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南島学アーカイブ

南島学ヱレキ版2012年9月号目次

南島学ヱレキ版

*ルポルタージュ

欧米、風車の旅(橋爪健郎)
1970年代半ば、当時鹿児島大学理学部助手だった橋爪健郎は九州電力の川内原発(鹿児島県川内市)の反対運動の中で風車による発電に着目。現在は原子炉炉心となっている土地の上に、反対運動のシンボルとして小規模な風車を実際に造り上げた。
さらに、川内原発建設着工後もその風車熱はますます嵩じ、ついに、1978年には風車の本場である欧米への視察旅行を果たした。
現在では忘れられてしまった、当時の欧米におけるオルタナティブ運動体の貴重な同時代ルポルタージュである。

南島学ヱレキ版2011年12月号目次

南島学ヱレキ版

*論文

多様性をささえる共通デザイン――大阪万博におけるストリートファニチュアとサイン計画から(橋爪太作)
鉄道や公共施設の統一的で分かりやすいサイン看板、規格化された街灯や電話ボックスなど、今日我々が当たり前のように利用し、風景の一部となっているさまざまな公共空間のデザインの日本における起源は、おそらく1970年の大阪万博である。
当時考えられていたストリートファニチュアやサイン・システムのデザイン理念を明らかにした上で、それが一般化して以降のものと比較していかなる共通点と特異点が存在しており、またそれらの特質はどこから来てなぜ受け継がれ(なかっ)たのかを考える。

*文芸

海な見つめそ――ゴンゾネに潮嘯(ちょうしょう)起って(船木拓生)
昨年の「大根が降る――尚友さん頌詩」に続く、船木拓生氏によるトカラ列島への詩的アプローチ。これまで「ナオの南風語り」や「南島学らいぶとーく」で扱われたさまざまな主題に奔放な詩的想像力が刺激され、かつてない東シナ海をめぐる幻想世界が出現した。

南島学ヱレキ版2011年6月号目次

南島学ヱレキ版

*論文

青海丸(稲垣尚友)
むかし、トカラに青海丸という一隻の艀船 があった。臥蛇島(がじゃじま)のために建造されたこの船が、昭和45年の同島無人化によって、隣の平島(たいらじま)へと払い下げられるところから物語は始まる。青海丸をめぐり、島の男たちはいっせいに動き始める。ここそこで繰り広げられる権力と贈与の駆け引き。そして、平等主義社会は取り返しの付かない変質を始めた。
ぬるぬるするコンピュータ2.0(橋爪太作)
前稿「ぬるぬるするコンピュータ」(『南島学ヱレキ版』2010年5月号)に引き続き、近年コンピュータのインターフェイスを語るうえで使われる「ぬるぬる」という奇妙な言葉について考察する。今回はネット上での「ぬるぬる」の具体的な使用場面に踏み込んだ分析がなされる。

南島学ヱレキ版2011年2月号目次

南島学ヱレキ版

*論文(特集――トカラの「いま」)

トカラ列島平島社会の平準化/分化原理 同 論文要旨(初出 東京大学教養学部超域文化科学科文化人類学分科2011年度卒業論文)(橋爪太作)
トカラ列島平島という極小の社会は、その中に無限の奥行きをもったひとつの小宇宙である。数百年の時間と普遍的な比較のなかで平島をみたとき、そこに浮かび上がるのはいかなる共同性のありかたであろうか。グアヤキ・インディアンや室町将軍、フランスやアメリカの人類学者たちから見た島の姿。(リンク先はPDFファイルです)
函数時計を持ち込んだ遠島人(稲垣尚友)
かつて、シンケイを病んで鹿児島の病院へ向かう遠島人の末裔の男をやさしく飲み込んだ島は、いまや野放しにされた純粋な狂気が許される場所になった。この間に起こったことは、近代の技術と諸制度による時間のとまらない加速であった。遠島人の「気位」と近代の時間が共鳴する。
呑みこむ島の聖暴力(船木拓生)
稲垣尚友の「南風語り」に触発された文章の第二弾。主体としての個人を呑みこみ続けてきた島に対し、生涯をかけて抗し続けてきたウンドウジイと遠島人、そして稲垣尚友をめぐる思索から、島が島として存立する基層へと大胆に斬り込む。

南島学ヱレキ版2010年9月号目次

南島学ヱレキ版

*論文

無人島開拓――諏訪瀬島の藤井富伝(初出『あるくみるきく』190号、日本観光文化研究所)(稲垣尚友)
噴火によって無人島と化していた諏訪之瀬島を明治初年に開拓し、今日の島の礎を築いた藤井富伝。ふとしたきっかけからその生涯をたどり始めた筆者は、「開拓を通じて天下国家に尽くした偉人」という一般的なイメージとは異なる、もうひとつの隠された富伝像をさぐりあてる。
古代・中世を中心とした南西弧における境界の諸相について(初出 2005年度ラ・サール高校情報科授業)(橋爪太作)
東シナ海に広がる南西弧の島々は、古くから人と物の行き交う海上の道であったが、いま文献・考古の両面からこの地域の歴史が急速に明らかになってきている。古代から中世にかけての南西諸島史をコンパクトにまとめたスライド集。
風車問答(橋爪健郎)
風車をめぐるさまざまな疑問を問答体でやさしく解説。デンマークで近代風車が作られた思想的背景、エネルギー源としての信頼性、自然エネルギーの制度的保護の必要性など、イメージ先行で語られがちな「オルタナティブ・エネルギー」を、現実の社会との接点から説き起こす。
現代における生のあやうさとその忘却(橋爪太作)
石炭、石油、電気、ウラニウムetc……我々の生きる近代は、それまでとは比較にならないほど巨大な暴力を馴致することに成功し、そのことで未曽有の快適性と繁栄を享受している。しかし、それは一歩間違えば未曽有の悲惨と死が待ち構えていることと同じである。なぜ我々は、それにもかかわらず平気で生きられるのだろうか。

南島学ヱレキ版2010年7月号目次

南島学ヱレキ版

*論文

恩義は暴力か(稲垣尚友)
宮本常一氏らの努力によって成立した離島振興法は、公共事業やインフラ整備等でトカラにもおおきな恩恵を与えた。しかし、急速な外発的発展は島の社会にあるひずみをもたらした。島のそとから力をもたらす特異な性能を持った「村議」という存在を、「暴力」につながる異質な権力の萌芽として読み解く。
大根が降る――尚友さん頌詩(船木拓生)
1970年代のトカラ列島平島は稲垣尚友邸に飛び込んだ一本の大根と、そこから広がるイメージの海を、詩という形で表現した。原稿用紙7枚にわたる一大叙事詩。
(以前「トカラ塾メールマガジン」で配信したものと同じですが、今回は原稿をそのままデジタルスキャンした形で掲載させてもらいます)
民主運動としてのデンマーク風車発電(橋爪健郎)
なぜ小国デンマークは風車発電の世界企業をいくつも輩出しえたのか? その背後には、68年革命を経て自由でコントロール可能なエネルギーを求める民衆の巨大なうねりがあった。公共圏に育まれたテクノロジーとして風車発電をよみなおす技術/社会史の試み。

南島学ヱレキ版2010年5月号目次

南島学ヱレキ版

*特集――知覚の考古/考現学

皮膚の理解力(稲垣尚友)
テープレコーダーから流れてくる隣島のジイの呼びかけに心からの親しみをもって応答する平島のバアと、テレビの演出に「不自然さ」を見てとる著者。『古事記』やP・ヴァレリーなど東西の古典を渉猟しつつ、ありえたかもしれない音と言葉の間の幸福な対話に思いを巡らす。
(この論文はみずのわ出版より刊行予定の稲垣尚友著作の一部です。出版前の原稿の転載許可を下さった同社の柳原一徳氏のご厚意に感謝いたします)
「南風語り」の会のおもしろさ(南風語り第8回「うつる――音とコトバ」から)(船木拓生)
第8回南風語りでの議論を発展させ、「うつる」という言葉に現れた人間の本源的な模倣=表象能力、そして名指されることへの素朴なおどろきを読み解く。「うつる」ことが理解できない我々は彼らにくらべて進歩したのではない。むしろ、自らの知覚に含まれた他者からの呼びかけに対し、恒久的な忘却を続けているのである。
ぬるぬるするコンピュータ――iPhoneの広告表現にみる情報社会の変容(橋爪太作)
論理の固まりのコンピュータに、なぜ「ぬるぬる」という形容がなされるのか? 情報技術を語る言葉に生じたある変動を手がかりとして、膨大な情報への接続能力を得た代償としての現代的な不安を考察する。

*論文

地球温暖化とエネルギー問題の虚構(橋爪健郎)
「原子力ルネッサンス」「スマートグリッド」「グリーン・ニューディール」etc…エネルギーをめぐって飛び交うさまざまな言葉のウソを一刀両断。今や全世界的問題となったCO2削減「ゲーム」の裏では、非民主的かつ中央集権的な電力供給の戦時体制が温存され続ける。社会のアーキテクチャを語る言説の最前線は、情報じゃなくて電力だ!

南島学ヱレキ版2010年3月号目次

*論文

島の知識人(稲垣尚友)
「ナオはビンタが良かで、欺さるんなよ」…何気なく投げつけられた島人の言葉が、30年の時を超えて新たな意味を持つ。毎日が土方の島において、「知識人」は常に周縁から発生する。それは島にある決定的な断層をもたらす、異質な権力の萌芽であった。
特攻の記憶と痕跡――社会的神話と個人的想起の間で(橋爪太作)
近代戦における特異な行為としての「特攻」をめぐる個人と社会の相克を、「不時着帰還者」「脱走者」といった、通常特攻を語る文脈では等閑視されがちな例外事例の検討から照射する。今日、はたして我々はあの戦争を本当に「語る」ことができるのか?
イメージのユートピア(日高利泰)
同時代を生きた二人の思想家、Th.W.アドルノとW.ベンヤミンは、かたや「文化産業論」、かたや「芸術の政治化」と、近代複製技術に対し対照的な評価を下したことで知られる。ヘーゲル以降の精神史をたどりつつ、ともすれば「暗い」の一言で片付けられてしまいがちなアドルノの議論に、絶対精神の夢が悪夢へと転じた時代における倫理的アクチュアリティを見いだす。
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