の肉声に迫ってみようと思い立って、昭和五五年三月、富伝の養子・乙次郎の孫に当たる藤井吉夫氏を訪ねることにした。大正二年生まれで、現在大阪にいる。

吉夫氏にはこれまでに二度ほど会っているので、多少は気心も知れている。一回は、私がいまだ平島住民であったころ、彼は生まれ島の諏訪之瀬島に渡ってきた。同島に渡るには平島の港に寄ってからでなければ船は向かわない。ハシケ作業で沖の本船に私が飛び乗ったときに、偶然にも吉夫氏が乗っていたのである。あと一回は鹿児島の村営宿泊所で出会った。

二回の出会いで交わした会話は少なかった。彼は私に対して、ある目で見ていたのである。村長の入れ知恵を彼は信じていた。

「村の悪口を書く平島のヒッピー」が村役場内での私にたいする定着した評価であった。彼がそう思っているということを別の人を通して私は知らされていたので、口を開くのが苦痛であった。

その吉夫氏が、あることで村当局と行き違いがあった。それ以降、彼の私に対する考えが変わってきたのであろう。思いを込めた島の資料集を分けてくれという。それは祖父・藤井富伝の業績を世に知らしめるための参考にする、とのことであった。

その後、二人三脚で「富伝翁伝」を出そうと話し合い、集めてきた新資料を互いに交換したりしてきた。私も生業のカゴ屋に熱が入ったりで、二人三脚はなかなかスタート台に立たなかったのであるが……。

「これはジイさん(乙次郎)から聞いた話ですが、銀盃を貰いにはジイさんが富伝について行ったんです。帆船しかない時代ですから、期日までに鹿児島の県庁に出頭できるか心配したそうです。

鹿児島の港から県庁に向かうとき、乙次郎ジイは富伝を気遣って、紋付羽織の正装をすすめたんですが、富伝ていう人は聞かんのです。『紋付はいらん』ていうて。ジイが紋付を用意してきたんでしょうなあ。晴れがましい日ですから。それなのに、本人はよれよれの服に杖ついてですなあ、わらじばきです。そのみすぼらしさをジイさんがとがめて『せっかくの日に……』ていうと、富伝は『ありのままを見てもらえばよか』ていうて聞かんのです。路地から子供が飛び出してきて、『乞食が行く、乞食が行く』て、はやしたてるんです。乙次郎ジイが『ほら、子供らまでがあんなにいうではないか』というと、『いや、かわん、子供は正直じゃ』と、表情も変えずに歩いていった、ていいます。

県庁の廊下で永いこと待たされて、しびれを切らした富伝言吏員を怒鳴りつけたそうです。『くれるものは早くくれ! 風向きが変われば島に帰れん!」と。おどろいた係の者が賞状と一封の五〇〇円を手渡そうとすると、『金はいらん!』といって、さっさと県庁を後にしたそうです

――富伝は国家をどれほど意識していたろうか。儀助の言葉をもう一度洗い直す必要がある。

吉夫氏の話は新鮮であった。「お上」の前で正装する必要は富伝の側にはなかったのである。「国君に仕ふべしとの母の一言忘れざりし」と言い続けた儀助とは違う。

儀助は富伝を評価して、「国家ノ生産ヲ増加シ、大島無数ノ貧民ヲシテ生業ヲ得セシメ、無人ノ地、漂流難破ノ人命ヲ救助シ、併セテ子孫ノ幸福ヲ増進セシムル」というが、はたして富伝はそんな考えから諏訪之瀬島に入植したろうか。少なくとも国家をどれほど意識していたか、儀助のコトバをもう一度洗い直す必要がある、と私は思った。

富伝の一生は、「中央」とは無縁の、辺地辺境の開拓を前面に唱え上げての人生ではなかった。ましてや、天皇の臣民という意識が強かったとは思えない。

中之島の蛇皮線弾きの老人は先祖の自慢話にあの銀盃を取り出してきたが、富伝にとってはただの食器ではなかったろうか、とも思えてきた。

が、それを探るには、あまりにも資料が欠けている。どのように迫ればいいのか。もっとも精度の高い復元法は、富伝を直接に知る人たちに問いただすことである。が、本人が死去してからすでに七八年がたつ今日、そうした証言者の生存の可能性は薄い。不本意であるが、その証言者の証言を聞いた者たちを訪ねるしかない。

そう考えて私は、五六年八月に再び吉夫氏を訪ねた。そして、富伝と一緒に開拓に励んだ人たちの血縁者を問いただしたのである。彼は私に貴重なひとつの情報をもたらしてくれた。富伝の兄・喜祖富の孫(A氏)が大阪にいるとのことだった。

-兄・喜祖富の準肉声-
――いきなり喜祖富の肖像画と対面、私はただただ驚いた。しかも、裃を着て端座したその姿は「奴僕」のイメージではなかった

昭和五七年七月七日朝、私は北関東のわが家を出発して西へ向かった。今回は大阪でまずAさんに会い、そのあと鹿児島まで足を伸ばし、さらに船で富伝の生誕地である赤木名にも行くつもりだ。大阪は一〇カ月前に吉夫氏に会いに来て以来である。いつもながら思うのだが大阪は緑が少ない。そして、家がひしめいている。

A氏宅の最寄り駅に着き、約束通りに電話を入れると、奥さんらしい人の声が、「もう駅に向かいました」とのことだった。どんな顔付きかもお互いに知らないのに、どうして見つけ出せるのだろうか。が、そんな心配をよそに、受話器を置いた私のすぐ後ろにベレー帽の初老の男の人が立っていた。目線が互いに合った。

「こっちです。少し歩きますけど」

二人は駅前商店街の中を歩いていった。線路にそってだらだらと続く商店街を二〇分は歩いたろうか。すでに次の駅に近いのではないかと思われるほどだった。「ここが私の家です」といって通されたのは、近くの雑然とした家並からはかけ離れた鉄筋三階建の豪邸であった。まだ新しいようだった。私は三階の座敷に通された。南の窓にゆれる薄いカーテン越しに家々の屋根が遠くまで望める。

「まあ、よくいらっしゃいました。わざわざおいでいただき、先祖のことをお調べいただきありがとうございます」

と、あらたまって挨拶される。私も、あわてて座を正して頭をさげた。私は来意を告げ、同時に持参した手製ガリ版本の資料集(『十島村の地名と民俗』上・下、『トカラの伝承』『平島放送速記録(一)』『臥蛇島部落規定』)を机の上に置き、「どうぞ」といって彼に押し出した。

彼はしばらくそれらの本をめくっていた。

「さっそくですが、Aさんは喜祖富さんのお孫さんになられるわけですね」という私の切り出しに、彼は「何でもお聞き下さい。かまいませんから」といって、いろいろのことを語ってくれた。私の資料集も効があったはずである。

が、語りの中で何回となく、「私は、すでにA姓に変わっています。藤井家とは何の関係もないんです。どうか、私のことは書かんとってください」というのだった。そのことは家につくまでの道々でも聞かされていた。だから、私はAさんのことは公表しかねている。

話が始まって間もなくAさんは隣の仏間に私を案内してくれた。そこには、なんと、喜祖富の色付きの肖像画がかけられてある。ずんぐりとした丸顔の人で、袴を着て端座している。肩のあたりに墨書がある。私には読めなかった。Aさんの説明では、大島の代官になったときの辞令文のようだという。私は、ただただ驚いたのである。医者の「奴僕」とあるから、さぞ苦労し、やつれた人かと思っていた。それが、代官だったという。百数十年前の資料が目の前にあることにも興奮した。

富伝を追うなかでは初めての生の資料であった。

-富伝の兄・喜祖富の孫の証言-
――「ジイさんは姓も名も変え、ロ永良部から屋久島へ渡りました。自分の半生は記録から消されていく、てよくいいよりました」

-私はジイさん(喜祖富)に育てられたのです。ジイさんは私の子守り役でほかに何もしよりませんでした。昭和二年まで生きてました。死んだのは九八歳です。だからよく憶えております。私はいま七〇になります。

明治一七年の戸籍でジイさんは藤井姓からA姓に変えています。赤木名にはA姓はありません。たまたま近くに思いつく地形があったから、それを姓にしただけらしいんです。

なぜ姓を変えたのかですか? 

-ジイさんは「自分の半生は記録から消されていく」て、よくいいよりました。自分から喜祖富の名を消しておるんです。戸籍筆頭者も架空の貞夫という人にしている。喜祖富の名も変えてサキアツの名を使ってました。万次郎・喜祖富 サキアツと変わったわけです。

私で三七代目になります。系図も残っています。初めて大島の目付役になった人の名は山口五太夫ユキハルという人だと、ジイさんから聞いてます。もともとは鹿児島の千石町に屋敷があり、墓は千石馬場にあったそうです。明治三〇年代にジイさんとその長男である私の父(万吉)とが捜しに行ったそうですが、見当たらなかったといってました。

喜祖富の父親ですか? 彦七は聞かん名です。戸籍上では藤富となってるはずです。川内平佐の出というのは知りません。

Aさんのコトバは歯切れがいい、嘘をいっているとは思えない。では、富伝が自分の父親を川内平佐の出身者と思い込み、それを儀助に記録させたのはどういうことなのだろうか。両者の相違点を対照させると、次のようになる。

富伝談  父・彦七、川内平佐の人。最初の大島渡来者は彦七

喜祖富談 父・藤富、鹿児島千石町の人。最初の大島渡来者は山口五太夫ユキハル

そのほかにも私は目新しい事実のあれこれを知らされて頭の中は混乱した。

-ジイさんは明治二〇年に大島に帰っている。妻の療養のために。そして二二年に妻が死にます。開墾の厳しさが原因でしょう。それから間もなくして、鹿児島へ向け出帆してます。これは本人の意志というよりも、息子らの希望でです。

一緒に坂元、平田の二家族も出たんですが、途中、三隻は口永良部沖で難破して、喜祖富は岩屋泊に辿り着き、ほかの二隻は湯向というところに上ったわけです。三家族は湯向で五年百姓をして、そのあと喜祖富は屋久島の宮之浦に移りました。口永良部に移るときには島津家から貰った羽織二枚、陣笠二枚、すべて捨ててきます。

私は屋久島で生まれ育ったんですが、ジイさんが鍬を握ったのは見たことないんです。苦労を知らない人で、刀振り回すだけの人間じゃなかったんですか。私はそう見とります。とにかく気位の高い人で、私の守りをしながら「下にいーつ、下にいーつ」ていって、村人がひざまずかないと木刀で打ったりしてるのを憶えてます。

でも晩年は失意のドン底で死んでいきました。私によくいい聞かせてたことは、「他人の中で暮せ」ということでした。自分の過去を消したくもあったんでしょう。それから「大島には絶対に近づいてはならない」「行けるときがきたら行きなさい」「七代過ぎなかったらこの世には出られないのだ。七代までたたる」と。どんな悪いことをしたのか、私は知らんのですが、私に諭してます。

だからこの私も兢々としてます。イナガキさん、大島に行っても私のことは知らさんといて下さいよ。くれぐれも、そっとしといて下さい。私は藤井家とは関係ないんだから。

私は、ますます知りたくなった。儀助流の「国家ノ生産ヲ増加シ……」 という説明では富伝の動きはやはり解しかねる。

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