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欧米、風車の旅(橋爪健郎)(1)

旅のきっかけ

原発を葬るためには、われわれがわれわれの手で産み出せる電力を、ということで、川内原発予定地に隣接する上野部落に風車を造ろうとつぷやきだしたのは、一九七六年の半ば頃であった。まず、手あたり次第に風車に関する情報を収集したが、或る人が、「日刊工業新聞」なる業界紙をひっさげて来て、「ちょっと、これをごらんよ」と見せてくれた小さなコラムに、「デンマークで地元の高校が直径五四メートルの大風車を建設し始めた」という記事が載っていた。

そういう記事に大いに刺戟されたが、初めからそんな大規模な物は締めて、まず第一号試作機にとりかかることにした。地元、上野部落の人達に集まってもらって、なぜ風車を造るかを理解していただいた上で、。部落の共有地を建設予定地として借用することができた。着手にあたっては、地元川内で合宿をやり討論をし、パンフレットを作った。題して、「暗闇の思想に自然の灯を」。豊前の思想と川内の思想の結合というわけである。

試作一号機が風力による自然の灯をともしたのは、一九七七年一月二三日であった。

試作一号機に成功してみると、私はもっと本格的に風車に取組みたくなった。風車の本場は、なんといっても欧米である。九大の坂本さんを介して、以前九大医学部におられた柿沼さんが当時アメリカにおられたのを幸い、欧米の風車に関する資料を送ってもらっていた。

私は以前から、近代科学の発生地である欧米が、科学の一つの帰結である原発をどうとらえているかに関心があったし、そんな欧米で風車がどのように生かされているかを視たかった。コラムで読んだように、企業でなく地元が風車を造るという点にも興味はつのっていた。

しかし、内容のある討論を自在にやれるほど、語学に自信がなかったし、二の足を踏み続けていたところ、柿沼氏が再度渡米するというので、同行させてもらうことにした。

柿沼さんのがんばりで、やっとデンマークの風車の学校にも連絡がついた。「成田空港」から出たくないため、横浜から船でソ連経由で出発したのが一九七八年九月二日だ。

ストックホルムで

最初の予定では、スウェーデンは通り過ぎるだけで、特に見学の予定はなかった。

ところがである!汽車の時刻を待つ間、ストックホルムの街をしばらく見物していると、とある建物の屋上に直径二mくらいのプロペラ型の風車がクルリクルリと廻っているではないか!

これをそのまま見過ごす手はないとばかりに、その建物で何やら改修作業をしている人に、なぜ屋上に風車があるのか尋ねた。

するとその人は、得意気に、よくぞ訊いてくれたとほかりに、実は……と話しはじめた。

この建物は、ストックホルムの国立劇場であった。風車は、劇場の職員が手づくりで造ったという。

スウェーデンでも、政府は原発計画を進めようとしており、ますます資源を食いつぶすばかりで、公害をまき散らす重工業優先の政策を進めようとしている。政府の政策を変えるには、多くの民衆が、石油や原発に頼らないやり方があるのだということを知り、実践しなければならない。そのために、劇場みたいな人の集まる所で、自然エネルギー利用の可能性を実演してみせることは、意味が大きい。

建物が改修中であるのは、風車ばかりでなく、太陽熱利用の集光装置、太陽電池なども一緒に展示する場所を作るためだという。職員に案内されて、劇場の四階の一角に行った。そこが、彼らの運動のための事務所であった。書架には、多くの原子力関係の資料と、自然エネルギー関係の文献がぎっしり並んでいる。見学者の出入りも多い。

たまたま居合わせた、或る女子学生の話によると、彼女は今の与党である社会民主党に属しているそうだが、党は原発の賛否をめぐって分裂状態にあるという。

別の一角では、若い職員が数十人の前で何やら講話をしている。聴いているのは、見学に来た大学の教育学部の学生である。「講師」の前には風車や太陽熱装置をとり入れた農場の模型が作ってあり、これからは自然エネルギーに頼る生活に切り変えなければならないし、それが可能であると講演している。辻説法を少し大きくしたような雰囲気だが、話す方も聴く方も真剣な感じである。

国立劇場の職員がこんなことをやっていると知って、その時はぴっくりしたが、鹿児島に帰ってから、オペラ活動にたずさわっている友人の話を聴いて、納得した。

ヨーロッパでは、「都市」における「劇場」の持つ意味は大きいという。日本の「文化センター」の類が、単に施設としての役割に過ぎないのとは異なる。「都市」における「文化」「芸術」「社交」等々の実質的なセンターであり、広場である。

ヨーロッパでは、戦争などで都市が破壊された場合、ガレキのなかから、まず何よりも先に劇場が再建されるという。劇場の職員も、雇われ者としての意識でなく「都市」の文化の担い手であるという誇りを持っているのだ。

ついに、めざす風車に

デンマークの、風車のある学校ツヴィンド校の所在地はウルフボルグだとわかっていたが、そんな地名が載っている地図は日本では手に入らない。

尋ね尋ねて、ようやく辿り着いたのは九月一〇日、日本を離脱して一週間たったあとだった。

事前の連絡により、向こうから学校と風車のことを紹介した簡単な英文の記事のコピーを送ってもらっていたので、どういう学校であり、どうして風車が造られたかの、ある程度の予備知識は持っていた。それによって、ますます関心は高まっていたが、実際に訪問して話を聴き、いろいろ見学するに及び、やはり来てよかったと思い、私達ばかりでなく、もっと多くの日本人がこの学校を知るべきだと思うようになった。そして、情報過多といわれる日本で、全く知られていない事実にア然とするのであった。

ストックホルムの劇場仲間から、その風車は七kmから見えるよと、教えられていた通り、汽車がウルフポルグに近づくと、はたして見えて来た。

広々とした牧草地のかなたに雄然と直径五四m、塔の高さ五三mの大風車がそぴえていた。
私達が窓ガラスに顔をつけてながめていると、車掌さんがエコニコしながら、「あれがツヴィンドの風車だ」と誇らしげに教えてくれた。ここの学校と風車はデンマークではすっかり有名で、皆誇りに思っているようである。途中の乗り換え駅で道を尋ねた時も、学校の先生をしているという婦人が、ツヴィンド校は大変良い教育をしていると誇らしげだった。

学校の入口まで近づくと、風車は単に牧歌的な風景のワクにはおさまらなくなる。ますます視野に大きくなる風車は、もう風車以上の存在に見えてくる。

偉大さとでもいうか――過去、人類はいろいろな巨大な造営物を構築した。バベルの塔、ビラミッド等々、しかしそれらは専制君主の絶大な権力と奴隷の存在によって初めて可能になった。宇宙ロケットに代表される近代工業社会の巨大造宮物も基本的には変りない。デンマーク中の多くの自主的に集まった人によって造られたこの風車こそ真に二〇世紀から二一世紀をつなぐ、人類の巨大な記念碑でないかと思える。

ミス達が造った

案内された室は来客専用のゲストルームである。

ウルフポルグの駅から四kmも逆風をついて歩いてきたので、出された紅茶が大変おいしく感じられた。

室内には、学校のシンボルである風車の写真のポスターが貼ってある。隅のテーブルの上には、第三世界の実情を伝える学校作製のパンフレット類が展示されている。学校全体の建物が木造りでガッチリしているが、無駄やぜいたくがない。床にはじゅうたんの代りに、麻の布地が敷きつめてある。質実剛健という感じである。

校長はエヴァ・ウェスタガードという女性だが、この学校は校長だからどうということもないみたいである。まず校長に挨拶してなどということもなく、結局、私達は一度も校長には会わなかった。
私達を接待してくれた人は、ドルトという若い女性であった

ミス・ドルトは、一九七六年、学校が風車を建設することを決めて、デンマーク中に協力者を募った時、それに応じてコペンハーゲンからやって来た。風車が一応完成した現在は、絶え間なく訪れて来る見学者のための接待係(ゲストグループ)をしている。

およそ日本では、まず何か造るという話に、女性、特に若い女性が主体的に参加するなどという話は聞いたこともなかった。例えば、日本の大学の工学部に女性が入る例は、まず稀である。(当、「葬る会」にも、それはいえる)

ドルトは特に技術系の教育を受けたわけではない。いわばしろうとである。風車はドルトのように専門家でない素人が集まって造り上げたという。専門家といわれる人達も協力はした。しかし、あくまで素人が中心になった。しばしば素人の方が良いアイディアを出し、専門家の誤りを正した。

日本では、専門家と呼ばれる人は一般に素人と一緒に仕事をすることを好まないものだが……と問いかけると、そういう事情はデンマークでもあまり変りませんとのことである。

素人といっても、彼女らがいつまでも「素人」にとどまっていたわけではない。風車を作る過程で、披女らは専門家から知識を吸収した。互いに徹底的に納得するまで討論をした。ある線以上は専門家にゲタをあずけてしまう意味での素人でなく、総合的に理解、判断した上で、対等に専門家との関係をつくる「素人」である。「スベシャリスト」に対する「ジェネラリスト」とでもいうべきか。

この学校に驚いた

風車のポスターには「さあ一〇〇の風車を花咲かせよう!」と書いてある。風車を花とすれば、それを育てた土壌はこの学校である。学校を見学したり説明を聞いて、大きく美しい花を咲かすには、いかに良い土壌が必要なのかが良くわかった。

学校の創設は新しく、一九七〇年である。日本では大学斗争がほぼ終結して、シラケ時代を迎えた頃である。

「国家百年の計を案する」というが、先生達の創設した学校は、デンマークの百年を案じた教育をやる。

日本を含め西欧社会は、いわゆる第三世界と呼ばれる発展途上国から石油などの資源や、安い労働力という形で人的な資源を盗んで今日の工業社会を築き上げ、うたかたの繁栄を楽しんでいる。デンマークでも、都市の下層労働者は、トルコなどの出稼ぎ労耕者である。デンマークの人達は、これらの人に無関心で理解しようとしない。

そのような関係からは、将来の長きにわたっての真の友好的な関係は生まれるはずはない。先生達は、これからのデンマークの真の行き方を教え、学習するための教育をめざし、自分達で身銭をはたいて土地を買い求め、学校を創設した。

最初に創られた学校は「旅行する学校」である。第三世界を見学する学校である。18歳以上なら国籍を問わず誰でも入れる。見学した内容をまとめたりする作業はあるが、いわゆる試験はない。その代り、卒業しても何か特権が与えられるわけではない。入りたい者が入り、学びたいことを学ぶ自由学校である。在学軌間は17カ月で、最初の2カ月は旅行の準備期間、4カ月を旅行に過す。帰ってから3カ月を整理総括に費やす。5カ月をデンマーク国内で労働に従事しつつ学習サークルで学ぶ。最後の3カ月でもっと進んだ学習と社会問題のつっこんだ研究をやる。

もともと先生達の身銭で創設された学校だが、あとで国に公認させ資金的な援助もさせている。
細かくいえば、学生一人当たりに使う費用は、最初の九カ月で約42万円かかる。国は14万円と、費用の半分を占める先生の給料、寮費等の85%を援助する。学生の払う金は、約四割の17万円である。

準備期間の2カ月に、学生は訪問する国の地理、歴史、経済、語学を学ぷ。デンマークは農業国として知られているのに、学生は都市出身で実際に農業を知らない者もいる。そこでその学生は農村に出かけて、受農しながら農業を体験する。机上の学習はかりでなく実践学習も入っているのだ。

中古(というより、むしろスクラップ)のバスを買い入れ、学生みずから整備し、内部を改造して車内に宿泊したり、炊事をしたり、資料を整理したりできるようにする。一台のバスに10人の学生と先生が一人つく。

彼等がどのように旅行するのか、また同じツヴィンド校にある「先生になる学校」や「高校」について、風車をつくった過程等々話は尽きない。そしてコペンハーゲンヘ、フランス、アメリカへと旅は続くが、ぼつぼつと報告していきたい。

油まみれで

風車の話に入る前にこの学校への理解をもう少し深めておきたい。

話を少し戻すと、学校に初めてついた日、ミス・ドルトから学校全休をざっと案内してもらった。
いろいろ見たなかで、「旅行する学校」の学生らが何台もの古バスを修理している光景があった。バスを修理する作業は、この学校ではカリキュラム(学習内容)に入っているのだ。

しかし、その日は日曜だった。日曜日は学生の行動は自由であるが、彼らは自主的にやっているとのことだそうである。学習することと遊びとの区別などあまりないのかもしれない。

更に驚いたことには、バスに近づいてみると、作業衣を着て車の下で油まみれになって作業しているのは、うら若い女性なのだ。

もちろん、男子も同数近くいるが、こういう作業は女はやらないものだという、日本でつくられた固定概念はみごとにくつがえされる。しかし、何ともいえない解放感がある。

日本などの「公教育」の体系では車の下にもぐるのは実業系高校のたぐいである。普通、進学校に較ペて実業系高校は世の日当りはよくない。その実業系高校でも、車の下にもぐることは、男子の役割と分類され、女子がそうしたマネをすれば笑いものであろう。

競争原理によって選別され、序列をつけられ、分類されることを原則とした日本などの「公教育」の理念が、根源的なところでくつがえっているのである。驚きのなかに含まれる解放感はそんなところから由来しているのではなかろうか。

風車をつくる場合に限らず、あらゆる学習、仕事内容に関して、一切男女の区別をつけないということは、学校の原則なのだ。

先生と生徒の区別もない

どうも、この風車の学校は普通の学校とは根本的なところが違うようだ。

そこで、学校そのものをもっと知りたいという私の希望に応えて、翌日はドルトに代ってミス・パットが学校の内容と活動について説明してくれた。

パットはこの学校に来る前は看護婦だったが、「旅行する学校」の卒業生でもあり、現在はゲストグループの一員である。

学校を案内されるなかで、この人が先生ですと紹介されたことは一度もなかった。尋ねても、そういうことは余り重要なことではないという返事である。先生、学生の関係は、日本のそれみたいに、上下、依存、被依存の関係ではないようだ。

学校は全寮制で、先生も学生も先生の家族も一緒に校内に住んでいる。食事は一緒に食堂で取るが、皆セルフサービスでつぎ、皿はめいめい自分のを洗う。

バットは、或る年配の男の人を指し、あの方はこの学校に来るまでは大学で物理の教師をしており、高い学歴を持った人なのですと、教えてくれたが、そんな人でも例外なく、食事が済んだらさっさと自分の皿を洗うのである。

食堂の話を続けると、さすがに農業国だけあって、ミルク・パター・チーズなどの乳製品は豊富だが、料理はあまり手はこんでおらず質素な感じである。

食堂には白黒テレビがあるが、皆ニュース以外はみない。数年的、伊方原発阻止労学共斗会議の現斗小屋を訪れた時、テレビはニュース以外はつけないこと、という内部規律を彼らが持っていたが、久しぶりにそんなとこに行ったような気がした。

一般にヨーロッパは、日本みたいに朝から晩までのべつまくなしに放映していないし、日本程カラーテレビも普及していないようだ。

たまたまその日のニュースは、デンマークの総選挙に関する内容だった。
選挙には皆関心がないようだし、こちらも興味がなかったが、あの小さなデンマークに政党が二十幾つもあると聞いて、さすがと感心する。

旅の準備

さて、「旅行する学校」の話の続きである。

パットがスライドを使いなから説明してくれている。

バスを改造して、11人がそれに乗って一緒に生活しなから旅行するわけだから、生活上の問題も重要な学習課程である。

出発前の二カ月の準備期間に、食事についても男女全員が分担してやれるように訓練する。皆が皆、一週間分の献立を組み、食料を買い入れ調理することを学ぶ。女子でもバス修理などメカニックなことか扱えるようになり、男子でも料理などを学び、完全に両者が両方ともできるようになるわけだ。もちろん、男子学生にとっても、バス修理など未経験者がほとんどなのだが。

学生の出身階層は大工・船乗り・学生・教師。失業者などさまざまで、学校に入る資金も自分でかせいでつくる場合かほとんどである。バラバラな人々が、互いによく知り合うように努めるのも大事な準備である。

誰でも、外国に出た時一番困るのがコトバの問題である。学生は出発前の二カ月に英語ぐらいは完全に話せるように訓練する。しかし、旅する先で英語が通じるところは一部の教育を受けた人々に過ぎない。学生達が一番接しようと希望する民衆は、まず英語が通じない。そこで彼等は、身ぶり手ぶりで意志を伝える。お互い人間としての気持が通じ合うとこまで民衆に近づき、コトバの壁を乗り越えようというわけだ。

自立とは何か

旅行の話とは少しずれるが、スウェーデン・デンマークの人々は一般に英語がうまい。日本だったら大学を出るまで英語を習っても、しゃべれるかどうかは全く別の話である。

むこうは、どんな階屑の人でも、しゃべれる人はしゃべれる。千年前まではデンマーク語も英語も同じ言語だったというから、互いに方言みたいなものであろう。何語が共通語になるかはその時代の政治的な力関係のようだ。デンマークの学校では、戦前は第一外国語としてドイツ語を教えていたが、戦後は英語になったという。

琉球・奄美人にとって、日本は外国であることは、本土住民には絶対に理解できまい。奄美から薩摩に出てくる若者は、二カ国語の外国語を学ぶ。一つは薩摩弁であり、一つは標準語といわれる共通語である。母国語は奄美語(それも、奄美本土・徳之島などにより、少し違う)である。

デンマークも英語国民も、民族的には奄美と薩摩ほどの違いもないのであろうが、デンマークみたいに人口、国土の広さ、資源、いずれをとっても問題にならないほどの小国が、独立国として自立している事実は、奄美、琉球の自立を考える上で大きな示唆を与えるのではないかと思う。
こういう学校を生み出すこの国の社会背景にも思いは及ぶのである。

民衆に接する旅

さて、出発の準備なり、いよいよ学校を出発する日は、学校ぐるみで見送る。自分らでつくった見送りの歌を歌いながら。

総数何台かのバスを連れて行くにしても、日本の修学旅行みたいに全部が全部同じコースをとるわけではない。互いに違うコースをとり、また或る町で一緒になって互いに見たものを話し合う。

訪問する国は年度によって異るが、アフリカの各国、トルコ、アラブ諸国、イラン、アフガニスタン、インド、パキスタン、インドネシア、タイ、ベトナム、中国、朝鮮にまで及ぶ。

学校の建物の外壁には、訪問したコースを図示した地図と、各地の写真を貼り、簡単な説明文を添えた大きなパネル板が幾つもあった。

学校に来る見学者が、この学校の活動について知ることができるようにしたはからいである。風車の建設を始めてからは毎日見学者が絶えず、今年(もう昨年になるが)の6月から8月の夏休みの期間に実に一万四千人が訪れたという。

バスで旅行するにしても、旅行中ずっとバスに乗りっぱなしというわけではない。途中、バスから降りて十人がバラバラに分かれて、互いにヒッチハイクをしたり歩いたりして、各国の村人と話し合って見聞を行ない、あらかじめ打ち合わせた次の町に集まる。

なるべく多くの事物を近くで見、多くの人と出会い、直接ハダで接することが旅の目的だからである。

そのようにして初めて、デンマーク国内では絶対に見ることのできない、出稼ぎのトルコ人が彼等の本国でどういう生活をしているかを、じかに知ることができるのだ。

トルコ本国では失業率か高いので、仕事がなくティハウスやバーに昼間からたむろしている人が多い。工場も、たいがいデンマークのビール工場などの外国資本である。トルコ独自の産業として製綿、綿織物の工場があるが、極めて少く、多くの失業者がいるわけである。そのような人々とじかに接してみると、人なつこく話しかけてきて、時には自分の家に案内してくれ、一緒に生活させてくれることもあるのだ。

じかに知る大切さ

アフガニスタンでは人々が牛馬のように立労働している光景も見た。老人が背いっぱいの荷物を担いだり、引っぱったりしているのである。

ゲストルームのスライドの画面には、老人が石だたみの路上を体以上の大きな荷物をかつぎ腰を曲げなから、よろよろ歩いている光景が映し出されている。

インドでは、農民はやせた土地に原始的なやり方で手で稲を植えている。貧しい人々は土地を持たないが、持ったとしてもやせたわずかな土地である。多くは小作人なのだ。

この旅行に参加したパットの話によると、「土地を農民に」というキャッチ・フレーズのキャンペーンをインドの農林省がしているのを見て、農林省を訪ねて行った。大臣や役人らは、得々として成果を語り、生産が向上した話をしていた。ところが貧しい農民を見、彼らの労働を手伝いながら聞いてみると、インド政府の言うことと、実際は大分ちがっていることを実感したという。

バットの説明の合間に、日本の住民運動を代表するものとして、海外で広く知られている三里塚の斗いが、彼らにどのように受けとられているか聞いてみた。「ナリタ」の斗いが、マスメディアを通じて歪曲せずに伝わるはずがないという確信みたいなものかあったからである。

パットはきっぱり、「そうです、マスコミを通じて私達に入る情報は、ナリタはテロリストの斗いとして伝えられています。しかし私達は、或る集まりに参加し、そこでナリタ斗争に関する映画を観て、あの斗いが農民の斗いであることを知りました」といった。

これは全く偶然だが、私達がこの学校を訪れている間、入れ違いに「旅行する学校」の学生が日本を訪問し、一部が三里塚を訪れ、一部がヒッチハイクで南下して、水俣、鹿児島の私の友人の家まで訪れたというからびっくりした。私の友人も、私が帰ったらびっくりさせてやるつもりだったらしい。世界は広いようで狭い。

学習から実践へ

学校に帰ってから、見聞して来た内容を整理し、理論づけて、学校で報告会を持つ。学内ばかりでなく、町でも報告会をやる。報告会には、単に見聞して来た内容ばかりでなく、四カ月の共同生活でうまくいかなかった話も、合わせて報告する。

ゲスト・ルームに展示してあるバレスチナやインドに関するパンフレットはこうした活動によってまとめられたものである。こうして得た第三世界に関する知識を、学校は単に知識としてとどめておくわけではない。パットが、或る建物のかげに案内してくれたが、そこにはタルや木箱があった。モザンビーク解放戦線に贈る医薬品であるという。

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